徳川家康像 (平成20年4月16日再訪問)

徳川家康 とくがわ・いえやす

天文11年12月26日(1543年1月31日)〜元和2年4月17日(1616年6月1日)

愛知県岡崎市 岡崎公園(岡崎城)でお会いしました。


岡崎城主・松平広忠の長男として生まれますが、6歳から織田信秀、8歳から19歳まで今川義元の人質となりました。
永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が敗死後に自立し、織田信長と結んで三河を平定しました。
1566年徳川に改姓、元亀元年(1570年)居城を浜松とし、姉川の戦いで織田信長を助け、長篠の戦いで武田氏を破りました。
駿府に居城を移し駿河・遠江・甲斐・信濃・三河の五ヶ国の経営にあたりましたが、北条氏の滅亡後に関八州に転封となりました。
豊臣秀吉の死後はいわゆる五大老の筆頭となり、慶長5年(1600年)関ヶ原の合戦で石田三成を破り天下を統一しました。
1603年征夷大将軍に任命され江戸幕府を開きました。
1605年に将軍職を秀忠に譲った後も駿府で大御所政治をとり、元和元年(1615年)大阪の陣で豊臣氏を滅ぼしますが、翌年駿府城で病死しました。
遺言で久能山に葬られましたが、後に日光山に改葬されました。


岡崎城の徳川家康像 平成14年9月14日

徳川家康公銅像



徳川家康公銅像
(愛知県岡崎市・岡崎城)





(平成14年9月14日)

徳川家康公銅像

天文11年12月26日(西暦1542年)岡崎公園内二の丸(現在の能楽堂)で生まれた。
幼少の頃人質として苦難の道をあるき、自立した後は全国統一をめざし、転戦を続け、慶長5年(1600年)天下分目の関ヶ原の合戦に大勝して、天下をおさめるにいたった。
以後持前の才能を生かし、全国統一の念願をかなえるとともに、徳川幕政300年の基盤をも作り、元和2年4月17日(西暦1616年)75才でこの世を去った。
この銅像は昭和40年家康公350年祭を記念して建てたものである。

(説明板より)

岡崎城




徳川家康が生まれた岡崎城です。





(平成14年9月14日)

東照公遺訓碑



東照公遺訓碑
(愛知県岡崎市・岡崎城)





(平成20年4月16日)

東照公遺訓碑

人の一生は重荷を負おいて遠き道をゆくがごとし、いそぐべからず、不自由を常とおもえば不足なしこころに望のぞみおこらば困窮こんきゅうしたる時を思いだすべし、堪忍かんにんは無事長久ちょうきゅうの基もとい、いかりは敵とおもえ勝事かつことばかり知りてまくる事をしらざれば害がい其身そのみにいたる、おのれを責て人をせむるな、及ばざるは過ぎたるよりまされり。

慶長8年正月15日

人はただ身のほどを知れ草の葉の 露も重きは落つるものかな。

(説明板より)

東照公遺訓碑由来

この東照公遺訓碑は、額田郡岩津町奥殿(岡崎市奥殿町)出身の加藤賢治郎翁が岡崎市へ寄贈されたものである。
翁は、岡崎銀行(東海銀行の前身)を創立し、長く同行頭取、相談役として金融界に尽力されたのをはじめ、岡崎商工会議所会頭として、本市の経済界の発展に寄与され、昭和18年3月98歳の天寿を全うされた。
翁は、終生、徳川家康公の遺訓を座右の銘とされ、これを後世の市民の教化育成に資するため、家康公研究者柴田顕正氏の相図り、この実現の為に時の小瀧市長の賛意を得て建立に到った。
碑文の文字は田安家徳川達孝氏に、礎石は万年の亀を据え、碑頭には竜城を象徴する竜を配し、制作施工は岡崎石工研究所長池上年氏に委ねられた。
碑裏面には、昭和11年4月16日建立とのみ刻み、寄贈者名は翁の意志により省略されたままであるが、本年は、遺訓碑が建立されて50年、また、岡崎市制70周年の記念すべき年にあたり、記念事業の一環として、この遺訓碑建立の由来を記し、あわせて加藤九十八翁を顕彰する次第である。

