駆逐艦 雪風


主錨



主錨

(広島県江田島市・海上自衛隊第1術科学校)





(平成18年3月20日)

駆逐艦「雪風」の主錨

駆逐艦「雪風」は日本海軍の陽炎型駆逐艦18隻中の1隻で、昭和15年1月に佐世保海軍工廠で完成した。
太平洋戦争では戦史に残る主要な海戦にはすべて参加、沖縄特攻にも戦艦「大和」と共に行動したが、無傷で生還した。
戦後連合軍に接収され、当時の中華民国海軍に引き渡された。
軍艦「丹陽」と改名した雪風は同海軍の旗艦として活躍していたが昭和44年台風で船底が破損したため解体された。
この錨は雪風の記念品として昭和46年10月22日、同国政府から雪風保存会に送られ、同会から海上自衛隊に寄贈されたものである。

(説明板より)

旧海軍兵学校跡


海上自衛隊
第1術科学校・幹部候補生学校
(広島県江田島市)

旧・海軍兵学校



(平成18年3月20日)

学校の歴史

江田島は、風光明媚な広島湾に位置して、東は呉市に、北は広島市に、西は那沙美島を隔てて名勝安芸の宮島に相対し、南は佐伯郡能美島に連なり、また、早瀬大橋、倉橋島、音戸大橋を経て呉市に通じています。
海軍兵学校は明治21年(1888)8月東京築地からこの江田島に移転以来、アメリカのアナポリス、イギリスのダートマスとともに世界3大兵学校としてその名は広く世界が知るところとなりました。
終戦により昭和20年12月1日、約60年の幕を閉じました。
以後の10年間は連合軍が教育施設等に使用しました。
昭和31年(1956)1月返還され、当時横須賀にあった術科学校が当地江田島に移転、その後、昭和32年5月10日に幹部候補生学校が独立開校し、現在に至っています。

(パンフレットより)


【雪風】

昭和17年2月27日 スラバヤ沖海戦に参加。
昭和17年10月26日 南太平洋海戦に参加。
昭和17年11月13日 第三次ソロモン海戦に参加し小破する。
昭和18年3月3日 ビスマルク海海戦に参加。
昭和18年7月13日 コロンバンガラ島沖夜戦に参加。
昭和19年6月19日 マリアナ沖海戦に参加。
昭和19年10月25日 レイテ沖海戦には栗田艦隊に属してサマール沖海戦に参加。
昭和20年4月7日 坊ノ岬沖海戦に参加。
開戦以来、8回の海戦に参加して生き残った随一の武運めでたい艦である。
終戦時に小破のまま舞鶴に残存。

陽炎型

海軍軍令部は、それまでの駆逐艦では速力と航続力において不十分と認め、36ノットの速力と18ノットで8000キロの航続力をもつ新型駆逐艦の新造を望んだ。
しかし、一方では、あまり艦型が大型化しないことを条件とした。
これに対し、技術陣の努力により、速力を35ノットとすれば、要求に近いものが出来ることがわかった。
昭和12年の第3次補充計画で建造されることが決まり、その後の第4次計画を含め18隻が建造された。
主砲として12.7センチ砲6門、61センチ魚雷発射管3門。
艦尾の形を改良して最大速力35ノットを得た。
陽炎型はあらゆる点から見て申し分のない駆逐艦であり、、夕雲型と共に戦時に活躍した日本駆逐艦の中心だった。
吹雪型の「特型」に対して、「駆逐艦甲」と略称された。

(同型艦)
陽炎、不知火、黒潮、親潮、早潮、夏潮、初風、雪風、天津風、時津風、浦風、磯風、浜風、谷風、野分、嵐、萩風、舞風の18隻

(参考:『日本兵器総集』 月刊雑誌「丸」別冊 昭和52年発行)

(平成23年7月25日追記)


