(別称:亀ヶ城)
棚倉城跡の説明板より
二代将軍徳川秀忠は、丹羽五郎佐エ門長重に命じて、棚倉に平城を築かせた。
長重は案を練り、この地にあった近津神社の神境を最適地とし、宮を現在の馬場都々古和気神社に移し、寛永2年、この地に築城をはじめた。
寛永4年、長重は白河に移されたが、代わって滋賀県近江山城より内藤豊前守信照が城主となった。
阿部美作守正静の代になり、戊辰戦争の兵火にかかり、慶応4年6月24日落城した。
この間250年、城主の代わること16代であった。
(棚倉町・棚倉町観光協会)
「亀ヶ城址」(棚倉城)の碑 |
戊辰戦争
慶応4年(1868年)6月16日、征討軍が茨城県北茨城市の平潟港に上陸し、平[たいら]方面で戦闘が始まったため、棚倉藩は4月から始まっていた白河方面の戦闘と平方面に出兵をしておりました。
このため、棚倉城にはほとんど守備兵がいないという状況になってしまい、6月24日に板垣退助が率いる800名の征討軍の攻撃に耐えられず、たった1日で落城してしまいました。
追手門跡 (平成21年9月13日) |
棚倉城追手門跡 たなぐらじょうおうてもんあと
元和8年(1622)常陸国古渡ひたちのくにふつとから棚倉に入封した丹羽長重にわながしげは、寛永2年(1625)この地に鎮座していた近津明神ちかつみょうじん(馬場都々古別神社ばばつつこわけじんじゃ)を現在の馬場に遷宮せんぐうして、その境内地に輪郭式りんかくしき(本丸・二ノ丸・三ノ丸)の平城ひらじろである棚倉城を築城しました。
本丸には大きな土塁どるいを築いて、二ノ丸西側にのみ石垣を用いる等の特徴があります。
長重は寛永4年に白河へ転封となり、白河城の改築も行っています。
長重の父は織田信長の家臣で安土城築城の責任者を務めた丹羽長秀にわながひでです。
棚倉城は関東と東北の境目にあることから、親藩しんぱん・譜代ふだいの大名が治める城でしたが、慶応4年(1868)の戊辰ぼしん戦争によって城下の一部と共に焼失しました。
城の正門である追手門は明治20年(1887)東白川郡役所の建設に伴う盛土で長く所在が不明になっていましたが、平成17年の試掘調査で門の礎石6基が発見され、位置が判明しました。
追手門の構造は礎石の配置から、脇戸わきどと脇塀わきべいを持つ高麗門こうらいもんと呼ばれる門であったと想定されます。
礎石の材料には白河石が利用されていました。
発見された遺構は盛土して保護を図っています。
棚倉町教育委員会
(説明板より)
櫓門跡(二重) (平成21年9月13日) |
内堀 |
本丸屋敷跡(平屋 393坪) |
棚倉城本丸模型(棚倉町中央公民館)
展示室 |
【棚倉城跡】
元和8年(1622)常陸国古渡から棚倉に入封した丹羽長重は、寛永2年(1625)この地に鎮座していた近津明神(馬場都々古別神社)を現在の馬場に遷宮して、その境内地に輪郭式(本丸・二ノ丸・三ノ丸)の平城である棚倉城を築城しました。
この地に築城した理由として、平城を建設するのに充分な面積が得られ、城の西側が急な丘になっており、外敵から城を守るのに都合の良い土地と判断されたためと考えられています。
長重は城郭が未完のまま、寛永4年(1627)に白河へ転封を命ぜられ、替わって内藤信照ないとうのぶてるが入封して城郭の完成と城下町の整備を行いました。
城名については城の壁が荒土あらつちのままであったので「新土城あらつちじょう」、近津明神の跡地に築城したので「近津城」とも呼ばれました。
明治に編纂された『東白川郡沿革私考』によれば城の規模は次の通りです。
本丸の四方は多門たもんで土塁上を囲み、2重の隅櫓すみやぐらが4箇所に建っていました。