昭和61年12月26日
岡崎市長 中根鎮夫

(説明板より)

家康公遺言の碑



『家康公遺言』碑
(愛知県岡崎市・岡崎城)





(平成20年4月16日)

家康公遺言

わが命旦夕に迫るといへども将軍斯くおはしませば天下のこと心安し
されども将軍の政道その理にかなはず 億兆の民艱難することもあらんには たれにても其の任に変らるべし
天下は一人の天下に非ず天下は天下の天下なり たとへ他人天下の政勢をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らばもとより 家康が本意にしていささかも うらみに思ふことなし

元和2年4月17日
家康公薨七十五才於駿府城

(碑文より)

元康像 平成20年4月16日

愛知県岡崎市 岡崎公園(岡崎城)でお会いしました。

元康像



元康像
(愛知県岡崎市・岡崎城)





(平成20年4月16日)

家康公生誕450年祭記念像

このモニュメントは、平成4年に開催された「家康公生誕450年祭」の一環として、450年祭実行委員会が市内外から浄財を募って設置し、岡崎市へ寄贈したものである。
若き元康(徳川家康)の騎馬像は、城を背にし、やがて大権現として再生する日光東照宮の方角を向いている。
背景の石垣と滝は治世を象徴し、元康が胸に秘めた国盗りの夢が、生誕の地、岡崎の土中から盛り上がる様を示す。

モニュメント原案
  三州岡崎葵市民洋画家荻太郎氏(新制作協会会員)
騎馬像を含む全体の原型制作
  彫刻家橋本裕臣氏(新制作協会会員)
騎馬石像制作
  石彫家牧野正次氏(二科会会友)

平成6年12月26日
家康公生誕450年祭実行委員会

(碑文より)

しかみ像 平成20年4月16日

愛知県岡崎市 岡崎公園(岡崎城)でお会いしました。

しかみ像

寄贈者 徳川宗家18代当主 徳川恒孝氏
製作者 小林道明氏

世に云うしかみ像『徳川家康三方ヶ原戦役画像』は、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となり多くの家臣を失った家康が、自我の念を忘れることのないように描かせたものと伝えられ、顔をしかめて苦渋の表情をあらわした珍しい肖像画です。
このしかみ像は、かの画像を基にして製作された石像です。
元亀3年(1572年)10月3日、2万7千の大軍を率いて甲府を出発した壮年武田信玄は、遠江に侵入すると徳川方の城を次々に落とし、12月には家康の居城である浜松城に迫りながら攻撃を行わず三方ヶ原に青年家康を誘い出し大敗させ、家康最大の危機としました。
命からがら城に逃げ帰った家康は、将としての冷静さを失った自分を大いに反省したのであります。
自戒の像である「しかみ像」は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を創り上げる礎になったと云われます。

平成19年11月10日

徳川家康像 平成16年11月28日

静岡県浜松市・浜松城本丸跡でお会いしました。

若き日の徳川家康公像



『若き日の徳川家康公』像

(静岡県浜松市・浜松城




(平成16年11月28日)

銅像撰文

徳川家康公は天文11年(1542年)三河国岡崎城内に誕生した。
父は松平広忠、母に生別、駿府に少年時代を過ごしたが、岡崎に戻り独立の一歩を踏み出した。
元亀元年(1570年)遠江国へ進出、浜松に築城し、ここを根拠として着々と地歩を固めた。
その間17年、武田信玄のために大敗を喫した三方原合戦、正室築山殿嫡男信康を一時に失うような家庭危機に遭遇したが、隠忍自重よくこれを克服し、東海を制圧、その領国は遠江・三河・駿府・甲斐・信濃の五か国に及び、海道一の弓取り武名を馳せるにいたった。
そして常にこれを支えたものは浜松の地の利と人心の和であった。
浜松より駿府へ、さらに江戸に移り、江戸幕府を開き、二百六十年余の泰平の基礎を固めたが、やがて駿府に退隠、元和2年(1616年)薨じた。
乱世を生きぬいた努力と忍苦の75年であった。
像は浜松時代の若き日の公の姿。
手にしたのは勝草と呼ばれためでたい歯朶である。

