九六式十五糎榴弾砲

(きゅうろくしき・じゅうごせんち・りゅうだんほう)


 平成15年10月2日

東京都千代田区九段・靖國神社遊就館

九六式十五糎榴弾砲

この火砲かほうは野戦重砲兵第1連隊第4中隊に所属し、沖縄防衛戦に奮戦したが、糸満市いとまんし真壁まかべの陣地において昭和20年6月23日全弾を撃ち尽くして中隊は砲とその運命を共にした。
この榴弾砲りゅうだんほうは、6トン牽引車けんいんしゃによる迅速じんそくな移動と強力な火力をもって機械化砲兵と呼ばれた。
連隊は昭和14年のノモンハン事件でソ連砲兵と戦火を交えた後、東満洲の黒河省神武屯で国境警備に任じた。
大東亜戦争勃発ぼっぱつするや比島に進出し、バターン・コレヒドールの戦闘に偉功いこうを立て、再び神武屯に帰還した。
19年沖縄に進出し翌20年6月玉砕ぎょくさいした。
戦後米軍に回収され沖縄の在郷ざいごう軍人クラブに展示されていたが、関係者の熱意と米国側の好意により昭和41年5月29日、英霊の奉慰のため靖國神社に奉納された。

(説明板より)

榴弾砲

榴弾砲は加農砲と比べると、砲身は短く、低初速・短射程、弾道は低伸弾道で命中率は劣る。
また、慣徹能力は低いが、爆発による有効範囲が広く、地上の歩兵や輸送車などを制圧する間接射撃に有効である。

(説明板より)




九六式十五糎榴弾砲
靖國神社・遊就館



(平成15年10月2日)

碑文銘板

この九六式十五糎榴弾砲は、野戦重砲兵第1連隊第2大隊第4中隊に所属し、六屯牽引車による迅速な機動力と最大射程11,900米に達する正確にして威力強大なる火力は、国軍砲兵の華にして、その戦歴はノモンハン事件、満洲国黒河省神武屯国境警備、比島作戦等幾多の戦場に赫々たる武勲を奏す。
比島作戦オラニ附近の戦闘に、敵砲弾破片により砲身を損傷、これを交換せり。
是がため砲身に「昭和16年大阪造兵廠製第275号」と刻す。
沖縄防衛戦にあたっては、終始その強大なる火力と機動力を発揮し敵の心膽を寒からしめたるも、糸満町眞壁最後の陣地にありて敵戦車砲弾の直撃を受け将兵と運命を倶にす。
米軍戦史によれば、米上陸軍最高司令官バックナー中将は、昭和20年6月19日、この火砲の砲撃による榴弾破片創により糸満町眞栄里戦闘司令所にありて戦死せりと。
砲煙絶えて二十有余年、この火砲はその栄誉を讃えられ在沖縄米在郷軍人クラブの庭に孤影歳月を過ごせしが、本会総裁故東久邇盛厚元宮を中心とする返還要請に応え、米国の好意と各方面の奉仕により、われら戦友の懐に抱かれて故国に還る。
本会は昭和41年5月29日、この英霊遺品の火砲を厳粛に靖國神社に奉納、この火砲と死生を倶にし幾多の戦場に散華せる英霊を慰霊し、その遺徳を顕彰す。

抑、われら野戦重砲兵第1連隊は、遠く明治23年創設せられたる要塞砲兵第1連隊を起源に、日露戦争には独立野戦重砲兵連隊を編成。
旅順、奉天の諸会戦に武勲を奏し、爾後改編を経て、大正7年初めて野戦重砲兵第1連隊と称え、同11年千葉県市川市国府台に駐営す。
昭和14年3月、ソ満国境ノモンハン事件勃発するや、この火砲を装備する機械化砲兵として征徒につき、優勢なるソ連機械化兵団に対しよく国軍砲兵の威力を発揮、全軍の期待に応えり。
同年8月下旬、連隊本部及第1大隊は守勢地区にありて敵戦車群団の大攻勢に遭遇、腹背より迫り来る敵を撃退。
これに甚大なる損害を与え幾度かその攻撃を破摧せるも遂に衆寡敵せず、連隊長代理梅田恭三中佐、中隊長山崎昌来少佐以下多くの将兵は全弾を撃ち尽し火砲を自爆、敵戦車群に決死の肉薄攻撃を敢行、火砲と運命を倶にせり。
爾後関東軍隷下の満洲第816部隊と呼称。
満洲国黒河省神武屯に駐屯、ソ満国境警備の任につく。
昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦劈頭、第14軍隷下の比島派遣軍垣第6523部隊と呼称。
連隊長入江元大佐の指揮下にマニラ、バターン半島コレヒドール要塞攻略戦に参加し、疾風電撃よく機械化砲兵の威力を発揮。
殊勲を奏し再び満洲神武屯に移駐す。
かくして昭和19年、連隊は沖縄第32軍に転属。
第5砲兵司令官和田孝助中将(第14代連隊長)麾下の球第4401部隊と呼称、連隊本部及第2大隊を沖縄本島に、第1大隊を宮古島に配備し、沖縄防衛線に参加す。
昭和20年4月、米軍沖縄本島に上陸を開始するや、熾烈なる敵の艦砲射撃と間断なき砲爆撃下よく全軍の骨幹となり勇戦奮闘す。
戦局愈々苛烈を極め、惨烈なる戦況下逐次本島南部地区に転進。
糸満町眞壁附近最後の陣地にありて死力を尽くし、勇武を誇る連隊の名誉と光輝ある伝統を遺憾なく発揮せるも遂に全弾を打ち尽くすや迫り来る敵戦車群の火焔攻撃に全員最後の斬り込みを決行す。
時に昭和20年6月22日、連隊長山根忠大佐以下739柱の将兵悉く、祖国日本の永遠の平和と繁栄を祈念しつつ、護国悠久の大義に殉じ、火砲と運命を倶にし玉砕せり。

