安土駅前の織田信長像

織田信長 おだ・のぶなが

天文3年5月12日(1534年6月23日)〜天正10年6月2日(1582年6月21日)

滋賀県蒲生郡 JR安土駅前でお会いしました。


織田信長は父・信秀の没後、本家の清須・岩倉両織田家を滅ぼし尾張を統一しました。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元を破り、後に美濃の斎藤氏を降して岐阜に居城(岐阜城)を移しました。
1568年足利義昭とともに上洛し義昭を将軍に擁しましたが、ほどなく不和になり、天正元年(1573年)義昭を京都から追放し室町幕府を滅ぼしました。
1575年長篠の戦いで武田勝頼に大勝し、翌年に近江に安土城を築いて移りました。
1580年に石山本願寺を攻め降し畿内を平定します。
1582年に甲斐に遠征して武田氏を滅ぼし、続いて中国・四国制圧を期して上洛中に本能寺で明智光秀の謀反に遭い自害しました。(本能寺の変)


城郭資料館 安土町 城郭資料館です。
JR安土駅南広場・地下道出口にあります。
ここには織田信長の肖像画(想像)や安土城の20分の1の雛型が展示されています。
コーヒーショップで「ローマコーヒー」が飲めます。
入館料:大人200円 学生150円 小人100円
休館日:月曜日・祝日の翌日・年末年始

(平成13年現在)
安土城天主信長の館 安土城天主 信長の館です。
JR安土駅から徒歩で約25分です。
駅前にレンタサイクルがあります。これだと約9分です。
実寸で復元された安土城天主の5階・6階部分が展示されています。
「へぇ〜」の一言です。
入館料:大人500円 学生300円 小人150円
休館日:月曜日・祝日の翌日・年末年始

(平成13年現在)
安土城考古博物館 滋賀県立 安土城考古博物館です
JR安土駅から徒歩で約25分です。
駅前にレンタサイクルがあります。これだと約9分です。
第2常設展示室は”安土城と織田信長”をテーマにしています。
入館料:大人300円 学生250円 小人150円
休館日:月曜日・祝日の翌日・年末年始

(平成13年現在)

織田信長銅像 平成14年10月27日

愛知県西春日井郡清洲町 清洲公園でお会いしました。

清洲公園の信長像



桶狭間に出陣する26歳の織田信長です。
清洲公園は清洲城のすぐ近くにあります。





(平成14年10月27日)

清洲公園の概要

この公園は、「清洲村古城地図」(旧尾張藩文庫・名古屋市負う蓬左文庫蔵)により、清洲城本丸・天守台の地域(東西四十間半・南北百一間半)を抱含する約五千坪(16,500平方米)を保存し、織田信長公顕彰を目的として、大正11年開園されたものである。
清洲城の沿革は、公園北端(東海道本線北側)天守台址に掲示してあるが、慶長14年(1609)徳川家康が尾張藩都を清洲から名古屋に遷すことをきめ、名古屋城郭と城下町の造成工事に着手し、同15年より18年迄の間に名古屋城の竣工と、清洲城下の町々・家々の新築移転がほぼ完了(清洲越し)清洲城は取り壊された。
尾張の中心都市であった清洲は、文明10年(1478)以来130年に亘る華やかな歴史の幕をひいて名古屋に生まれ変わったのである。
当時の臼引歌が残っている。
「思いがけない名古屋ができて、華の清洲は野となろう」
やがて清洲の旧市街地は逐次清洲新田として開発され、清洲城天守台址約233坪(770平方米)の地のみは、尾張藩が清洲城址として保存し、明治以来宮内省付属地とされ、現在は県有地となっている。
明治19年4月には当公園地内を貫いて東海道本線が敷設された。
大正7年(1918)織田信長公への贈位を記念して、清洲公園建設が清洲町により計画され、設計を林学博士本多清六・田村剛両氏に依頼し、用地5,634坪(18,592平方米)を買収、大正9年県費補助事業として着工、同10年工事完了、同11年開園した。
公園樹木は町内有志の寄付によるものであり、公園建設費は48,619円であった。
園内には織田家の木瓜紋を型どった信長池もあり、開園以来西春日井郡随一の公園として、歴史を探訪し、風景を賞する散策の客が多く、公園の内外周辺では、春の摘み草、五條川の舟遊び、魚釣り、夏のほたる狩り、川花火、秋の古城の月見、冬の月見など風流の余情つきぬものがあった。
昭和11年には、故竹田e太郎の寄贈により、26才桶狭間出陣の雄姿を模した信長公銅像(作者 杉浦藤太郎 考証 関保之助)が園内に建てられ、清洲のシンボルとなった。
その後、清洲公園の姿は、昭和38年の東海道新幹線の建設用地にかかったり、昭和47年に始まった清洲西部土地区画整理事業で公園西側が拡張となったり、昭和62年には五條川の改修により土地が買収されたりして大きく変化し、現在は14,343平方メートルとなっている。
平成9・10年の2ヵ年の整備事業により、当初の清洲公園の姿を生かしつつ、新しい清洲公園に生まれ変わった。

