浜松城 はままつじょう

静岡県浜松市元城町100-2


浜松城 平成16年11月28日

浜松城跡

浜松城は、徳川家康が遠州攻略の拠点として築いた城で、元亀げんき元年(1570)6月に入城し、17年間在城した。
東西600メートル、南北650メートルの規模で、南の東海道に大手門が開き、東から西へ三之丸、二之丸、本丸、天守台と連なり、順次高さを増す。
ここは、その天守曲輪くるわの跡である。
家康の後、城主は代々普代ふだいの大名が勤め、在城中に老中ろうじゅうまで栄進した人が多い。
中でも水野越前守忠邦みずのえちぜんかみただくにの名はよく知られている。
石垣は野づら積みと呼ばれる堅固な作りで、古い石垣の特徴をよく残しており、浜松市の史跡に指定されている。

浜松市

(説明板より)

浜松城復興天守 浜松城復興天守

徳川家康と出世城

浜松城は、三方ヶ原台地の東南端にあって、徳川家康が築いた。
家康は天文11年(1542)三河国岡崎城内に誕生し、父は松平広忠。
母に生別、駿府に少年時代を過ごすが、岡崎に戻り、永禄11年(1568)に三河から遠江に入り、各地を転戦して引馬城をはじめ諸城をしたがえると共に、元亀げんき元年(1570)長子の信康に岡崎城をゆずって、自らは浜松城へ移り、駿遠すんえん経営の本拠と定めた。
家康は、29歳から天正14年(1586)45歳で駿府城(静岡市)に入るまで、在城17年に及んでいる。
有名な姉川、長篠、高天神城、小牧・長久手の戦いもこの期間に行われ、特に元亀3年(1572)の三方ヶ原合戦は、家康の生涯における難戦で、関ヶ原合戦以上の戦いであった。
家康にとって、この浜松在城17年間は、徳川300年の歴史を築く試練の年でもあった。
当時の城郭は、南北500m、東西約450mで、三方ヶ原台地の斜面に沿い、天守閣・本丸・二の丸、三の丸がほぼ一直線に並び、梯郭ていかく式の築城法に属している。
その他作左曲輪さくざくるわ、出丸でまる等もあった。
この浜松城は、豊臣の家臣、堀尾吉晴氏によって天守が築かれたといわれているが、江戸に幕府が開かれてからは、代々の諸大名にこれを守らせ、浜松藩政約260年の間に再任を含めて25代の城主が在城した。
在城中に老中に5人、大阪城代に2人、京都所司代に2人、寺社奉行に4人(兼任を含む)が登用されており、なかでも水野忠邦は、天保の改革でよく知られている。
そのことから、浜松城が出世城ともいわれるようになった。
明治維新以後、城郭は壊され、すっかり荒廃していたが、昭和33年春浜松市民の努力が結実し、旧天守閣跡に新天守閣が再建され、昭和34年6月1日市の史跡に指定された。

(リーフレットより)

天守閣内部 天守閣内部

内部は資料館になってます。
展示品 展示品
展示品 展示品

略絵図 略絵図(安政年間)


浜松城歴代城主(寛政重修諸家譜に拠る)