本丸は東西33間(約60m)・南北40間(約73m)の広さで、本丸土塁の高さ3間半(約6.4m)、本丸堀の広さ20間(約36m)、堀の深さ4間(約7.3m)、堀の水深は2間1尺(約3.8m)、二ノ丸を囲む塀の長さが583間(約1,061m)、二ノ丸塀の高さ6尺5寸(約1.9m)、二ノ丸土塁の高さは7尺5寸(約2.3m)、堀の広さは8間(約14m)、堀の深さは3間2尺(約6m)、水深が7尺(約2m)と伝えられています。
完成した城下には南から北に水戸街道が通っていました。
江戸時代には関東と東北の境目にある城として、親藩・譜代大名が治める城下町でしたが、慶応4年(1868)6月24日に戊辰戦争による兵火で城下の一部と共に焼失しました。
最後の城主は白河から入封した阿部正静あべまさきよです。
本丸は西向きに凸型を呈し、本丸を取り巻く東西南北が二ノ丸で長方形を呈しています。
北西に三ノ丸があり林曲輪はやしぐるわとも呼ばれていました。
本丸平場を囲む土塁の大部分と本丸堀は現存しています。
本丸には東門枡形ひがしもんますがたと北門枡形がありました。
本丸平場には昭和43年に棚倉町中央公民館と噴水庭園が、昭和53年に棚倉町立図書館が建設されています。
二の丸は市街地として利用されていて、二ノ丸堀は完全に埋め立てられていますが、三ノ丸側土塁の一部が残っています。
二ノ丸の城門としては、東辺に追手門、南辺に南門なんもん、北辺に東向きの北門、西南隅の石垣が切れたあたりに埋門うずめもんがあり、追手門は水戸街道に面していました。
二ノ丸西面の土塁上には約160mに亘って石垣が残っています。
高さは8段(石)程度で南側半分がやや高く平均で3.2mの鉢巻はちまき石垣です。
この石垣の特徴は、野面石のずらいし(自然石)の玉石を用いている点にあります。
堀跡は水田として利用されていましたが、昭和47年の町立棚倉中学校の建設に際して埋め立てられました。
三ノ丸は「正保城絵図しょうほしろえず」等を見ると多くの木々が描かれていて、防御効果と防風林を兼ねて近津明神の森を残したものでしょうか。
追手門の枡形附近に残る県指定天然記念物「棚倉城跡の大ケヤキ」は、近津明神の神木を残したものとも伝えられ、樹齢は約600年と推定されています。
現在、三ノ丸は宅地として利用されていて遺構のほとんどは消滅しています。
(展示パネル・説明文より)
櫓門跡(二重) (平成21年9月13日) |
忠霊塔 (平成21年9月13日) |
碑文
御製
國のため命ささげし人々の
ことを思へば胸せまりくる
俊六
この塔は支那事変以来太平洋戦争にいたる全戦域において祖國のため敢然身を挺してその難にあたり戦陣にたおれた英霊二百十二柱をお祀りしたものであります
生還の戦友等相謀り廣く有志の協賛をえて この霊を慰め殉國の至誠を永くつたえようとの切なる心情から忠霊塔建設を提唱されたので町はこのことを議会にはかり資金の一部を補って建立したものであります
私達町民は尊い御霊にたいし敬虔な誠をさゝげるとゝもにとこしえに安らけく鎮りまさんことを祈念し忠霊塔建設の記とします
昭和37年4月20日
棚倉町長 宗田義郎
『元帥畑俊六終焉の地』碑 (平成21年9月13日) |
土塁跡 |
隅櫓跡(二重) (平成21年9月13日) |
北二門跡(枡形) (平成21年9月13日) |
【初代藩主】
初代藩主 立花氏 (1604〜1620)
棚倉地方は鎌倉時代以降、永い年月の間、白川氏の領土であった。
白川氏の領土はもともとは、源頼朝から下総(茨城県)結城氏にあたえられたものだった。
後に分家して、福島県白河に拠点を置いた白川結城氏が本家をしのぎ、その勢力圏は南奥州から北関東にまで及んだ。
しかし、その白川結城氏も戦国期に入り、常陸太田(茨城県)の佐竹氏の台頭により滅亡した。