昭和56年12月20日
徳川家康公若き日の銅像建設委員会

彫刻 水野欣三良
鋳造 河野敏彦
台座 株式会社林工組

(碑文より)



徳川家康像 平成16年11月28日

静岡県浜松市・浜松城天守閣内でお会いしました。

説明板より

市制施行70周年並びに浜松市観光協会創立30周年の記念事業として、「徳川家康若き日の銅像建設委員会」を結成し、多数の市民の協力により建設された。
昭和56年12月20日
除幕式挙行

徳川家康銅像 平成14年11月23日

静岡県静岡市 駿府城でお会いしました。

駿府城



駿府城の巽櫓と御東門
(静岡県静岡市)




(平成14年11月23日)

【信仰心】

徳川家康は信仰心の厚いことことで知られているが、これは母の於大おだいや祖母の華陽院などの影響を強く受けていた。
家康は、関ヶ原の合戦が終ったあとで、戦場でやむを得ず犠牲となった武士を弔うために、「南無阿弥陀仏」の経文を毎日書いて冥福を祈り、これを念仏がわりにしたのである。

この家康が行なった写経は、71歳の老齢になってから書き始めたが、多い日には1日千回以上にも及んだ。
写経は長い大きな紙に、全部で6万遍にも達しているが、現在、久能山東照宮博物館、日光山輪王寺、東京国立博物館、五島美術館、大和郡山にある柳沢文庫、故山岡荘八家などに「日課念仏」として保存されている。

(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)

(令和2年9月5日 追記)


【家康の平和維持システム】

家康は老中や若年寄になれるのは5万石からせいぜい10万石台の大名に限定した。
しかも徳川家に忠実な譜代大名にしか役職は与えない。
これに対し外様大名は前田家の百万石を筆頭に、薩摩藩島津家の77万石等々、大きな領地は与えるが決して役職は与えない。
いわば権力と財力を分散させることによって、将軍家あるいは幕府に対して大名が反乱するという事態を完全に阻止したのである。

(参考:井沢元彦 著 『動乱の日本史〜徳川システム崩壊の真実』 角川文庫 平成28年5月初版発行)

(令和2年3月12日 追記)


【六男・忠輝への諫め】

徳川家康が大坂の合戦に勝利を治めると、六男の徳川忠輝ただてるが「大坂城を私にください」と家康に言上した。
家康は「おぬしに大坂城はやれぬ。あの城に住めば、誰でも戦争をしたくなるからだ」と言って諫めた。

大坂城はどこから攻めても中に入れぬように二重の濠があり、堅固に造られていた。
絶対破られぬ強い城に住めば、誰でも戦争をしたくなる。
天下泰平を望む家康は、参謀・本多正純の知略にまかせて、濠を埋め立ててから大坂城を手に入れている。
軍備が充分ならば戦争をしたくなる気持ちを抱くのは、洋の東西を問わず同じである。
したがって軍備がなければ戦争を起こす気持ちにはなれない論理となるのだ。

(参考:塩田道夫 著 『天皇と東条英機の苦悩』 日本文芸社 1988年10月 第10刷発行)

(令和2年9月5日 追記)


久能山の家康の廟所


徳川家康の廟所
(お墓)です。
静岡県静岡市の久能山東照宮の本殿の裏にあります。
重要文化財に指定されています。





(平成14年11月23日)

