(據兵団)
鎮霊 (愛知県幡豆郡幡豆町・三ヶ根山頂・比島観音慰霊場) 遺族と生還者の会 武田会 (平成20年4月16日) |
碑文
この碑に祀られし御霊は 過ぐる太平洋戦争に 在ミンダナオ島第百師団(據兵団)補充要員として 岐阜中部第4部隊 輸送指揮官武田中尉以下180余名と 名古屋中部第2部隊 静岡中部第3部隊に関係する戦没者である。
即ち 昭和19年9月17日郷土を出発 台湾高雄を経て 同年12月下旬ルソン島北サンフェルナンドに上陸 同地周辺配備の第14方面軍直轄 旭 盟 その他の兵団に分散配属せられ 昭和20年1月6日未明リンガエン湾に大挙来攻せる米機動部隊の真正面陣地に 或いは山岳重畳のバギオ周辺陣地を死守して敢闘 戦いは虚しく熄みて戦友の多くを失う
ここに生還の有志戦友と遺族は 33年忌を追悼して三ヶ根山頂に相会して鎮霊碑を建立する
昭和54年11月4日
比島派遣 武田隊遺族と生還者の会 武田会
慰霊碑 (愛知県幡豆郡幡豆町・三ヶ根山頂・比島観音慰霊場) バギオ戦友会 (平成20年4月16日) |
碑文
想うに 昭和十九年八月 豊橋第十一部隊に於て愛知静岡岐阜三県下の将兵を以て 據部隊百師団工兵隊補充要員として第三中隊編成
同年十二月廿六日比島リンガエン湾北サンフェルナンドに勇躍上陸
翌廿年一月四日未明米軍の上陸を海岸線に迎撃せるも優勢な敵火力に阻まれ必死の斬り込み作戦も効なく無念の撤退を余儀なくされ 威四三四部隊として再編成
次いでバギオ地区前線防備の任に就くも戦い我に利あらず兵力の消耗其の極に達し 尓後廿一K、九十K、ボンドック、タルピン、ポリス峠、バナウエ、カヤバ、キアンガン、大和村に至る悪戦苦闘の連続は悲惨壮絶を極めたるも敵に決定的な打撃を与えるに到らずして畢んぬ
嗚呼 悲しきかな 其の間敵弾に斃れ或は無念の病に果てし幾多戦友諸兄の痛恨悲憤を偲ぶ時 慟哭之を久止うして止まず
然れども卿等の素懐は達せられ 祖国は護持され平和、、繁栄は招来された
今この景勝の地を卜し生還者、遺族相集い慰霊碑を建立し追悼の誠を捧ぐ
請い願わくは祖国の大義に殉じ可惜散華せられた英霊各位 還り来りて安らかに冥せられんことを
合掌
昭和52年11月13日
生還者・遺家族 有志一同
英霊追悼碑 (フィリピン共和国ルソン島・バギオ) 1973年2月11日にバギオライオンズクラブなどによって建立 (平成15年4月30日) |
バギオ (平成15年4月30日) |
【第100師団工兵隊(臨時工兵第3中隊)】
昭和19年12月6日 北サンフェルナンド上陸
昭和20年1月中旬 バギオ移駐、軍直轄となる
昭和20年3月下旬 バギオ〜トリニダッド移駐
昭和20年4月中旬〜6月 90キロ〜ボンドック〜タンピル〜ポリス峠
荒木兵団に編入〜バナウエ
昭和20年8月15日 ハパオにて終戦
(参考:村田三郎平著 『最前線爆雷製造部隊』 風媒社 1977年第1刷)
(平成23年10月22日追記)
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