ザビエル像 平成20年11月18日

フランシスコ・ザビエル Francisco de Xavier

1506年4月7日〜1552年12月3日

大分県大分市・府内城前の遊歩公園でお会いしました。


ピレネー山脈西南部ナバラ王国(現・スペイン)の王族の子として生まれる。
9歳のときナバラ王国は滅亡。
1534年イグナティウス・デ・ロヨラらと共にパリでイエズス会創立につながる誓願をたてた。
1539年ポルトガル国王ジョアン3世の要請を受けて、1541年インドに向けてリスボンを出発。
1547年マラッカで薩摩国生まれのヤジロウに出会い日本での開教を志す。
1549年(天文18年)7月22日、ヤジロウらと共に鹿児島に上陸。
1550年12月上京。
荒廃した京都を見て天皇による布教許可を断念。
山口の大内義隆に謁し、大友宗麟の招きで豊後国へ赴く。
1551年インドに帰り、1552年広東附近の上川島で熱病により没する。


ザビエル像



ザビエル像

(大分市・遊歩公園)





(平成20年11月18日)

聖フランシスコ・ザビエル像

日本に初めてキリスト教を伝えた聖フランシスコ・ザビエルは、東洋宣教の途次1549年(天文18年)日本に渡来した。
その後鹿児島、平戸、山口で布教し1551年(天文20年)9月、大友宗麟の招きにより大分に来て布教した。
かくてこの地は日本における宣教の中心地となり、西洋文化が目覚ましく開花した。
少年達はビオラを弾き讃美歌をうたった。
これは日本で唱歌をうたった最初である。
またクリスマスにはこれも日本最初の西洋劇が演ぜられた。
更に日本で初めての様式病院さえあった。
その他初等学校、問答学校、通訳学校、伝道士学校、コレヂオもあった。
実に大分こそは当時西洋文化の花園であった。
今聖師の像を建つるに当って、その昔をしのびこの一文を草する。

1969年12月3日
聖フランシスコ・ザビエルの祝日
大分県キリシタン史蹟顕彰会 上田 保

(碑文より)


西洋音楽発祥記念碑



西洋音楽発祥記念碑
(大分市・遊歩公園)





(平成20年11月18日)

西洋音楽発祥記念碑

1551年(天文20年)聖フランシスコ・ザビエルが、ここ府内(大分市)の地でキリスト教を布教して以来、教会、孤児院、病院、学校がつぎつぎにでき、この地は日本最初のキリスト教文化の栄えた町となった。
やがてこの町から美しい讃美歌の歌声が流れるようになったが、わけても1557年(弘治3年)の聖週間には聖歌隊ができ、オルガンの伴奏で讃美歌が合唱されたと、当時の文献は報じている。
また外人神父からビオラを学んだ少年たちは、1562年(永禄5年)7月、領主大友宗麟の前でこれを演奏し大いに称賛を博した。
このように大分市こそは日本における西洋音楽発祥の地であるにもかかわらず、今日この史実を知る人はきわめて稀れである。
わが社は創業7周年に当たり、この埋もれたキリシタン文化遺産を発掘し顕彰するためこの碑を建て、これを大分市民に贈る。

昭和46年10月31日
株式会社マリーンバンス
社長 上田 保

西洋劇発祥記念碑



西洋劇発祥記念碑
(大分市・遊歩公園)





(平成20年11月18日)

西洋劇発祥記念碑

この地にキリスト教が布教されて9年後の1560年(永禄3年)のクリスマスに、府内(大分市)のキリスト教会では信者によって、「アダムの堕落と贖罪の希望」、「ソロモンの裁判を願った二人の婦人」等々の西洋劇が演ぜられた。
これが日本における洋劇の最初である。
以来、府内教会ではクリスマスや復活祭に、聖書に基づく数々の宗教劇が演ぜられるならわしになった。
図は前記ソロモンの裁判を願った二人の婦人の一場面で、日本彫塑界の権威東京芸術大学教授船越保武先生の制作で、小社創業10周年記念事業の一つとして、大分市に贈るものである。

昭和49年10月31日
株式会社 マリーンパレス
取締役社長 上田 保 識
         糸永 求 書

(碑文より)




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