【逆探】

昭和18年(1943年)4月、日本で最初の逆探が『雪風』に装備され、同年7月のコロンバンガラ海戦で初めて逆探を活用したという。
すなわち、7月13日午前0時55分に敵艦隊を約1万メートルの距離で視認する30分も前に逆探で敵レーダーを探知したという。
その殊勲者である通信長は海軍有数の名通信士で、この海戦後、空母『翔鶴』へ逆探操作の指導に赴いたとされている。

(参考:徳田八郎衛 著 『間に合わなかった兵器』 光人社NF文庫 2001年発行)

(平成25年8月25日 追記)


【三式水中探信儀】

昭和16年、太平洋戦争勃発数日後にドイツから帰国した海軍側技術使節団が手に入れたソーナーを参考に、昭和19年に、ついに三式水中探信儀を完成させた。
三式水中探信儀は14ノットで走っている際、敵潜水艦を1000メートルで、また6ノットに減速すれば、2500メートルまで探知できた。
これには4つの種類があり、速力の低下を防ぐために、敵潜水艦をキャッチするときだけ、艦底部から発信機、受信機が下りる。
駆逐艦用はこれが出っぱなしだが、流線型カバーのついた海防艦用、簡易式の潜水艦、商船用があった。

第17駆逐隊の「雪風」「浜風」「磯風」などは、旧型の九三式水中探信儀のため、護衛中の戦艦「金剛」、空母「信濃」を敵潜水艦に沈められてしまったので、慌てて、三式水中探信儀に取り換えている。

(参考:木俣滋郎 著 『幻の秘密兵器』 光人社NF文庫 1998年8月発行)

(平成31年4月20日 追記


大日本帝国海軍 軍艦超精密模型展
宮城県護国神社(平成21年11月9日訪問)

陽炎型駆逐艦 雪風


基準排水量 2,033トン
乗員 239名
全長 118.5m
全幅 10.8m
出力 52,000馬力
最大速力 35.5ノット
主要兵装 50口径12.7cm連装砲 2基4門
       61cm4連装魚雷発射管 2基8門
       爆雷投射器 1基
       爆雷投下条 2基
       他 機銃等
(説明プレートより)

太平洋戦争(1941〜1945年)開戦以来常に最前線で戦い、主要な海戦のすべてに参加して、最後の海戦沖縄特攻作戦には戦艦『大和』と共に戦い無傷で残った日本海軍一の名艦(武勲艦)である。
その主たる戦果は潜水艦2 駆逐艦4 護衛空母1撃沈 軽巡ホノルル・リーンダー等 数隻撃破、航空機撃墜21機

主なる要目(佐世保海軍工廠で竣工 1940年 昭和15年)
排水量 2,500トン
全長 118.5m
最大巾 10.8m
吃水 3.76m
スクリュー径(2基両舷) 3.3m
出力(タービンエンジン) 52,000Hp
速力 35.5ノット
距離 18ノットで6,000浬
主砲 12.7cm連装 2基
発射管 4連装 2基
魚雷 61cm16本 爆雷18〜36個
機銃 25ミリ3連 5基 単装12丁

(説明プレートより)


スラバヤ沖海戦

昭和17年(1942年)2月27日〜28日

日本軍 艦隊編制
 第5戦隊 司令官:高木武雄少将
重巡洋艦 那智 羽黒
駆逐艦 潮 漣 山風 江風
第2水雷戦隊 司令官:田中頼三少将 
軽巡洋艦 神通
駆逐艦 雪風 時津風 初風 天津風
第4水雷戦隊 司令官:西村祥治少将
軽巡洋艦 那珂
駆逐艦 村雨 五月雨 春雨 夕立 朝雲 峯雲
別働隊(蘭印作戦主隊) 司令官:高橋伊望中将
重巡洋艦 足柄 妙高
駆逐艦 雷 曙
第3航空戦隊 司令官:角田覚治少将
空母 龍驤
駆逐艦 敷波
輸送船:38隻

スラバヤ沖海戦・2月27日の昼戦(16時12分〜17時15分)

日本軍:第5戦隊・第2水雷戦隊・第4水雷戦隊
連合軍:ABDA打撃艦隊(米・英・蘭・豪)