その間、棚倉は白川結城と佐竹の最前線の戦場となり、後には南下を目指す伊達氏と佐竹氏がこの地で対立した。
そして、天正18年(1590)の豊臣秀吉の全国平定にともなう「奥州仕置」すなわち領地決定により、棚倉は天領となり、戦火にまきこまれることはなくなった。
江戸時代に入り、棚倉の初代の藩主となったのは立花宗茂(たちばなむねしげ)であった。
宗茂は筑後柳川(福岡県)の城主であったが、関ヶ原の戦いで豊臣方につき改易、浪ろうの身となった。
その後、2代将軍秀忠に取り立てられ、慶長9年(1604)に棚倉に領地をあたえられ、のち加封となり、赤館を居城として支配にあたった。
元和6年(1620)宗茂は旧領地柳川藩11万石にもどった。
(『学びの門』の説明碑より)
学びの門 (平成21年9月13日) |
歴代城主 |
棚倉城ができる前は、赤館あかだてが中心で、伊達だて氏(宮城県)・佐竹さたけ氏(茨城県)と白川の結城ゆうき氏などの攻防が続き、最後は佐竹氏が棚倉地方を支配することとなった。
徳川氏が天下統一すると佐竹氏は秋田に移されて、棚倉地方は、北九州の立花氏が初代棚倉領主となる。
【初代城主】
丹羽五郎左衛門長重にわごろうざえもんながしげ公(1622〜1627)
丹羽氏は、関ヶ原の役で豊臣方であったため領地を取り上げられたが、慶長8年(1603)常陸古渡で1万石の大名に復活、同じく江戸崎で2万石、元和8年(1622)には、5万石の棚倉領主となる。
寛永元年(1624)幕府の命により、この地にあった近津明神を馬場に移して平城ひらじろの棚倉城を築き初代城主となる。
寛永2年着工し、同4年未完のまま、丹羽長重は白河へ10万石で移る。
【2代藩主】
内藤豊前守信照ないとうぶぜえんのかみのぶてる公(1627〜1665)
寛永4年(1627)近江おうみ(滋賀県)より5万石の棚倉城主となる。
寛永6年、京都大徳寺高僧、玉室ぎょくしつ和尚が紫衣しい事件にかかわって棚倉お預けとなったが、内藤城主は、赤館南麓にあった光徳寺に一つの建物を立てて大切にお世話をする。
城下町は商品の問屋や荷物を運ぶ馬の駅もできて、経済の中心地として発展する。
慶安3年(1650)から承応元年(1652)大坂城代という役にもついたが寛文5年(1665)江戸にて亡くなる。(74歳)
【3代城主】
内藤豊前守信良ないとうぶぜんのかみのぶよし公(1665〜1674)
寛文5年(1665)城主となる。
同年、市坂(旧上台への道)に愛敬稲荷神社を建てる。
同12年、城下の大火で武家屋敷136戸(北町・南町)、民家312戸(新町・古町など)が焼けた。
延宝2年(1674)、城主を退き、元禄7年(1694)蓮家れんげ寺境内に常念仏じょうねんぶつ堂を建てる。
同8年、亡くなる。(71歳)
【4代城主】
内藤豊前守弌信ないとうぶぜんのかみかずのぶ公(1674〜1705)
延宝2年(1674)に6万5000石で城主となる。
同12年に、本丸土塁上に鐘を造り、朝夕時刻を知らせる。
同14年、宇迦神社の拝殿を再建する。
元禄15年(1702)三十三観音堂を蓮家寺に寄進(寄付)する。
宝永2年(1705)駿河するが田中(静岡県)に移る。
【5代城主】
太田備中守資晴おおたびっちゅうのかみすけはる公(1705〜1728)
宝永2年(1705)駿河田中より5万37石余で棚倉城主となる。
宝永4年、花園に日蓮宗高徳山長久寺を造り、棚倉城の南門を移して山門とする。
享保8年(1723)幕府の奏者番そうじゃばんという職につき、同10年、寺社奉行にもなる。
同13年、若年寄に進み、上野こうずけ館林(群馬県)に移る。
【6代城主】
松平右近将監武元まつだいらうこんしょうげんたかちか公(1728〜1746)
