源頼朝像 平成18年9月23日

源頼朝 みなもとのよりとも

久安3年(1147年)〜建久10年1月13日(1199年2月7日)

神奈川県鎌倉市・源氏山公園でお会いしました。


父は源義朝。母は熱田大宮司藤原季範の娘。
平治元年(1159年)の平治の乱で義朝が敗れたため、翌年平氏に捕らえられ、伊豆国に流罪となる。
治承4年(1180年)以仁もちひと王の平氏討伐の令旨りょうじに応じる形で、反平氏の兵を挙げる。
石橋山の合戦で敗れたものの、房総へ渡って千葉常胤らの力を得て勢力を回復、畠山重忠が頼朝軍に加わる。
富士川の戦で勝利し、鎌倉を本拠とする南関東軍事政権を確立し、武士の統制機関侍所別当に和田義盛を任じる。
寿永2年(1183年)同族の源義仲が平氏を追い落として京都に入ったが、頼朝は後白河上皇に接近し、義仲を出し抜いて東国の支配権を認めさせた。
このため義仲と対立。
翌年に弟の源範頼、義経を派遣して義仲を破る。
同年、頼朝の平氏追討の院宣が下る。
文治元年(1185年)平氏を滅ぼす。
また、同年、義経討伐のため自ら大軍を率いる。
文治5年(1189年)念珠ヶ関から比企能員を入れて出羽を攻めさせ、藤原泰衡を追討するため出陣。
建久3年(1192年)征夷大将軍となる。
翌年、弟の範頼を伊豆に追放し殺害する。
建久10年(1199年)急病のため出家し、その後没する。53歳。


源頼朝公の像



『源頼朝公』像

(神奈川県鎌倉市・源氏山公園)





(平成18年9月23日)

源頼朝公像

この銅像は治承4年(1180年)10月源頼朝公が鎌倉入りして以来八百年目に当る年を記念し よりよい鎌倉づくりに市民が心を通い合わせることを誓い合った証として有志の方々から寄せられた尊い浄財によって建立されたものです
この像が中世日本の政治経済文化の中心として栄えた鎌倉の歴史と郷土鎌倉の象徴として永遠に守り継がれることを願うものです

昭和55年10月
源頼朝公銅像建立実行委員会

鶴岡八幡宮



鶴岡八幡宮

(神奈川県鎌倉市雪ノ下2−1−31)





(平成18年9月23日)

鶴岡八幡宮

御祭神 応神天皇 比売神 神功皇后

当宮は源頼義公が前九年の役平定後、康平6年(1063)報賽のため由比郷鶴岡の地に八幡大神を勧請したのに始まる。
治承4年(1180)源頼朝公は源氏再興の旗を挙げ、父祖由縁の地鎌倉に入ると、まず由比郷の八幡宮を遥拝し「祖宗を崇めんが為」小林郷北山(現在地)に奉遷し、京に於ける内裏に相当する位置に据えて諸整備に務めた。
建久2年(1191)大火により諸堂舎の多くが失われたが、頼朝公は直ちに再建に着手し大臣山の中腹に社殿を造営して上下両宮の現在の結構に整えた。
以来当宮は武家の守護神として北条・足利・後北条・徳川各氏も社領等の寄進、社殿の修造を行い篤く尊崇した。

(説明板より)


大蔵幕府舊跡の碑





『大藏幕府舊跡』の碑
(神奈川県鎌倉市雪ノ下3−11)







(平成18年9月24日)

大蔵幕府舊跡

今ヲ距ル737年ノ昔治承4年源頼朝邸ヲ此ノ地ニ榮ミ後覇権ヲ握ルニ及ビテ政ヲ此ノ邸中ニ聴ク所謂大藏幕府是カリ
爾来頼家實朝ヲ経テ嘉禄元年政子薨ジ幕府ノ宇津宮辻ニ遷レルマデ此ノ地ガ覇府ノ中心タリシコト實ニ46年間ナリ

大正6年3月建之
鎌倉町青年會

(石碑・碑文より)

大蔵幕府跡



大蔵幕府跡
(神奈川県鎌倉市雪ノ下3−11・清泉小学校)





(平成18年9月24日)

源頼朝の墓



源頼朝の墓

(神奈川県鎌倉市西御門・大倉山中腹)





(平成18年9月24日)