重要文化財神廟しんびょう

家康公は元和2年(1616年)4月17日に薨去こうきょせられ御遺命ごいめいによってこの地に埋葬し奉った。
廟の高さ6メートル、西向きになっている。

(説明板より)


弁天堂



弁天堂
(愛知県田原市・龍泉寺)





(平成20年4月5日)

辨財尊天ご縁起

そもそも、この弁天堂御戸張内に安置し奉る霊像は、弘法大師直作、仏法守護、貧転為福、技芸上達の弁財天である。
その由来を尋ねると 平安時代、弘仁元年寅年、弘法大師37歳奥州下向の途中 鎌倉江ノ島にご逗留 仏法弘道のため、諸人結縁、その後3年 西国への帰途 当田原で 衆生結縁のため 当山内業窟中で、千日の護摩大行に修し、満行の暁、その灰土でこの弁財尊天と十六童子を練り固め製作された霊像である。
その後、突然和尚という大徳、この霊像に福徳壽命を祈り 忽ち、霊験感應があったと言われている。
又、應永3年中に 幸徳という沙門ここに来て小庵を造立幸徳寺と号し、仏法弘道の道場とした。
60余年後、應仁元年夏■誉上人(浄土宗)下総千葉家より出で、東都三縁山増上寺聡誉上人の法燈を継ぎ 当山中興の開基となって念佛の法燈を掲げた。
その後、永禄7年(1564)家康公 この洞中に身を隠し、この霊像の守護により危難を遁れ、武運長久、萬民安楽の為祈念料70石を寄進、英城鎮護のためなればと、この時 寺号を弁天山城寶寺と下附された。
旧代々の田原城主の信仰篤く 現在の堂宇は 三宅城主の寄進建立で、巳年毎に開扉法要は城主と一般領民の奉納で勤修されて来た。
合掌

平成6年1月

(説明板より)


雲立のクス



雲立のクス
(静岡県浜松市・浜松八幡)





(平成16年11月28日)

雲立くもだちのクス

昭和27年4月1日県指定天然記念物
浜松市教育委員会

楠の巨樹で、地上1.5mの幹回り約13m、根元回り14m。
枝張り東西約21m、南北約23m、樹高約15mあり、幹の下部には大きな空洞がある。
幹は地上1.5mのところより数枝に分かれ、古木の部は樹勢が衰えているが、新生部はすこぶる旺盛で枝葉は四方に繁茂している。
永承6年(1051)八幡太郎義家が当八幡宮に参籠の折り、樹下に旗を立てたとの伝承から「御旗楠」と称された。
また、元亀3年(1572年)徳川家康は三方原合戦に敗れ、武田軍に追われてこの楠の洞穴に潜み、その時瑞雲が立ち上がったとの古事により「雲立の楠」と称されるようになった。

(説明板より)






お茶の水

(東京都三鷹市井の頭・「井の頭公園」内)





(平成23年4月29日)

「お茶の水」の由来

その昔 当地方へ狩に来た徳川家康が この湧水の良質を愛して よく茶をたてました
以来この水は お茶の水と呼ばれています

東京都

(説明板より)






井の頭公園恩賜公園
(東京都武蔵野市御殿山1−18−31)




(平成23年4月29日)

【健康オタク】

家康は今でいう「健康オタク」で、晩年になっても鷹狩に励み、粗食に徹して自分で薬草を調合して服用していた。
梅毒感染のリスクのある遊女は決して相手にしなかった。
ひょっとしたら若い頃身体を鍛えていたのに、晩年になって女色と美食に溺れて死んだ秀吉の轍は踏むまいと思ったのかもしれない。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月13日 追記)


【朱子学の副作用】

家康は、主君に対する忠義を最も重視する朱子学を家臣に学ばせた。
大名も家臣が忠実でないと困るので、朱子学を大いに学ばせた。
ところが、そのことが幕府の運命を狂わせた。
まさに家康にとって想定外の事態が生まれたのである。

