調所広郷像 平成19年3月29日

調所広郷 ずしょ・ひろさと

安永5年2月5日(1776年3月24日)〜嘉永元年12月19日(1849年1月13日)

鹿児島県鹿児島市・天保山公園でお会いしました。


鹿児島藩士川崎基明の次男で、茶道坊主調所情悦家を継ぐ。
笑悦、のちに笑左衛門と称す。
側用人として島津重豪しげひで・島津斉興の財務を担当し、文政10年(1827年)には財政改革主任となり、翌年、改革に着手する。
天保元年(1830年)、10年間で50万両を備蓄し、古借証文を改修せよとの命を受け、三島(奄美大島・喜界島・徳之島)砂糖惣買入制を実施。
藩債500万両の250年賦償還を断行し、弘化元年(1844年)50万両の備蓄を達成した。
2年後、幕府から琉球交易の黙許を得て、唐物貿易を企てる。
嘉永元年(1848年)、密貿易の責を負い、服毒自殺。
享年73歳。


調所広郷の像

調所広郷の像
(鹿児島市・天保山公園)

贈 前迫初實 野添武二
制作 日展会友 木佐貫煕
施行 前迫石材株式会社
平成10年3月吉日


(平成19年3月29日)

調所広郷の像
(通称 笑左衛門)

幕末に近い文政10年(1827年)薩摩藩の借金は、5百万両の巨額に達していた。
当時の藩の年収総額十数万両は、借金金利に遠く及ばず、正に破産の危うきにあった。
時の島津重豪公は、究極の策として一介の茶坊主上がりの調所広郷を家老に抜擢、藩財政改革を厳命した。
広郷はその期待に応え巨額の負債を解決し、あまつさえ50万両の蓄えさえ残した。
更に藩政の興隆を図り、数々の土木工事を行った。
平成5年8・6災害で惜しくも決潰あるいは撤去されたが、広く県民に親しまれた西田橋等甲突川五石橋も、天保山の造成も全て調所の発案である。
改革は藩内に留まらず、広く海外交易にも力を注ぎ、琉球を通じた中国貿易の拡大や、北海道に至る国内各地との物流の交易をはかって、藩財政の改革の実を挙げたのは、この調所広郷である。
だが歴史は時の為政者によって作られる。
調所広郷は幕府に呼ばれ密貿易の罪を負い自害に追い込まれ、今も汚名のままである。
しかし、斉彬公の行った集成館事業をはじめとする殖産興業・富国強兵策・軍備の改革の資金も、明治維新の桧舞台での西郷大久保の活躍も全て調所の命を賭け、心血を注いだ財政改革の成功があったからと思う。
此処に調所広郷の銅像を建立し、偉業の後世に遺ることを願う。

(碑文より)

天保山公園



天保山公園

(鹿児島県鹿児島市)





(平成19年3月29日)

天保山(天保山公園)
天保年間にできた山


〜英艦隊の壮絶な洗礼を受けた湾岸砲台〜

天保山はかつて海でした。
甲突川の河口のあたりに御船手おふなて(藩の船を司つかさどる役所)があり、付近は港町として賑わっていたようです。
ところが度重なる洪水で土砂が川底を埋め、改修を繰り返すうちに、砂捨て場として利用していた場所がいつのまにか山のように盛り上りました。
天保年間(1830年〜1843年)であったためこの人工の山は天保山と名付けられたのです。
島津家第27代藩主斉興なりおきは、外国船の来襲に備えここに砲台を築きました。
そして1863年(文久3)、第29代藩主忠義ただよしの時、生麦事件をきっかけに薩英戦争が勃発。
海上から攻める英艦隊をこの砲台から迎撃したのです。
薩摩の砲撃は、英艦隊旗艦ユーリアラス号に命中、艦長他9名の戦死という大損害を与えましたが、戦列を整えた英艦隊の最新鋭アームストロング砲には歯がたたず、薩摩の砲台はたった一度の実戦で破壊されてしまいました。
また天保山公園に隣接する与次郎ヶ浜には1972年(昭和47)日本初の水搬送工法によって約109万uの埋立地が生まれました。

(説明板より)


【極貧国から富裕国へ】

財政再建を託された調所広郷は茶道方の出身であった。
「茶坊主だったのだ」などと悪口を言う人もいたが、これは事実ではない。
江戸城における茶坊主とは身分の低い召使いのような存在で、茶の中に髪の毛が落ちないように頭を剃っていた。
しかし、薩摩藩の茶道方はそうではない。
有能な若侍だが、とりあえず働くポストはない人間を「お茶係」という名目で働かせていたので、れっきとした武士である。

調所は極めて有能な経済官僚でもあった。
大坂商人との困難な交渉も片づけ、販売の物産の管理、貿易の拡大など打つ手はことごとく当たり、薩摩藩の財政は大幅に改善した。
たんと返済に250年かかるはずであった借金を返し切ったばかりか、藩財政を黒字にしたのである。
その陰には、奄美群島の農民に対する徹底的な搾取もあった。
島民は奴隷労働のような形でサトウキビを栽培させられたが、生涯砂糖の味を知らないで死ぬものもいた。
薩摩藩はひとかけらも彼らに収穫を与えなかったのである。
それと並んで利益が大きかったのが、琉球「王国」を使った密貿易であった。
貿易は巨万の富を生むのである。
島津重豪の時代、まだ黒字にはならなかったが、孫の斉興の代になると、薩摩は極貧国から富裕国となった。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月14日 追記)


【「お由羅騒動」で死す】

正室腹の島津斉彬派と側室(お由羅)腹の島津久光派の確執・「お由羅騒動」で、島津斉彬派は、薩摩藩が密貿易をやっているという事実を公儀に訴え出た。
もちろん幕府はそのことを知っていた。
島津重豪が将軍の舅ということもあり、見て見ぬふりをしていたのだ。
しかし、正式に訴えて来たなら取り上げないわけにはいかない。
この危機を島津斉興は何とか乗り切った。
直接の担当者として幕府の追及を受けた調所広郷が江戸屋敷で急死(毒を飲んで自殺したといわれている)し、すべての責任をかぶってくれたからである。
しかし、その結果、両者の対立はより深刻となった。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月14日 追記)


 (関連商品のご紹介)



 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送