享保13年(1728)上野館林より5万4000石にて棚倉城主となる。
同年、5万5000石、寺社奉行となる。
延享3年(1746)館林に帰城し、老中職となる。
【7代城主】
小笠原佐渡守長恭おがさわらさどのかみながゆき公(1746〜1776)
延享3年(1746)7歳で遠江とうとうみ掛川(静岡県)より棚倉城主になる。
近江(滋賀県)の2万石と棚倉の4万石で6万石となる。
寛延3年(1750)塙騒動(戸塚)があり、塙代官の依頼で棚倉より兵を出す。(塙は幕府領)
明和4年(1767)佐渡守に名が変わったが、近江2万石のこともあり、財政は非常に苦しく、藩内の生活は大変なものであった。
安永5年(1776)亡くなる。(37歳)
【8代城主】
小笠原佐渡守長堯おがさわらさどのかみながたか公(1776〜1812)
安永4年(1776)17歳で城主となる。
天明4年(1784)領地引替えにて、塙代官より瀬ヶ野・小爪・強梨・戸中・漆草・大梅・福岡・上手沢・下手沢・北山本・中山本・下山本・上渋井・中野・中塚・川上・川下を引き継ぐ。
寛政10年(1800)浅川一揆いっきを抑えるため、棚倉より兵を出す。
文化9年(1812)長昌ながまさに家督をゆずり隠居。
同年5月亡くなる。(49歳)
【9代城主】
小笠原主殿守長昌おがさわらとのものかみながまさ公(1812〜1817)
文化9年(1812)城主を継ぐ。
文化10年、紅葉山火防の役につく。
文化14年、肥前唐津(佐賀県)城主となる。
【10代城主】
井上河内守正甫いのうえかわちのかみまさもと公(1817〜1820)
文化14年、遠江浜松(静岡県)より6万石で棚倉城主となる。
文政3年(1820)幕府の役を辞め、病気と言って、棚倉には来なかった。
棚倉城に蛇が多いという伝説はこの頃作られた。
【11代城主】
井上河内守正春いのうえかわちのかみまさはる公(1820〜1836)
文政3年(1820)城主となる。
文政7年、英国船が常陸大津に上陸したので、棚倉は海岸に陣屋を設けて警備した。
天保5年(1834)寺社奉行となる。
天保7年、上野館林(群馬県)の城主となる。
【12代城主】
松平周防守康爵まつだいらすおうのかみやすたか公(1836〜1854)
天保7年(1836)石見いわみ浜田(島根県)より6万400石で棚倉城主となる。
嘉永7年(1854)城主を退く。
安政2年(1855)隠居。
【13代城主】
松平周防守康圭まつだいらすおうのかみやすかど公(1854〜1862)
嘉永7年(1854)兄・康爵の養子となり城主になる。
藩政改革に意を用い、「機業きぎょう(はた織り)」「瓦焼かわらやき」「梨子なし園」「こんにゃく栽培」「牧馬ぼくば」などを奨励した。
文久2年(1862)に亡くなる。
【14代城主】
松平周防守康泰まつだいらすおうのかみやすひら公(1862〜1864)
文久2年(1862)城主となる。
元治元年(1864)天狗党鎮圧のため、棚倉と江戸屋敷から兵を出す。
その年、16歳で亡くなる。
【15代城主】
松平周防守康英まつだいらすおうのかみやすひで公(1864〜1866)
元治元年(1864)城主となる。
慶応元年(1865)老中職を2回務める。
慶応2年(1866)天狗党事件で、常陸に兵を出した功績もあり、2万石加増で8万400余石となる。
(天狗党員の処刑も行う)
同年6月、白河城主になるよう命令があったが、同年10月中止となり、川越(埼玉県)城主となる。
このとき禄高8万443石となる。
【16代城主】
阿部美作守正静あべみまさかのかみまさきよ公(1866〜1868)
阿部家は8代43年間白河城主であったが、慶応2年(1866)6月19日、10万石で棚倉城主となる。