家康が朱子学に期待したのは日本人の心に「主君への忠義」が定着することだ。
二度と明智光秀のような人物を出してはならないから、そのために家臣に朱子学を学ばせたのである。

朱子学は忠義を重視するから、その対象である主君についても厳密に定義する。
主君には覇者と王者の二つのタイプがある。
覇者というのは実は本来は悪い意味であり、「武力や陰謀で天下を乗っ取った者」のことである。
それに対して王者とは世の中を徳をもって治める真の主君である。

朱子学の本場中国にはそんな王者は一人もいないと日本人は考えるようになった。
王朝交代があるということは、前の皇帝を殺した奴が皇帝になれるということで、基本的に中国は覇者の国であるということだ。
しかし、日本には有史以来連綿と続いている天皇がいる。
天皇こそ中国にも存在しなかった理想的な王者であり、徳川家は歴史を見ればわかるように覇者である。
江戸時代初期には、幕府、つまり将軍は思う通りの政治をやり、天皇の口出しを一切許さなかった。
それが幕末になると、王者である天皇こそ真の忠義を尽くすべき対象であり、天皇に忠義を尽くすのならば将軍など無視していいという時代の風潮が生まれた。

だから徳川御三家の水戸徳川家(水戸藩)ですら、幕府が天皇の許可を得ないで開国条約に調印したことを厳しく非難したのである。
家康の意図は完全に裏目に出た。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月15日 追記)


【家康の情報戦略】

情報・工作面でいえば、家康は秀吉の亡くなる3年前から諜報謀略の天才、小幡景徳おばたかげのりを武者修行の名目で大坂方面に放って重要な情報をもたらせました。
小幡は、その後、豊臣方の家臣として入り込み、大坂夏の陣前の軍議では真田幸村の城外積極戦を論駁して「冬の陣で既に外濠を埋められた後の城周辺での戦闘」という、家康にとって最も都合の良い策を淀君に採らせました。
この小幡景徳は、「孫子の兵法」用間篇第十三に示すところの「内間」と「死間」(ディス・インフォメーション)の両方の役割をしていると言えます。
ちなみに、小幡景徳は武田信玄の家臣であった時から熱心な孫子研究者でした。

カウンター・インテリジェンスに関してですが、家康の政権は服部半蔵に代表される伊賀忍者、今でいうところのスパイ兼特殊部隊の活動によって支えられてきました。
天正18年(1590年)、家康は江戸に居城を構えるに及び、服部半蔵以下約200名の忍者を集め、邸と禄をあてがって隠密役を務めさせたのです。
徳川時代の忍者(しのび)あるいは「お庭番」という情報組織は200年の長期政権を支えた、全国に張り巡らされた隠密網といえるでしょう。

(参考:太田文雄 著 『日本人は戦略・情報に疎いのか』 芙蓉書房出版 2008年第1刷発行

(令和元年11月9日 追記)


芝東照宮



芝東照宮

(東京都港区芝公園4丁目)





(平成18年2月22日)

芝東照宮鎮座由来記

(御祭神)
徳川家康公
(創祀沿革)
当宮御祭神(御神体)は公の生前自ら駿府城に於て祭儀をなされた寿像である。
元和2年4月17日、公の薨去こうきょの際、公より「像を増上寺に鎮座させ、永世国家を守護なさん」と仰せられ翌年3月、現在地に社殿(安国殿)が創建された。
明治以降、神仏分離令により、芝東照宮となった。
旧社殿は権現造りで国宝になったが、先の戦火で焼失し、現社殿は昭和44年完成する。
公の御神徳による東部を鎮護する代表的なお社です。
徳川家康公の思想を御遺訓から学び取ると勤勉、慎重、堪忍、自責、簡素、倹約です。
以て世の中の安寧、世界の平和を希求する厭離穢土おんりえど、欣求浄土ごんぐじょうどの御旗に託しているのです。

平成6年4月17日
芝東照宮社務所

(説明板より)