偶々、昭和47年5月15日沖縄復帰を記念し、世界恒久平和を祈念しつつ、この火砲の由来と沖縄に終焉せるわれら連隊の戦史概況を記し、謹んで奉献す。
希くばわれらが命たりし火砲よ、英霊を慰めつつ永久に国の護りとしてここ靖國の杜に鎮まらんことを。

昭和47年5月  野戦重砲兵第1連隊

附記
平成14年7月遊就館新館建設にあたり、この火砲を屋外境内地から館内に移設し、この碑文銘板を新調した。
なおもとの石碑の台座に使用されていた沖縄の珊瑚礁片は、英霊の魂魄こもる遺品として、ここに新調した銘板にも使用した。

靖國神社遊就館


データ

口径:149.1mm
砲身長:352.3cm
砲重量:4,140kg
初速:540m/sec
発射速度:45発/時
最大射程:11,900m


四年式十五糎榴弾砲を改良した改造四年式十五糎榴弾砲は改良が改悪という事になってしまい失敗。
このため昭和9年、陸軍は再び新しい榴弾砲の開発を行ないました。
この頃ヒトラーが政権を握り、ドイツ軍は大幅に軍の機械化を進めているという情報を得ました。
このため陸軍は野戦重砲の移動を分解せずにそのままの移動とし、移動手段を馬から牽引車に切り替える方向で、設計を命じました。
設計を開始して3年目の昭和12年に完成し、九六式十五糎榴弾砲と制定されました。
制定まもなく日華事変が勃発。
この時、完成していたのは8門だけでしたが、陸軍はこれを実戦試験を兼ねて出動させたところ、期待通りの成績を上げたので量産体制に入り、太平洋戦争終結まで野戦重砲の主役として各地で活躍しました。


【九六式15センチ榴弾砲】

昭和8年末、設計に着手。
昭和10年9月、試製砲が完成。
昭和13年5月、仮制式。
支那事変では、すでに完成していた8門を実用試験を兼ねて実戦に使用。
わずか1週間の速成教育しか受けていない部隊でも、旧来の各種砲と効果を競い、総合効果では最も良い成績をあげたことは、本砲の扱い易さと精度の高さを示した。
本砲の威力の増大は、射程が延びたことのほか、威力の大きい新弾丸を採用したことにもよる。
炸薬は従来の九二式榴弾の量に、およそ野砲榴弾1発分の炸薬量を増加。
また、四年式15榴の弾丸も使用できるほか、九二式10加用の弾丸も弾帯を交換すれば発射することができた。

昭和13年12月、野戦重砲兵第1連隊に支給。
昭和14年6月、ノモンハン事件に16門が動員、脚などの故障が多発したが、ソ連軍と本格的な砲兵戦に挑んだ。
昭和16年、比島リンガエン湾に上陸し、バターン、コレヒドール攻略戦に参加。
昭和19年、沖縄防衛戦に参加。

製造数は約440門。

【牽引車】

牽引車名称:九八式6トン牽引車
牽引火砲:九六式15榴
馬力:120馬力
速度:時速24km

主な装備部隊

野重第1連隊、野重第3連隊、野重第4連隊、野重第17連隊、野重第20連隊、野重第23連隊、野重第26連隊、野重第27連隊

(佐山二郎著 『大砲入門』 光人NF文庫 1999年発行)

(平成24年1月28日追記)


 平成22年11月17日

ソロモン諸島・ガダルカナル島

昭和15年製 大阪工廠 (製造us明)

 平成22年11月20日

ソロモン諸島・ガダルカナル島

昭和15年製 大阪工廠(製造bP04)

 平成22年11月20日

ソロモン諸島・ガダルカナル島

昭和15年製 大阪工廠(製造bP33)

 平成22年11月20日

ソロモン諸島・ガダルカナル島

昭和15年製 大阪工廠(製造bP36)

【九六式15センチ榴弾砲】

設計より完成までに3年間もかかったため、最初の8門が完成したときには、すでに昭和12年の支那事変は始まっていた。
そこでこの8門をただちに北支に送ってみたところ、砲兵の最大の悩みである移動も容易だったし、そのうえ命中精度も抜群だったので、大量生産に入り、昭和18年には陸軍大臣から表彰されたという。
この砲の特徴は榴弾砲なのにカノン砲(加農砲)のように砲身が長いことだった。
そのため砲尾も長く後方に突き出しているので、45度以上の仰角で撃つときには、その部分の土を掘って地面に穴をあけなければ砲尾がつかえてしまうという欠点があった。

発射速度は野砲よりやや遅く、1分間に6〜8発程度である。
弾薬は1会戦分として100発が1セットとして用意された。

(参考:木俣滋郎 著 『陸軍兵器発達史』 光人社NF文庫 1999年発行)

(平成29年2月17日 追記)


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