秋山信友 あきやま・のぶとも (秋山虎繁)

大永7年(1527年))~天正3年11月26日(1575年12月28日)

(※没年が天正3年10月21日の説あり)






秋山伯耆守信友屋敷跡
(山梨県甲府市武田4丁目・山梨大学教育学部)




(平成25年9月10日)

織田信長と対峙した勇将
秋山伯耆守ほうきのかみ信友
(大永7年~天正3年10月21日)

秋山氏は、甲斐源氏の支流で、武田家の譜代家老の家柄である。
信友といわれるが、実名は虎繁とらしげが正しい。
天文15年(1546)に侍大将に抜擢され、信玄の信濃国伊那郡制圧に伴い、高遠たかとう城代を、次いで飯田いいだ城代を歴任したという。
また、弘治こうじ年間には、伊那大島おおしま城に在城している。
信友は、武田家の伊那郡支配に深く関与し、赤須あかす・大島おおしま氏を始めとする春近はるちか衆などを配下に置き、織田・徳川氏を監視する役割を担った。
元亀3年(1572)、信玄が西上作戦を開始すると、信友は伊那衆を率いて美濃に侵攻し、遠山景任かげとう未亡人(織田信長の叔母)の守る岩村城を包囲した。
城方との交渉の末、景任未亡人を信友の妻とし、遠山氏の養子御坊丸おぼうまる(信長の子)を人質として甲府に送還することで開城させ、信長と対峙する最前線を警固した。
長篠敗戦後、小田信忠軍に包囲されて降伏し、岐阜で処刑された。

(説明板より)




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