上野東照宮



上野東照宮
(東京都台東区上野公園9−88)





(平成19年4月28日)

上野東照宮とうしょうぐう (国指定重要文化財)

台東区上野公園9番

藤堂高虎は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。
これが上野東照宮の創建といわれている。
あるいは、寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。
正保3年(1646)、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈り、それ以後、家康を祭る御宮を東照宮と呼ぶようになったのである。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り変えたもの。
その後数回、修理を加え、現在に至る。
社殿の構造は、手前から拝殿はいでん・幣殿へいでん(石いしの間ともいう)・本殿からなり、その様式を権現造ごんげんづくりという。
華麗荘厳を極め、金色堂とも呼ぶ。
本殿・拝殿・幣殿は、唐門からもん・透塀すかしべいとともに構造・様式がすぐれ、貴重であるので、国の重要文化財に指定されている。
参道入口の石造明神みょうじん鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠50基も国指定の重要文化財である。

平成8年7月
台東区教育委員会

(説明板より)

銅燈籠



銅燈籠
(上野東照宮)





(平成19年4月28日)

銅燈籠どうとうろう

台東区上野公園9番

東照宮社殿唐門からもん前と参道に、50基の銅燈籠が並んでいる。
燈籠は神事しんじ・法会ほうえを執行するときの浄火を目的とするもの。
照明用具ではない。
浄火は神事・仏事に使う清めた火。
燈籠は上部から、宝珠ほうじゅ・笠・火袋ひぶくろ・中台ちゅうだい・竿さお・基壇で構成されている。
火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。
火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現とうしょうだいごんげん霊前に奉納したもの。
竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。
それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘1基をはじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献2基、同年4月17日奉献45基、同5年孟夏もうか17日奉献2基となっている。
慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日。
その日の奉献数が最も多い。
これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。

平成8年7月
台東区教育委員会

(説明板より)

唐門



唐門
(上野東照宮)





(平成19年4月28日)

唐門(唐破風造り四脚門)

日本には一つしかない金箔の唐門である。
扉には梅に亀甲の透彫、門柱には左甚五郎作昇竜(右)降竜の高彫、門の側面左右上部の松竹梅に錦鶏鳥の透彫など非常に精巧を極めたものである。
明治40年に国宝に指定された。

(説明板より)

本殿・金色堂



本殿・金色堂
(上野東照宮)





(平成19年4月28日)



仙台東照宮
(宮城県仙台市青葉区東照宮1−6−1)

石灯籠と随身門


(平成24年6月2日)

東照宮由緒

御祭神 徳川家康公
例祭  4月17日

仙台藩二代藩主伊達忠宗ただむね公は、徳川幕府への尊崇・感謝の標として、慶安2年(1649)5月28日、三代将軍徳川家光公に東照大権現の仙台勧請かんじょうを願い出て許しを受け、同年8月17日普請始ふしんはじめ(着工式)を行った。
この地は玉手崎たまてざきとよばれ、天正19年(1591)10月、徳川家康公が葛西大崎一揆の視察を終へて江戸へ戻る途中、藩祖伊達政宗公と宿陣された所で、祭神縁ゆかりの場所として社地に選ばれたという。
尚、この地にあった天神社は東隣に移され、寛文7年榴岡に移された(現在の榴岡天満宮)。
社殿が完成したのは、着工以来5年後の承応3年(1654)である。
同年3月16、17日に造営落成御遷座ごせんざの儀式が荘厳そうごんに行われた。
造営に当った人足58万3675人、大工12万9967人、材木2万4730本、総工費小判2万2496両を要した。
諸国に材を求め、一流の工匠が工事に携わる等、仙台藩総力をあげての大事業であり、伊達文化の粋を結集したものであった。
以後、伊達家の守護神として尊崇され、明暦元年(1655)より毎年9月17日を祭典日と定め、藩主在国の年には城下18ヶ町に命じ、神輿渡御の先駆として山鉾を出さしめ、藩内最大の祭礼であった。
この祭を仙台祭と称し、江戸時代末期まで盛大に行われた。
昭和10年8月6日早朝、失火により幣拝殿へいはいでんが焼失し、貴重な文化財が烏有うゆうに帰したが、昭和39年11月17日、氏子崇敬者の協力により原形に復興された。
本殿・唐門からもん・透塀すきべい・随身門ずいしんもん・石燈籠・石鳥居は国指定重要文化財に、手水舎てみずやは県指定有形文化財に、それぞれ指定されている。
昭和53年6月、唐門・透塀の大修理が竣工、昭和55年6月には本殿の修復工事が完了して、創建時の荘厳華麗な姿に復元された。