16:12、英・駆逐艦『エレクトラ』が東部ジャワ攻略部隊を発見。
彼我艦隊の巡洋艦同士の砲戦が始まり、続いて雷撃戦が展開。
17:15、蘭・駆逐艦『コルテネール』が真っ二つに折れて轟沈。
18:00、英・駆逐艦『エレクトラ』が沈没。
18:20頃、高木司令官は追撃を中止し、輸送船を掩護しながら、夜戦に備えて陣形を整える。

ABDA打撃艦隊は、戦闘中に自艦の爆雷が落下して爆発し艦尾を損傷した蘭・駆逐艦『ウイッテ・デ・ウィット』を大破した英・重巡洋艦『エクセター』の護衛に付けてスラバヤへ向わせた。
米駆逐艦4隻は、昼戦で離れ離れになり主隊と合流できず、魚雷を使い切り燃料も少なくなってきたため、独自にスラバヤ行きを決める。
英・駆逐艦『ジュピター』は、味方が敷設したと思われる機雷で沈没。
英・駆逐艦『エンカウンター』は米・重巡洋艦『ヒューストン』が人道的見地から打ち上げた照明弾のおかげで、沈没した蘭・駆逐艦『コルテネール』の生存者113名を救助し、スラバヤへ向う。

スラバヤ沖海戦・2月28日の夜戦(23時00分〜23時47分)

日本軍:重巡洋艦『那智』『羽黒』
連合軍:米・重巡洋艦『ヒューストン』、蘭・軽巡洋艦『デ・ロイテル』『ジャワ』、豪・軽巡洋艦『パース』

23:00、巡洋艦4隻となったABDA打撃艦隊は『那智』と『羽黒』に遭遇、砲戦が開始された。
23:22、『那智』『羽黒』の両艦は計12本の魚雷を発射。
旗艦である蘭・軽巡洋艦『デ・ロイテル』と同じく蘭・軽巡洋艦『ジャワ』が被雷して沈没。
指揮官のドールマン少将は艦と運命を共にする。
米・重巡洋艦『ヒューストン』と豪・軽巡洋艦『パース』はバタヴィアに向って離脱。

この海戦での日本側の損害は、駆逐艦『朝雲』が大破したのみ。

その後

スラバヤへ逃げ込んだ英・重巡洋艦『エクセター』は応急修理ののち、英・駆逐艦『エンカウンター』と米・駆逐艦『ホープ』とともにセイロン島への脱出を試みるが、3月1日、日本艦隊・別働隊(重巡洋艦『足柄』『妙高』駆逐艦『雷』『曙』)に捕捉され、昼過ぎまでに全艦が撃沈された。

バタヴィアに逃げ込んでいた米・重巡洋艦『ヒューストン』と豪・軽巡洋艦『パース』は、再編成のためチラチャップへ向う。
途中で発見したバンタン湾の日本の大輸送船団(輸送船56隻)の攻撃に向ったが、日本側の迎撃により3月1日に両艦とも撃沈された。(バタヴィア沖海戦)

(参考:『歴史群像 2012年8月号』)

(平成25年10月21日 追記)


【艦長:寺内正道】

明治38年、栃木県に生まれ、海軍兵学校第55期、生粋の水雷屋であった。
体重23貫、柔道4段、豪放磊落、てらい気等はなく、豪勇無双、斗酒なお辞せざる酒豪であった。