城主名 在城期間 石高 前封地 転封地
徳川家康 1570年~1586年 56万石 岡崎 駿府
堀尾帯刀吉晴たてわきよしはる 1590年~1599年 12万石 近江佐和山  
堀尾信濃守忠氏ただうじ 1599年~1600年 17万石   出雲松江
松平左馬亮忠頼さまのすけただより 1601年~1609年 5万石 美濃金山  
水野対馬守重仲しげなか 1609年~1619年 初:2.5万石
後:3.5万石
常陸 紀伊新宮
高力こうりき摂津守忠房ただふさ 1619年~1638年 初:3.1万石
後:3万石
武蔵岩槻 肥前島原
松平和泉守乗寿のりなが 1638年~1644年 3.5万石 美濃岩村 上野館林
太田備中守資宗すけむね 1644年~1671年 3.5万石 三河西尾  
太田摂津守資次すけつぐ 1671年~1678年 3.2万石   大阪城
青山因幡守宗俊むねとし 1678年~1679年 5万石 大阪城代  
青山和泉守忠雄ただお 1679年~1685年 5万石    
青山下野守忠重ただしげ 1685年~1702年 5万石   丹波篠山
松平伯耆守資俊すけとし 1702年~1723年 7万石 常陸笠間  
松平豊後守資訓すけのり 1723年~1729年 7万石   三河吉田
松平伊豆守信祝のぶとき 1729年~1744年 7万石 三河吉田  
松平伊豆守信復のぶなお 1744年~1749年 7万石   三河吉田
松平豊後守資訓すけのり 1749年~1752年 7万石 三河吉田  
松平富之助資昌とみのすけすけまさ 1752年~1758年 7万石   丹後宮津
井上河内守正経まさつね 1758年~1766年 6万石 京都所司代  
井上河内守正定まささだ 1766年~1786年 6万石    
井上河内守正甫まさもと 1786年~1817年 6万石   陸奥棚倉
水野越前守忠邦ただくに 1817年~1845年 6万石 肥前唐津  
水野金五郎忠精ただきよ 1845年 7万石   出羽山形
井上河内守正春まさはる 1845年~1847年 6万石 上野館林  
井上河内守正直まさなお 1847年~1868年 6万石   上野鶴舞

(参考文献:『浜松城と家康公』より)


天守曲輪




天守曲輪





(平成16年11月28日)

天守曲輪

曲輪というのは、城や砦とりでを石や土で囲んだ所をいう。
ここは丘陵きゅうりょうの西のはしの最も高い所にあり北東と南東の方向にはり出した菱形ひしがた(東西56m・南北68m)に近い形をしている。
周囲は低い土塁どるい(土でつくったへい)があり、その下に石垣をめぐらしている。
東に天守門、西に埋門うずみもんがあり、内部は広場となっていた。

(説明板より)

石垣 石垣

石垣の説明板 (説明板より)

浜松城の石垣(野面のずら積み)

浜松城の石垣は見るからに荒々しく、外観は粗雑で一見崩れやすいように思えますが、4百年の風雪に耐え、いまなお当時の面影を残しています。
この石垣は野面積みといい、自然石を上下に組み合わせて積む方法で、慶長(1596年~1615年)以前はこの方法が多く用いられていました。
石の大きい面を内側にして長く押し込み(牛蒡ごぼう積み)、その内側に小型の栗石くりいしを1~1.5メートルほど詰め、さらに砂利じゃりを入れてあるので水はけもよく、水圧で崩れることがありません。
石垣表面の隙間には詰め石をし、外観は乱雑ですが、堅固に造られています。
浜松城は、特に天守台と天守門跡付近の石組が堅く、石も大きなものが使われています。
また、突角部には長方形の石材を小口と側面が交互になるように配した算木さんぎ積み法を用いています。
石垣の斜面は直線的で、57度~78度の傾斜をしています。
石垣に用いた石材は珪岩けいがんと呼ばれる物がほとんどで、そのほか石灰岩、結晶片岩けっしょうへんがんなどが見られます。
珪岩は浜名湖北岸の山々でみられ、現庄内しょうない地区の大草山おおくさやまや根本山ねもとやま、対岸の湖西市知波田こさいしちばた付近で切り出され、佐鳴湖さなるこ東岸まで船によって運ばれ、そして、浜松城まで運ばれたと推定されます。
この石垣がいつの時代に築かれたかについては正確な資料がないのでわかりませんが、二代城主堀尾吉晴ほりおよしはるの頃(1590年頃)と考えられています。

(説明板より)

本丸跡



本丸跡






(平成16年11月28日)
家康公像 『若き日の徳川家康公』像
(本丸跡)