境内社 古峰神社
境内地 9700坪
鎮座地 仙台市東照宮1丁目6番地1号  東照宮社務所

(説明板より)

重要文化財 石燈籠
昭和55年1月26日附指定

創建時には伊達家一族家臣より38基の石燈籠が奉献されていたが、寛文事件(伊達騒動)後、事件に関係した重臣の石燈籠は取り除かれ、現在はその後奉献されたものを合せて37基が境内に立ち並ぶ。
承応3年(1654)の刻銘があるもの31基、延宝8年(1680)の刻銘があるもの2基、天和2年(1682)の刻銘があるものが4基あり、文化財指定の社殿とともに一体としてその価値を形成するものである。
拝殿前の2基は花崗岩、その他は当地産の石に彫刻作成して奉納されたものである。

東照宮の参道

正面の参道は御社殿の竣工と同時期に完成している。
石鳥居をくぐり御神橋を渡ると、随身門前の長い石段は緩やかな勾配で、階段と踊り場が交互に配置され、段数も下から順に4段4段4段3段4段3段3段4段4段3段2段4段3段4段と大変リズミカルで、踊り場も広い所や狭い所があり実に変化にとんでいる。
左右の石燈籠を眺めながら進むと随身門に達する。
宮町の通りが東照宮を起点に南に一直線に伸びているのが一目でわかる。
この付近から石畳の石は安山岩から花崗岩に変り、急勾配の14の石段を上ると拝殿・手水舎の前である。
これらの配置は境内の地形に合わせて巧に計画され、他に見られない特徴を持っており、工事に携わった人々の創意と参拝者への配慮が深く感じられる参道である。

(説明板より)




拝殿
(仙台東照宮)



(平成24年6月2日)

御祭神 徳川家康公

徳川家康公は天文11年(1542)12月26日、三河国みかわのくに(愛知県)岡崎城で誕生された。
幼少より幾多の艱難辛苦かんなんしんくに耐え抜き、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに勝利を収め天下を統一し、幕藩体制を樹立して江戸時代260余年の太平の基もといを築き、産業を興し学問の振興に努め、近世日本の発展に偉大な功績を残された。
元和2年(1616)4月17日、駿河するが城(静岡)に於いて薨去こうきょされた。

御遺訓

人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくが如し。
急ぐべからず。
不自由を常とおもへば不足なし。
心に望のぞみおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍かんにんは無事長久ちょうきゅうの基もとい
いかりは敵とおもへ。
勝事かつことばかり知しりてまくる事をしらざれば害がい其身そのみにいたる。
おのれを責せめて人をせむるな。
及ばざるは過ぎたるよりまされり。

(説明板より)




手水舎
(仙台東照宮)



(平成24年6月2日)

県指定有形文化財
昭和39年9月4日指定
手水舎てみずや 附水盤

承応3年(1654)造。
木造、欅材、木地呂塗。
屋根切妻造銅瓦葺。
水盤は備前国大島産の花崗岩で出来ています。
手水舎は参拝の前に口と手を水で洗い、心身を清めるところです。

(説明板より)




本殿

平成23年3月の「東日本大震災」被害の修復整備中と思われる



(平成24年6月2日)

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