寺内艦長の雷爆撃回避運動は極めて合理的で、生死を超越して敵機の運動を見落とさず、まさに艦が艦長の手足のように動き、大小雨下する敵全弾を回避した。
その腕の冴えは神業かみわざのように見えた。
対空戦闘中、艦長は艦橋の椅子の上に立ち、天蓋を開いて頭を出して指揮された。
爆弾が至近弾となって落下すると、「雪風」はその大水柱の中に入り、今まで全速で大きく傾斜しながら回頭していた艦が、一瞬、水の中でザァーという音のみで浮いているのか沈んで行くのか分からなくなってしまう。
そのうちに水音が消えて、艦は水中から身震いするように躍り出て次の戦闘が始まる。
人間である以上、水柱を浴びると自然に頭が下がり、次の敵機の攻撃を見落としてしまう。
この一瞬、気の緩んだ時、次機に踏み込まれると回避の余裕はない。
寺内艦長は、生死は眼中になく、常に敵機を睨み、敵を手許に引き入れてパッとかわす名人芸の持ち主であった。
また、爆撃の合間には、天蓋から猪首を出し悠々とうまそうに煙草を吸っておられた。
その姿が乗員に限りない安心感と頼もしさを与えた。

昭和53年1月19日に死去。73歳。
翌日の大新聞に艦長の訃報が掲載された。
一駆逐艦長としては希有のことであり、「雪風」艦長の栄光の余韻が残っており、有難いことであった。
真に一生を通じ自己の所信を貫き、一介の武弁として忠節に生き、勇ましく高尚な生涯を送られた方であったと思う。

(参考:田口康生 著 「駆逐艦「雪風」 寺内正道 群がる敵機に操艦の妙」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月14日 追記)


あ号作戦(昭和19年6月19日〜20日・マリアナ沖海戦)

「雪風」は空母等を護衛してサイパン方面に行動、4月上旬に呉に帰投。
次の作戦のためその主力となる第1機動艦隊(小沢治三郎中将)が逐次リンガ泊地に集結した。
「雪風」は5月1日にリンガに到着し、連日、猛訓練が実施された。
5月3日、「あ号作戦準備」が発令。
その要旨は決戦海面を西カロリン方面に選定し、機動部隊とマリアナ列島線に展開している基地航空部隊の攻撃力を集中して米軍を撃滅することだった。
第1機動部隊はリンガ及び内地から出撃し、5月16日までにタウイタウイに集結。
結局1ヵ月近く待機したが、その間、駆逐艦の任務は多忙を極めた。
泊地外に蝟集する敵潜水艦に対する連日連夜の対潜掃討、泊地外での空母の訓練の護衛、その他補給作戦等で、駆逐艦は月間25〜26日走り回っていた。
これらの作戦中に敵潜の犠牲になる駆逐艦もあった。
「雪風」は補給部隊に編入され、機動部隊より一足先にギマラスに回航待機した。
6月12日、米機動部隊がマリアナ方面に猛烈な爆撃を加え、6月13日にはサイパン方面に上陸の意図を示した。
機動部隊は出撃し、一路サイパン西方面に向かう。
「雪風」など補給部隊は艦隊の後方を東進。
6月19日のわが航空攻撃は敵をアウトレンジしたが、圧倒的な数を誇る米戦闘機に阻止されて敗れ、艦隊は退避に移った。
「雪風」等は低速のため敵側に取り残され、6月20日夕刻、米機の攻撃を受けたがギマラスに帰投した。
「雪風」は短艦で呉に帰投し、因島で推進器を交換した。
寺内艦長は「あ号作戦は、あ!あ!と言っているうちにあっけなく終わってしまった。次は頑張らんといかんなぁ」と言っておられた。

捷1号作戦(昭和19年10月20日〜25日・レイテ沖海戦)

次に予想される比島方面作戦に備えて、水上部隊は再びリンガ泊地に集結した。
「雪風」は10月4日にリンガ泊地に到着。
10月17日、米攻略部隊はレイテ方面に上陸の準備を開始した。
我が水上部隊はブルネーに進出。
我が作戦要領は、比島の第1、第2航空艦隊が敵艦隊の邀撃、栗田艦隊(戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15)は北からレイテに突入、西村艦隊(戦艦2、重巡1、駆逐艦4)及び志摩艦隊(重巡2、軽巡1、駆逐艦4)はスリガオ海峡からレイテに突入、小沢艦隊(空母4主体)は敵機動部隊を北方に誘致することであった。
「雪風」は栗田艦隊に属した。
10月22日、ブルネーを出撃してレイテに進撃。
武蔵」以下多くの損害も顧みず、10月25日未明、サンベルナルジノ海峡を抜け、比島東方海面に進出した。
運よく夜明け頃、敵の空母部隊と視界内で会敵した。
「雪風」の周囲にも赤、黄、青等に彩られた美しい敵弾の水柱が奔騰した。
2時間半の追撃戦後、部隊を整理するため集結。
栗田艦隊はレイテ突入を求めて北上した。
その夜、攻撃を断念し、サンベルナルジノ海峡を抜け西航。
10月28日早朝からシブヤン海で敵艦載機、B-24の編隊水平爆撃等を受け、28日夜、ブルネーに帰投した。
「雪風」は11月末、呉に帰り、整備後に内海西部で訓練に当った。