平成11年3月

(説明板)


若き日の織田信長 平成19年4月3日

岐阜県岐阜市・岐阜公園でお会いしました。

若き日の織田信長像


『若き日の織田信長』像

(岐阜市・岐阜公園)

岐阜市制100年を記念して建設
創作:北村西望



(平成19年4月3日)
織田信長居館跡



織田信長居館跡
(岐阜市・岐阜公園)





(平成19年4月3日)

市指定史跡岐阜城跡・千畳敷
織田信長居館跡

永禄10年(1567)織田信長は、稲葉山城主・斎藤龍興たつおきを追放し、「井口いのぐち」から「岐阜」とその名を改め、金華山山頂に岐阜城を修築して天下統一への拠点とした。
金華山の西麓にあたるこの辺りには人工的な2〜3段のテラス状地形があり、最上段を千畳敷、中段以下の部分を千畳敷下という。
ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスがその著書の中で壮麗なものとして紹介した信長の居館の跡といわれている。
昭和59年から行われた発掘調査で、両側に板状の巨石を立て並べ、千畳敷下から千畳敷へと折れ曲がりながら上っていく通路をはじめとして、その途中や周囲に配置された土塁状遺構・石垣・階段・水路などが発見された。
岐阜城は、信長が近江の安土へ移った後、慶長5年(1600)関ヶ原戦の前哨戦で落城するまで続くが、これらの遺構の多くは、その出土品などから信長時代にその基本的な造作が完成したと考えられる。
巨石を用いる例は、江戸時代の大坂城大手門や搦手からめて門などにうかがえるが、この時期には稀である。
発掘調査では、これらの遺構の下にさらに古い時代の遺構群が存在することが確認されている。
石垣・石積施設・階段状遺構などで、これを破壊、または埋めて作られた通路など上層遺構が信長によるものとすれば、稲葉山城に係る斎藤氏時代の可能性が高い。
また数枚の整地した土層が上下に重複していることが確認されているが、この中にはいくつかの焼土面が含まれており、施設の焼亡を挟んで複数の城主による造成が行われたことを示唆している。
壮麗豪華な建築と伝えられる信長の居館そのものの建築遺構はまだ確認されていないが、中世から近世への過渡期の様相を探る上で極めて重要な遺跡である。

昭和63年6月
岐阜市
岐阜市教育委員会

(説明板より)

案内図 案内図

織田信長居館跡



織田信長居館跡
(岐阜市・岐阜公園)





(平成19年4月3日)

【織田信長の戦略】

桶狭間の戦いの翌年である永禄4年に信長は三河の徳川家康と同盟を組むことになりますが、この織徳しょくとく同盟は本能寺の変で信長が死ぬまでの22年間継続する事になります。
戦国時代の同盟関係としては最長の同盟でしたが、道義的なものよりも利害関係で結ばれていたことは今の国際関係でも同じであると考えなければなりません。