国指定史跡
源頼朝の墓

昭和2年6月14日
文部省指定

源頼朝は義朝の嫡子で、平治の乱の後伊豆韮山に流されていた、治承4年(1180)北条時政の応援を得て、平氏追討の兵を挙げたが、石橋山の合戦に敗れ海路安房にのがれた。
しかし関東各地の家人の支持を得て鎌倉に入り、寿永3年(1185)平氏一門を滅亡し、ついで奥州の藤原氏を滅ぼして、全国を平定するにいたった。
頼朝は源氏の御家人武士を統制するため侍所、ついで公文所などをおき、幕府の組織をととのえ、右近衛大将となり、さらに征夷大将軍に任ぜられて、幕府を開いた。
墓の下方の平地は当時の幕府跡である。

昭和62年3月25日
神奈川県教育委員会

(説明板より)

白旗神社



白旗神社
(神奈川県鎌倉市西御門・大倉山裾)





(平成18年9月24日)

白旗神社 由緒記

祭神
源頼朝公
由緒
この地はもと源頼朝公居館(幕府)の北隅で持仏堂があり、石橋山の合戦にあたって髻もとどりの中に納めて戦ったという小さな観音像が安置され頼朝公が篤く信仰していた。
正治元年(1199)1月13日頼朝公が亡くなるとここに葬り法華堂と呼ばれ毎年命日には将軍が参詣し仏事を執り行い多くの武将も参列した。
その後鶴岡八幡宮の供僧ぐそう「相承そうしょう院」が奉仕して祭祀を続け 明治維新に際し寺は白旗神社に改められ源頼朝公を祭神として今日に至っている。
現在の社殿は明治維新百年を記念して昭和45年に源頼朝公報恩会の方々の篤志によって造営されたものである。

(説明板より抜粋)

法華堂跡





『法華堂跡』の碑
(神奈川県鎌倉市西御門・白旗神社)







(平成18年9月24日)

法華堂跡

堂ハモト頼朝ノ持佛ヲ祀レル所ニシテ頼朝ノ薨後其ノ廟所トナル
健保5年5月和田義盛叛シテ火ヲ幕府ニ放テル時将軍實朝ノ難ヲ避ケタルハ此ノ處ナリ
實治元年6月5日三浦泰村此ニ籠リテ北條ノ軍ヲ邀ヘ刀折レ矢盡キテ一族郎等五百餘人ト偕ニ自盡シ滿庭朱殷ニ染メシ處トス

大正13年3月建
鎌倉町青年團

(石碑・碑文より)

墓所入口と法華堂跡



墓所入口と法華堂(白旗神社)
(神奈川県鎌倉市西御門・大倉山裾)





(平成18年9月24日)

石塔



源頼朝公御石塔
(鹿児島県鹿児島市・鶴嶺神社)





(平成19年3月30日)

遷塔之記

正治元年(1199)に没した源頼朝公は、持仏堂であった大倉山麓の法華堂に葬られた。
幾星霜の後、江戸時代にはその跡を残すのみとなっており、安永年間島津家第25代島津重豪はそこに立ち、五輪塔が立つばかりの荒廃ぶりを悲しみ、玉垣を新造し、墓塔には勝長寿院から多層塔を移して墓所を再興した。
平成の世に至り、心無き者が墓塔を破壊し、修復のために雛形塔を試作し、検討の上、旧に復した。
頼朝公没後8百年を記念し、墓所再興の恩義ある鹿児島島津家に雛形塔を寄贈して、永くその恩に報いたいとする鎌倉市民有志の声が高まり、宗家島津修久氏のご快諾をえて、鶴嶺神社に源頼朝公墓所再興報恩塔として、玉垣を添え、遷座するものである。

平成11年8月吉日
鎌倉市民源頼朝公墓所再興報恩之有志

(碑文より)

鶴嶺神社



鶴嶺神社
(鹿児島市吉野町磯)





(平成19年3月30日)

鶴嶺神社

鶴嶺神社 鎮座地 鹿児島市吉野町磯
御祭神 初代島津忠久をはじめ歴代当主とその家族
      玉里島津家歴代当主とその家族
従神  家老5名 殉死者45名

島津氏は、その初代忠久が源頼朝の長庶子といわれ、鎌倉時代の初め文治元(1185)年より幕末から明治維新(1868)年に至るまで、約7百年に渉って南九州を良く統治支配し、幾多の名将・名君を輩出した武将の一族であります。

