祐天寺

東京都目黒区中目黒5−24−53


祐天寺 平成19年1月12日

祐天寺ゆうてんじ(浄土宗)

祐天寺は、享保3年(1718)祐天上人を開山と仰ぎその高弟祐海上人が創建した寺院です。
当時新しい寺院の建立は幕府の厳しい制約があって困難でしたが、祐天上人のかねてからの強い希望と、祐海上人の大変な努力によって、享保8年「明顕山祐天寺」の寺号が許されました。
以来、将軍吉宗の浄財喜捨や特別の保護を受けるなど、徳川家と因縁のある寺として栄えてきました。
本堂には、「木造祐天上人坐像」が安置されています。
この尊像は、将軍綱吉の息女松姫の寄進で、享保4年大仏師法橋石見ほっきょういわみの名作です(都指定文化財)。
また、祐天寺第二世「祐海上人の木造坐像」(区指定文化財)等が安置されています。
本寺所蔵の「般若心経」1巻、「紺紙金字こんしきんじ法華経巻第三」1巻、(ともに都指定文化財)の2点は類例の少ない逸品です。
なお、境内には、将軍綱吉息女竹姫寄進の「仁王門」(区指定文化財)および阿弥陀堂や稲荷堂、将軍家宣夫人天英院寄進の梵鐘と鐘楼、地蔵堂など江戸時代の遺構を伝える建造物のほか、江戸消防ゆかりのもの、かさね供養塚などがあります。
墓地には、「祐天上人の墓」(都旧跡指定)や柳原愛子やなぎはらなるこ(大正天皇生母)の墓等の名墓及び「白子組並びに灘目の海難供養碑」(ともに区指定文化財)などがあります。

平成3年3月
目黒区教育委員会

(説明板より)

仁王門




仁王門






(平成19年1月12日)

仁王門
目黒区指定有形文化財(建造物)
昭和55年2月12日指定


この仁王門は仁王像とともに、享保20年(1735)の建立で、五代将軍綱吉の息女竹姫が寄進されたものです。
桁行けたゆき8.5m(28尺)梁間はりま4.3m(14尺)棟高むねだか9m(29.6尺)三間一戸八脚門切妻造本瓦葺型銅板葺(昭和6年茅葺かやぶきよりふきかえ)円柱は欅けやき材です。
正面の両脇間に享保20年法橋石見作の仁王像、背面の東脇間に持国天、西脇間に増長天像が安置され、ともに運慶の作と伝えられています。
また、中央間の内側には正面に麒麟きりん、背面に海馬の二獣神を配しています。
なお、頭貫かしらぬき上の蟇股かえるまたには十二支が彫られ、方位を示しています。
各虹梁こうりょう、木鼻きばな、肘木ひじき、蟇股に施された渦紋、若葉紋の彫りは力強さを感じさせ、木割、細部絵様等の建築様式の特徴は江戸中期の性格を留めています。
長い年月の間に幾度か修理・改修されていますが、軸部、組物、細部絵様等に変化なく創建当初の姿を保存しています。

平成5年3月
目黒区教育委員会

(説明板より)

梵鐘



梵鐘







(平成19年1月12日)

梵鐘

この梵鐘は、享保13年(1728)に6代将軍徳川家宣(文昭院)の17回忌追善のため、正室天英院一位大夫人(煕子ひろこ)が鐘楼とともに寄進されたものです。
本体の高さ192cm、口径102cm、目方1,200kgある目黒随一の巨鐘で、祐天寺内で鋳造されました。
翌年の4月14日から16日までの3日間にわたり、祐海上人を導師として鐘楼には葵あおいの御紋付き紫縮緬むらさきちりめんの幕が張られ多数の貴賓が参列し、盛大な鐘供養がおこなわれました。
鐘には、祐海上人が撰文した「明顕山祐天寺鐘銘併并記」をはじめ、六字名号や偈および願文がんもん、時の将軍吉宗、願主天英院、御用懸ごようかかり、工匠こうしょうの名などが刻まれています。
江戸の昔から昼12時に覚醒かくせいの法音として撞かれてきました。
今でも正午に時の鐘として撞かれています。

平成5年3月
目黒区教育委員会

(説明板より)

阿弥陀堂




阿弥陀堂






(平成19年1月12日)

阿弥陀堂
目黒区指定有形文化財(建造物)
平成5年6月29日指定


阿弥陀堂は、五代将軍徳川綱吉の息女竹姫の寄進で、享保9年(1724)4月に上棟されました。
同堂は、木割および細部絵様の簡潔でありながらしっかりとした線刻から考察しますと、江戸時代中・後期の特質を留めています。
各棟札の記載事項は、建築様式および沿革から判断して各々建立時や修復時のものであり信頼度の高いものです。
また、当阿弥陀堂は幾多の修補・修復が行われたにもかかわらず、回祿かいろくや倒壊などによる根本的な再造営は、行われなかったものと考えられます。
祐天寺は由緒ある名刹として有名ですが、このお堂は創建時の姿を伝えるものとして仁王門とともに重要なものです。
特に常行堂としての扱われ方やその基本的な空間構成は往時のままであり、江戸中期の三間四面堂を知る上で貴重なものです。

〔注〕回祿かいろくとは火の神のこと。転じて火災のこと。

平成7年3月
目黒区教育委員会

(説明板より)

かさね塚




かさね塚






(平成19年1月12日)

かさね塚の由来

祐天上人は増上寺第36代の大僧正で徳川家5代〜8代まで歴代将軍の帰依を受け、四海に響く名僧であった。
寛文8年の頃、上人飯沼弘経寺に在住の頃、累かさね一族の怨霊おんりょうを化益された事蹟あり。
文政年間、鶴屋南北つるやなんぽくが歌舞伎に脚色上演し、天下の名作との誉れ高く、上人の遺徳愈々高まる。
大正15年、六世尾上梅幸、十五世市村羽左衛門、五世清元延寿太夫等が施主となり、現在地にかさね塚を建立し、累一族の霊を弔い、上人の威徳に浴することになった。
爾来、歌舞伎清元の上演者は必ず、この塚に詣で累かさね一族を供養して興業こうぎょうの無事と、上演の盛会を祈願することが慣習ならわしとなっている。

(説明板より)

海難供養碑



海難供養碑


灘目の海難供養碑
白子組の海難供養碑



(平成19年1月12日)

祐天寺海難かいなん供養碑
目黒区有形文化財 歴史資料
昭和62年3月31日指定

灘目なだめの海難供養碑・白子組しらこぐみの海難供養碑 2基

江戸時代に「灘なだの樽回船たるかいせん」と、関西の木綿問屋仲間「白子組しらこぐみ」の回船が江戸に向かう途中、それぞれ相模灘や駿河湾、遠州灘で台風にあい、たびたび沈没した。
その遭難者そうなんしゃのために江戸の商業問屋仲間が建立した海難供養碑かいなんくようひである。
いずれも祐天寺住職であった祐全、祐東、自筆の名号みょうごうが刻まれ、当初から当寺に建てられたものと推定される。
その碑文により、たび重なる海難の事実を知ることが出来る。
また、それぞれの碑は、船籍所在地における史的事実の裏づけがある。
近世における商業経済史、海上輸送史、海難史研究の貴重な資料である。

昭和63年3月
目黒区教育委員会

(説明板より)


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