慶応4年、鎮撫総督(官軍)の命令で一時出兵したが、奥羽越おううえつ列藩同盟(東北の各藩と新潟の藩が手を組んで官軍に立ち向かうという同盟)に入り、白河城を中心に官軍と戦い、激しい攻防の末、東軍(東北勢)は敗れ、それぞれの藩に帰る。
この戦いで棚倉は55名の戦死者を出す。
ついで官軍は棚倉総攻撃に入り、6月24日、棚倉城は落城した。
この戊辰ぼしん戦争で棚倉城と古町などが戦火で焼失した。
棚倉城は江戸時代初めに出来て、江戸時代に終わった。
(244年の歴史であった)
(リーフレット『棚倉城と棚倉藩』より)
棚倉城二の丸南門 (福島県東白川郡棚倉町・長久寺) (平成21年9月13日) |
長久寺山門(棚倉城二の丸南門) |
長久寺と山門
長久寺は、宝永2年、太田備中守資晴公が駿州田中より移り棚倉藩5代城主となり、棚倉城南門外に仮堂を建て、宝永4年5月12日、花園の地に総本山身延山久遠寺第33世遠沾院日享上人を開山として、太田公、御母堂 本成院殿妙元日貞大姉位の菩提と、この地に法華経の道場を建立、夫公院高徳山長久寺(現在は瑞光院)を開創する。
当山山門は、その時に、棚倉城二の丸南門を山門として長久寺開基太田公が寄進移築されたもので、初代城主丹羽長重公が築城(寛永2年)の門と言われ、棚倉城に縁ある建物として現存する唯一のものである。
今現在はトタン葺、切妻造、薬医門、前面主柱・脇柱間を改築して仁王尊を安置している。
この仁王尊は、寺誌に「馬場村都々古別神社ノ本地仏維新ノ際託所火中ヨリ日要感得之右周旋人伊野下村」とある。
(説明板より)
長久寺 (福島県東白川郡棚倉町大字花園字沢目176) (平成21年9月13日) |
銅鐘 (福島県東白川郡棚倉町・蓮家寺) (平成21年9月13日) |
銅鐘について
蓮家寺の銅鐘は、正保4年(1647)、蓮家寺4世住職の尊譽ぞんよ上人の時に、藩主の内藤豊前守信照公が寄進した銅鐘です。
毎日、巳みの刻(午前11時)に響く鐘の音は、常念仏じょうねんぶつの勤行ごんぎょうが終ったことを知らせるためでしたが、城下の人々に昼食の時間を告げる鐘でもありました。
昭和18年に国の重要美術品に認定され、鐘楼しょうろうも建立当時のままで、貴重な江戸時代初期の建造物です。
棚倉町教育委員会
(説明板より)
内藤家の墓 (福島県東白川郡棚倉町・蓮家寺) (平成21年9月13日) |
旧松平周防守家中の墓碑 (福島県東白川郡棚倉町・蓮家寺) (平成21年9月13日) |
蓮家寺山門 (福島県東白川郡棚倉町・蓮家寺) (平成21年9月13日) |
棚倉町指定重要文化財
蓮家寺れんげじ山門
慶長8年(1603)この地を支配した代官彦坂小刑部ひこさかこぎょうぶの家臣であった蓮池主水はすいけもんどと糟屋彌兵衛かすややへいは浄土宗の信者でしたが、浄土宗の寺がないため塙の秀哲上人しゅうてつしょうにんを招請し、精舎しょうじゃを建立しました。
当時は阿弥陀寺といっていましたが、まもなく開創の施主両名の名をとり蓮家寺としました。
安永6年(1777)に冠木門かんぎもん・黒門・山門(楼門)の三門が建立され、これを総称して蓮家寺三門と呼ばれましたが、明治2年(1869)の火災で山門(楼門)だけが残りました。
建立当時は赤く紅殻べんがらが塗られて「城下の景観なり」とうたわれました。
このような規模の二層の山門は数少なく寺社建造物として、その価値は高く貴重な遺産です。
昭和55年5月31日指定
棚倉町教育委員会
(説明板より)
蓮家寺 (福島県東白川郡棚倉町棚倉新町131) (平成21年9月13日) |
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