鶴嶺つるがね神社は明治2(1869)年11月、島津家歴代の当主とその家族等をお祭りする神社として、市内坂元町山下鶴嶺(現在の照国町)に創建されました。
同6(1873)年、社格を県社に列せられ、大正6(1917)年、島津家歴代に由緒深い旧集成館工場跡の現在地に遷座されました。
昭和10(1935)年、天皇陛下の地方行幸の際には幣帛へいはく料を賜りました。
現在、境内地は、国指定史跡集成館の一部となっております。

(説明板より)







名馬池月之像 
(東京都大田区・千束八幡神社)




(平成23年11月26日)

池月いけづき発祥伝説の由来

池月とは「宇治川先陣物語」にある名馬の名である。
治承4年8月(1180)頼朝、相洲石橋山の合戦に敗れて安房に逃れこの地の豪族、千葉常胤つねたね、上総介広常かずさのすけひろつね、等の参向を得再挙して鎌倉に向ふの途次こゝ千束郷の大池に宿営し八幡丸の丘を本陣として近隣諸豪の参陣を待つ、折からの皓月こうげつ池水に映るを賞でつる折りふし何處方よりか一頭の野馬、頼朝の陣所に向かって飛来り嘶いななく声、天地をふるはすばかりであった。
郎党之を捕へて頼朝に献ずるに馬体あくまで逞たくましく青き毛並に白き斑点を浮かべ恰も池に映る月影の如くであった為之を池月と命名して自らの料馬とする。
頼朝先に磨墨するすみを得、今またこゝに池月を得たるは之れ征平の軍すでに成るの吉兆として勇気百倍し来れりと云ふ。
士卒之を伝へて征旗を高く揚げ歎声やまざりしとか。
当八幡宮の別名を「旗上げ八幡」と稱するはこの故事による。
寿永3年春(1184)頼朝木曽義仲を京師に攻む。
義仲宇治、勢田の両橋を徹し河中に乱杭逆茂木を設けて寄手の渡を阻まんとす、この時鎌倉出陣に際し各々頼朝に乞ふて賜りたる名馬二頭の中、梶原景季かげすえは磨墨に、佐々木高綱は池月に打ちまたがり共に先陣を争った。
史書に云ふ宇治川先陣争いである。
池月一代の晴れの場所でこの一番乗りの功名が今に至るまで名馬の誉れを伝へてゐる。
この池月の誕生地が当八幡であって即ち池月発祥伝説の起こりである。
古くより里人の間に語り継がれ大井町線の駅名に(今の北千束駅)、又町会名にもなってゐたが、今はない。
遠き治承の昔より光芒すでに八百秋、時代の変遷と共にこの伝説の忘失を惜しみ誌して後世に伝へんとする。
尚磨墨を葬せし磨墨塚は南馬込に現存する。
氏子青年有志による池月太鼓は即ちこの伝説を太鼓に托したものであり毎年9月の祭日に奉納されてゐる。

   池月の
      蹄ひづめの音か
            撥ばちの冴

平成4年3月
     千束八幡神社
     洗足風致協会

(説明板より)






千束八幡神社
(東京都大田区南千束2−23−10)




(平成23年11月26日)

御由緒

御祭神 品陀和気之命(應神天皇)
当社は千束八幡神社と稱し 平安前期の貞観2年豊前國宇佐八幡を勧請し往時の千束郷の總鎮守としてこの巒上に創建せられ 今日に至る
遠く千百余年の昔より この地の氏神として尊崇せられ 普く神徳を授けてこらる
承平5年 平将門の乱が起こる 
朝廷より鎮守副将軍として藤原忠方が派遣せられたり
乱後忠方は池畔に館を構え 八幡宮を吾が氏神として篤く祀りき
館が池の上手に当るに依りて池上氏を呼稱 この9代目の子孫が日蓮を身延から招請す
之池上康光なり
八幡太郎義家奥羽征討の砌 この池にて禊を修し 社前に額づき戰勝祈願をなし出陣せりと伝えらる
源頼朝も亦鎌倉に上る途次 この地を過ぐるに八幡宮なるを知り 大いに喜び此処に征平の旗幟を建つる哉
近郷より将兵集まりて 鎌倉に入る事を得 旗挙げ八幡の稱あり
名馬池月を得たるも此処に宿営の折なりとの傳承あり
尚境内に武蔵國随一と云われし大松ありしが 大正13年惜しくも枯衰し今はその雄姿を見るすべもなし
古歌に「日が暮れて足もと暗き帰るさに空に映れる千束の松」と詠まれて居り 老松の威容が想像されよう
斯の如く當八幡神社は城南屈指の古社にして亦名社なり

宮司 恵良彰紀識

(説明碑・碑文より)


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