本丸

天守閣が城の象徴なら、本丸は城の本拠地である。
普通の城は天守閣をとり囲むように本丸が配置されているが、浜松城の場合は天守閣の東、約17m下につくられた。
周囲を石垣で囲み、南に正門である鉄門があった。
北には富士見櫓やぐら、南東のすみに二層の菱櫓ひしやぐらを置いた。
本丸内の建物についてのくわしいことはわからない。

(説明板より)

二の丸跡

二の丸跡

(本丸跡から見る)

正面の道の左側が浜松市立元城小学校。
右側が浜松市役所。



(平成16年11月28日)

二の丸

本丸の東に位置して土地も一段と低い。
ここは城主の家と浜松藩の政治をおこなう政庁せいちょうがあり、江戸時代を通じて藩の政治の中心であった。
広さはおよそ5000㎡(1500坪)。
主な建物は表御殿おもてごてん(藩の政治をする所)と奥御殿おくごてん(城主の家)であり多くの部屋があった。
現在は市役所と元城小学校体育館が建てられている。

(説明板より)

略絵図の説明板 説明板より


浜松城公園



浜松城公園

浜松城を含む周辺一帯が公園として整備されていました。



(平成16年11月28日)

浜松城公園のあゆみ

浜松城は、徳川家康が元亀元年(1570年)入城以来17年間在城し、徳川治政265年の基礎をつくった出世城として有名です。
昭和24年この城址を含む12.6ヘクタールを都市計画公園に決定し、昭和25年子供博覧会を記念して動物園、さらに昭和32年には国民体育大会を機に、市営プール等の施設を建設しました。
昭和33年には、浜松城復元の気運が高まり市民の浄財を基に再建されました。
昭和52年浜松城公園が天皇陛下御在位50年記念公園に指定され、市営プール・動物園を移動し、市の基幹公園にふさわしい緑と水と土の自然を生かした日本庭園・石舞台・作左の森展望広場・芝生広場・せせらぎ池・緑の回廊を整備しました。

昭和62年4月
浜松市長 栗原勝

(碑文より)


案内

開館時間:午前8時30分~午後4時30分
休日:12月29日・30日・31日
入場料:大人150円
交通:JR浜松駅からタクシーで5分


【浜松城】

浜松城は、寛正年間(1460年~66年)、名族・吉良きら氏の家臣が築いたことに始まるが、方100メートル程度の小城であり、飯尾いいお氏が城主になっても、その規模はあまり変化がなかった。
それに大改修を加えて堅城に仕立て上げたのは徳川家康であり、家康は築城家としても優れていることを立証した。
家康は、豊臣秀吉によって関東に移封されるまでの20年間、浜松城に在城し、秀吉政権下のナンバーワンの権勢を築いた。
そこで浜松城は家康の出世城とされ、江戸時代には城主から老中などが輩出した。
ちなみに、天保の改革を実施した水野忠邦は、老中になりたいばかりに家臣の反対を押し切り、唐津藩主から実収の少ない浜松藩主へと自ら志願して転じている。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月9日 追記)


浜松城  徳川家康


近くの史跡
東照宮



東照宮
(静岡県浜松市元城町)




(平成16年11月28日)
曳馬城跡の碑 曳馬城跡の碑
(東照宮入口)

城に関する説明板等は見当たりませんでした。

曳馬城について

曳馬城(引間城・引馬城)の築城時期、築城者は不明。
永正11年(1514)、今川家の宿将・飯尾賢連が京都から移住し、今の東照宮附近に小規模の平城を築き、遠州の支えとした。
三代目の飯尾豊前守連竜は今川氏真うじざねに背信を疑われ暗殺され、妻のお田鶴の方が女城主となったが、永禄11年(1568)に徳川家康に滅ぼされた。
家康は、永禄12年(1569)までに遠州国内をほぼ平定。
翌元亀元年(1570)にかけ、古城(曳馬城)に住みながら浜松城を築いた。
明治19年、曳馬城の一角に東照宮が建てられたが、その後、戦災で焼失。
昭和33年、現在の鉄筋コンクリート銅板ぶき権現造りに再建した。

(参考文献:『浜松城と家康公』)


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