また、今川を打ち破った桶狭間の戦いの4年後には隣国美濃の斎藤を攻略したため、信長は恐るべき敵である武田信玄の甲斐と直接接することになりましたが、彼は信玄に対しては豪華な贈り物を届けたり、その養女を信玄の息子勝頼に嫁がせたりして、至れり尽くせりの礼を尽くしています。
しかし、こうした友好親善関係は決して本心からではなく、双方の利害に基づくものであることは昔も、今の国際関係も変わらぬ事実です。

永禄11年10月、信長は参内し天皇に拝謁しますが、一切の所領と官位を辞退する代わりに交通経済の要衝であった堺、大津、草津に代官をおくことを希望し許されました。
このことは信長が戦力の根源が経済力であることを良く認識していたからに他ならず、これは現代、特に重要視されるべきことです。

(参考:太田文雄 著 『日本人は戦略・情報に疎いのか』 芙蓉書房出版 2008年第1刷発行

(令和元年11月9日 追記)


 平成23年4月29日

東京都三鷹市・井の頭自然文化園彫刻園でお会いしました。





若き日の織田信長
(東京都三鷹市井の頭4−1・井の頭自然文化園彫刻園)





(平成23年4月29日)

信長塀



信長塀
(名古屋市熱田区・熱田神宮)





(平成19年4月2日)
熱田神宮



熱田神宮

(愛知県名古屋市熱田区神宮1−1−1)





(平成19年4月2日)

熱田神宮

【祭神】 熱田大神あつたのおおかみ
相殿 天照大神あまてらすおおかみ、素盞鳴尊すさのおのみこと、日本武尊やまとたけるのみこと、宮簀媛命みやすひめのみこと、建稲種命たけいなだねのみこと

【由緒】
熱田神宮の創始は、三種の神器の一つ草薙神剣くさなぎのみつるぎの御鎮座により始まります。
第12代景行天皇の御代、日本武尊は御東征の後神剣を尊のお妃である宮簀媛命のお手許(緑区大高町氷上)に留め置かれたまま亀山市能褒野でなくなられました。
後に宮簀媛命は、社地を熱田にお定めになり、神剣を奉斎されました。
以来伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ、国家鎮護の神宮として特別のお取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」とも呼ばれ親しまれてきました。

(パンフレットより)


信長公廟



信長公廟
(京都市中京区寺町・本能寺)





(平成19年3月16日)
信長公廟



信長公廟
(京都市中京区寺町・本能寺)





(平成19年3月16日)

信長公廟

信長が光秀の謀反むほんにより無念の自刃をとげたのは天正10年(1582)6月2日早朝のことだった。
本能寺の変である。
そのころの当寺は四条西洞院しじょうにしのとういんにあり四町四面の広大な寺域、周囲に堀と土塁、その内部に七堂伽藍や多くの子院しいんや厩舎うまやを備えるという、城郭構じょうかくがまえになっていて、信長が常宿するにふさわしい都で随一の大寺院であった。
この大伽藍が烏有うゆうに帰し、光秀の天下もわずか十数日で終ったあと、信長の三男信孝は信長らの燼骨じんこつ収集の作業をすすめ、本能寺の変から一箇月後の7月3日早くも本能寺を父信長の墓所と定めたこの信長の墓はこのとき信孝が建立したものである。
此の御廟ごびょうには、武将の魂とされる信長所持の太刀たちが納められている。

當山識

(説明板より)

本能寺の変戦没者合祀墓



本能寺の変戦没者合祀墓
(京都市中京区寺町・本能寺)





