海軍は、その性格上、寄港地に食糧補給基地を設ける必要があった。
1941年(昭和16年)12月10日ころ新設された海軍第103軍需部は、マニラ陥落後マニラに本部を置いた。
補給を要する基礎員数約2万2000人、南方策戦進捗中は約9万人と見込まれ、主としてダバオから行なう計画だった。
1942年(昭和17年)2月1日、ダバオ支部を開設し、8月以降「糧食、戦給品、酒保物品ノ殆ド全部並ニ艦営需品、被服ノ一部ハ内地ヨリノ送付ハ停止サレ度キ旨ヲ通知シ反リテ、内地及共栄圏各地ニ余剰品ヲ送リ出スノ方策ガ採用セラレタリ」という状況になった。
このように成果をあげることができたのも、2万人のダバオ在留邦人の活躍があったからであった。
その後、マニラ本部(1944年7月20日現在、工員数1867人、ほかに「キャビテ」倉庫に99人)は、1942年4月10日にセブ出所(189人)を開設し、1944年になると「レガスピー」出張所(9人)、ブーラン出張所(12人)、セブ出所支配下にバコロド出張所(171人)を相次いで開設した。
一方、ダバオ支部(1081人)では、1942年3月2日に「ザンボアンガ」出張所(13人)、1944年7月1日にT(タウィタゥイ)出張所(20人)を開設し、さらにホロ出張所を開設準備中であった。
マニラ本部は支配下の出張所を含め、農牧畜関係14ヵ所(うち5ヵ所直営)、水産関係4ヵ所(2ヵ所直営)、加工品関係8ヶ所(1ヵ所直営、ダバオ、ザンボアンガにそれぞれ1ヵ所)、被服関係7ヵ所(直営なし)、戦給品関係5ヵ所(直営なし)の衣糧関係生産施設を運営していた。
一方、ダバオ支部では、農牧畜関係10ヵ所(6ヵ所直営)、水産関係6ヵ所(3ヵ所直営)、加工品関係11ヵ所(3ヵ所直営)、戦給品関係1ヵ所を運営していた。
ダバオ支部の経営は直営が多く、委託経営は太田興業株式会社など戦前からダバオで事業を展開していた会社が行なった。
ダバオでは日本人経営の農業会社が政府から公有地を購入・租借し、あるいはフィリピン人個人をダミー所有者として土地を利用していたため、土地利用について大きな摩擦はなく、日本人のアバカ耕作地を他の作物に転換することも容易であった。
衣糧関係で注目に値するのは、ダバオの軍納蔬菜組合農場であった。
組合員256人、使用人夫351人、合計607人で、日産10トンの野菜を生産していたが、長期の外洋航海で不足がちな生鮮野菜を補給する役目は、地道ながらも重要なことだった。
また、組合員は各アバカ耕地の自営農民で、11の班に分かれ、1944年8月から軍属となって生産に励んでいた。
ダバオの蔬菜は、海軍だけでなく陸軍にまで供給していた。
マニラ本部の支配下では、たとえばルソン島ラグナ州にある太田興業委託のカランバ農場の蔬菜園で、25町歩から日産1.5トンが生産され、農義隊40人、原住民300人が従事していた。
また、ルソン島ブラカン州のバリワク農場では、20町歩から日産0.7トンの生産、農義隊63人、原住民400人が働いていた。
これらの衣糧施設では、邦人企業、在留邦人の活用はもちろん、多くのフィリピン人が雇用されていた。
邦人企業、在留邦人の存在は、フィリピン人の円滑な雇用にとって重要な役割を果たしていた。
増産活動を支えていたのは、邦人の労働力だけでなく、邦人に雇用されたフィリピン人の存在を無視することはできない。
(参考:池端雪浦 著 『日本占領下のフィリピン』 岩波書店 1996年7月 第1刷発行)
(平成29年1月29日・追記)
第103海軍軍需・経理・運輸部ダバオ支部工員の慰霊碑 (フィリピン・ミンダナオ島) (平成21年4月25日) |
【碑文】
IN MEMORY OF THE DEAD FILIPINOS, JAPANESE, TAIWANESE AND AMERICANS OF WORLD WAR Ⅱ |
JAPAN NAVY |
I RAISED THIS TOMBSTONE IN MEMORY OF MR. SHINKICHI OKAMURA AND 254 COMRADES WHO DIED AT BATTLEGROUND 103RD NAVAL SUPPLISE STAFF DAVAO BRANCH APRIL TO SEPTEMBER 1945 |
1st Lt. OKI TOKI JAPAN NAVY |
慰霊碑のある場所 (フィリピン・ミンダナオ島) (平成21年4月25日) |
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