沖縄特攻作戦(昭和20年4月7日・坊の岬沖海戦)

昭和20年1月10日付で改編された第2艦隊は、戦艦3、空母2、軽巡1、駆逐艦11にすぎず、その長官は伊藤整一中将であった。
3月中旬、米軍は沖縄に来攻し、4月1日に上陸を開始した。
我が軍は第2艦隊の「大和」「矢矧」、駆逐艦8隻で沖縄突入の特攻艦隊を編成し、沖縄周辺の敵に突入、弾薬尽きれば陸戦隊となり命尽きるまで戦うこととなった。
特攻が命ぜられたとき「雪風」艦内はとくに動揺はなく、艦長の訓示も簡単なものだった。
4月6日午後3時20分、10隻の特攻艦隊は徳山沖を出撃した。
4月7日朝には坊の岬南西30浬付近を輪形陣で西進していた。
敵機の触接を受け、午後0時半頃から数百機の攻撃を受けた。
午後2時半頃、「大和」は2番砲塔内で大爆発を起こし、黒煙天に沖し、煙が消えた時、「大和」の姿はなかった。
この日、「雪風」を襲った攻撃も凄まじいものであった。
敵機は突っ込んできて、高度600メートルくらいで爆弾を投下して引き起こすので300メートルくらいまで近接し、その間、翼の機銃から火を吐きながら迫ってくる。
艦からも主砲、機銃を撃ち上げる。
顔が見える距離で面と向かい両方の曳痕が交錯して、まさに喰うか喰われるかの死闘である。
この日も艦長の回避運動が功を奏して命中弾はなかった。

「大和」沈没の頃、健在な艦は「雪風」「冬月」「初霜」の3艦のみであった。
「雪風」艦長から「冬月」に乗艦の第41駆逐隊司令へ「このまま沖縄に突入されては如何」との意見具申がなされたが、司令から「ひとまず溺者を救助せよ」との命令があった。
寺内艦長は憤懣やるかたない面持ちであったが、命令とあれば致し方なく、「大和」「矢矧」「磯風」の乗員800名を救助した。
艦長としては、このまま駆逐艦3艦で沖縄に突入すれば、明8日未明に到達し、沖縄周辺の数千数百隻に向かって魚雷40本を撃ち込み、敵に一泡吹かせ、水雷戦隊の有終の美を飾りたく思われたのであろう。
聯合艦隊司令部は「大和」の沈没を知り、「特攻作戦を取り止め、溺者を救助し佐世保に帰投せよ」との命令を出した。
3艦は4月8日朝、佐世保に帰投した。
行方不明であった「涼月」は傷つき後進で午後に帰投した。
「雪風」は「初霜」と隊を組み、5月に舞鶴に回航、同方面の警備に当たった。

舞鶴回航後、寺内艦長は呉防備隊へ転出された。
「雪風」はその後も凄まじい航空攻撃を受け、今までのどの戦闘よりも多くの戦死傷者を出したが、幸いに運よく終戦まで生き延びることが出来た。

(参考:田口康生 著 「駆逐艦「雪風」 寺内正道 群がる敵機に操艦の妙」・『歴史と人物 実録日本陸海軍の戦い』所収 中央公論社 昭和60年8月発行)

(令和2年10月14日 追記)




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