(平成19年3月16日)
本能寺ノ変戦死陣没之諸霊
来栖備後守 浅井清蔵 菅谷藤太郎 森力丸 森蘭丸 菅谷角蔵 福富五左衛門
津田勘七郎 津田源三郎 津田小藤次 三位中将 村井長門守 津田九良次郎 津田又十郎
織田勘七郎 菅谷九右衛門 森坊丸 團平八郎 梶原丈右衛門 赤座七良左衛門 飯河官松
青柳勘太郎 櫻木傅七郎 高橋虎松 湯浅甚介 篠河兵庫 久々利於亀 柏原大鍋
水野久蔵 狩野又九郎 針阿弥 齋藤新五 織田信忠 河野藤蔵 野々村三十郎
小川愛乎 塙傅三郎 柏原小鍋 飯尾茂介 山田弥太郎 下石彦右衛門 乗原吉見
乗原九三郎 山口小弁 金森義入 伊丹新蔵兵衛 逆川甚五郎 木村九十郎 武田善太郎
下方弥三郎 高木彦太郎 春日源八 逆川甚六 猪子兵介 石田孫左衛門 和田彦太郎
落合小八郎 薄田與五郎 高木孫太郎 永井新太郎 川崎与介 長谷川源次郎 節元久兵衛
井上又蔵 佐久間兵太夫 中根市之介 小倉松樹 青地與右衛門 土方次郎兵衛 平野新左衛門
村井清次郎 種村彦次郎 小澤六良三郎 佐々清蔵 服部小藤太 大塚又市郎 伴太良左衛門
林市介 村井新右衛門 沼孫兵衛 瀧川孫平 伊藤彦作 野尻半平 横山吉内
岡嶋二蔵 村瀬三郎 毛利新介 杉原於万 伊丹甚兵衛 平野勘右衛門 加藤於辰
安土孫吉 毛利於岩 種田於亀 金森忠次郎 禅師彦 服部六兵衛 筒井作右衛門
平古屋傅次 別当藤五郎 中尾源太郎 寺田善右衛門 河野善四郎 河野善五郎 河野與十郎
河野小■ 矢代■介 後藤於菊 村田■兵衛 小川徳味 小川太郎 小川源太郎
小川三蔵 成田與左衛門          
本能寺



本能寺

(京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522−1)





(平成19年3月16日)
本能寺



本能寺

(京都市中京区寺町通御池下る下本能寺前町522−1)





(平成19年3月16日)

由緒沿革

當山の宗名は「法華宗」くわしくは「妙法蓮華経宗」という。
宗祖日蓮大聖人の滅後133年開基日隆聖人が法華宗の正義を再興せんが為、應永22年(1415)布教の根本道場として創建された。
史上有名な「本能寺ノ変」は、天正10年6月2日、一代の英雄信長も光秀の不意襲撃を受け、当山の大伽藍と共に一辺の煙りと化した。
時の本能寺は四条油小路に在り、秀吉の代、寺領換地となり現在地に移転、信長の第三子信孝の願いにより、当山内に信長公廟所をまつる。
現本堂は創建以来の第七建立、建築様式は鎌倉室町時代の粋を集め、およそ十ヶ年の歳月を費やして昭和3年に完成、大正昭和期に於ける我が国の代表的木造寺院建築といわれる。

大本山 本能寺

(説明板より)

本能寺

法華宗本門流の大本山で、応永22年(1415)、日隆上人によって創建された。
当初は本応寺と称していたが、永享5年(1433)、六角大宮に移転した際、本能寺と名を改め、更に天文14年(1545)、油小路蛸薬師一帯に広大な寺域を得て大伽藍を復興した。
本寺は、天正10年(1582)、織田信長が明智光秀によって襲撃(本能寺の変)され、自刃したところとして世に名高いが、その折、三十余りの宿坊を構えた大伽藍は灰燼に帰した。
その後、豊臣秀吉の都市計画により、天正17年(1589)、現在の地に移転再建したが、江戸時代後期に天明・元治の大火にかかり、堂宇は悉く焼失し、現在の本堂は昭和3年(1928)に再建されたものである。
寺宝には、花園天皇宸翰、伝藤原行成筆の書巻等の貴重な逸品を蔵し、境内には、織田信長及びその側近達の供養塔、並びに江戸時代後期の南画家浦上玉堂父子の墓などがある。

京都市

(説明板より)


織田信長の系譜〜信秀の生涯を追って〜
横山住雄 著  濃尾歴史研究所  平成8年第2刷  2,800円

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