木曽義仲 きそ・よしなか

久寿元年(1154年)〜寿永3年1月21日(1184年3月5日)


通称は木曽冠者かんじゃ
父の義賢が久寿2年(1155)に武蔵の大蔵合戦で甥の義平に敗れて戦死すると、信濃国の木曽谷で乳母の夫である中原兼遠に養育された。
治承4年(1180)9月、以仁王もちひとおうの令旨りょうじによって挙兵。
翌年、北陸道を制圧。
寿永2年(1183)嫡子である義高を源頼朝の婿として鎌倉へ送り、倶利伽羅峠くりからとうげの戦いで平家の大軍を破って入京を果たす。
勲功により伊予守に任官したが、武家による初めての洛中軍政に公家たちの不満がつのり、以仁王の子である北陸宮の擁立を画策して朝廷との対立を深めた。
11月、院近臣の反乱を武力鎮圧してクーデターを起したが孤立。
翌年1月、征夷大将軍となって自ら旭将軍と称したが、早々に源範頼・源義経の大軍に攻められ、近江の粟津で敗死した。


首塚



朝日将軍木曽義仲塚
(京都市・法観寺)





(平成19年3月17日)

木曽義仲公 首塚

源義賢の二男。
父を源義平に殺されたのち木曽の中原兼遠に養育される。
1180年、以仁王の令旨を奉じて挙兵、平氏の軍を倶利伽羅峠に破り、叔父行平と呼応して、北陸道から入京。
征夷大将軍となり源頼朝・平氏と全国を三分したが、後白河法皇を諌めようとして衝突。
範頼、義経の大軍に破れて近江粟津で敗死する。
その首は家臣によりこの八坂郷に手厚く葬られた。

(説明板より)

観禅寺・八坂塔



法観寺・八坂の塔
(京都市東山区清水八坂上町388)





(平成19年3月17日)

霊應山八坂法観禅寺 八坂の塔

霊応山法観寺と号し、臨済宗建仁寺派に属し、通称「八坂の塔」と呼ばれる。
高さ46メートル・純和様建築・本瓦葺五重の塔(重要文化財)と薬師堂・太子堂(市指定文化財)が現存する。
殊に五重の塔は、東山一帯のシンボルとされている。
本尊として金剛界の五仏を安置する。
寺伝によれば、聖徳太子が如意輪観音の夢告により五重の塔を建て、仏舎利三粒を納め法観寺と号したという(589年)
またこの創建には古くから八坂郷を拠点としていた渡来系豪族狛人・八坂造がかかわるものと推測される(678年)
天歴2年(948)塔身が西に傾き、雲居寺僧・浄蔵貴所が加持してこれを復したという。
また治承3年(1179)清水寺衆徒と祇園神人の争いにより類焼したが、建久2年(1191)源頼朝により再建された。
その後、寺勢は振るわなかったが仁治元年(1240)建仁寺八世・済翁証救が入寺し禅刹に改める。
正応4年(1291)落雷により焼亡したが、延慶2年(1309)後宇多院の援助を受けて北条貞時・山内円成尼が復興した。
歴応元年(1338)以来、足利尊氏・直義兄弟は夢窓国師の勧めにより、全国に安国寺・利生塔を建てたが、山城国利生塔には当寺五重の塔をあて、仏舎利を奉納した。
あわせて播磨国印南庄の地頭職を寄進して当寺塔婆復興のための供養所とし、この間の事情を南禅寺渡来僧・清拙正澄(大鑑禅師)に『法観寺仏舎利塔記』として記させている。
康永元年(1342)住持・高山栄元の尽力で補修され、夢窓国師を大導師に迎え盛大な供養が執り行われた。
しかし、永享8年(1436)炎上、同12年、室町幕府6代将軍・足利義教公により再建され今日に至っている。

(リーフレットより)


木曽義仲の墓


寿永3年1月21日没
木曽義仲公の墓

(滋賀県大津市・義仲寺)




(平成17年4月9日)

義仲公墓(木曽塚)

土壇の上に宝篋印塔ほうきょういんとうをすえる。
芭蕉翁は木曽塚ととなえた。
義仲公の忌日きにち「義仲忌」は、毎年1月の第三日曜日に営む。

(「義仲寺案内」のチラシより)

義仲寺


義仲寺
(滋賀県大津市馬場1−5−12)





(平成17年4月9日)

義仲寺ぎちゅうじ

義仲寺は、大津市馬場1丁目にあり、旧東海道に沿っている。
このあたり、古くは粟津ヶ原あわづがはらといい、琵琶湖に面し、景勝の地であった。
朝日将軍木曽義仲きそよしなか公の御墓所である。
治承じしょう4年(1180)、義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永じゅえい2年(1183)5月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、7月京都に入られた。
翌寿永3年正月20日(4月改元して元暦げんりゃく元年)、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼のりより、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にされた。
享年31歳。
その後、年あって、見目麗みめうるわしい尼僧にそうが、この公の御墓所のほとりに草庵そうあんを結び、日々の供養ねんごろであった。
里人さとびとがいぶかって問うと、「われは名も無き女性にょしょう」と答えるのみである。
この尼あまこそ、義仲公の側室そくしつ巴御前ともえごぜんの後身こうしんであった。
尼の没後、この庵は「無名庵むみょうあん」ととなえられ、あるいは巴ともえ寺といい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれたことは、すでに鎌倉時代後期弘安こうあんごろの文書に見られる。
時代は移り、戦国のころには、当寺も大いに荒廃した。
時に近江おうみ国守佐々木侯は、石山寺参詣の途次とじ、この地を見て、「源家大将軍の御墳墓ふんぼ荒るるにまかすべからず」と、当寺を再建し寺領を進めた。
そのころ当寺は石山寺に、近世に至って三井寺みいでらに属した。
貞享じょうきょう年間(1684〜8)に大修理の記録があり、芭蕉翁がしきりに来訪し宿舎としたのは、このころからである。
元禄げんろく7年(1694)10月12日、芭蕉翁は大坂の旅窓で逝去されたが、「骸からは木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺骸を当寺に運び、現在地に墓を建てた。
明和めいわ6年(1769)に蝶夢ちょうむ法師の中興ちゅうこうがあり、その後も、安政3年(1856)の火災、明治29年(1896)の琵琶湖大洪水の後、明治45年と、たびたびの改修が行われたが、大東亜戦争を経て戦後において、寺内全建造物の荒廃その極に達し、潰滅に瀕ひんした。
ここにおいて、昭和40年(1965)、三井寺円満えんまん院より買い取り、宗教法人法による単立寺院とし、寺域を整頓し、朝日堂、無名庵の改築、翁堂の修復をなし、同年の時雨忌しぐれきに昭和再建落慶らっけいの法要を行った。
この再建に要した一切の費用は、東京在住の一個人の篤志とくし家の寄進によったもので、子細しさいは境内けいだいの昭和再建碑に記されている。
昭和51年(1976)、無名庵、粟津文庫を拡張新造し、資料観、手洗所を新築し、防火用水の設備等をことごとく施工した。
古くから当寺内御鎮座の木曽八幡はちまん社の新造遷宮せんぐうは、落慶式前夜に厳修ごんしゅうした。
落慶の法要は昭和51年時雨忌であった。
これらの土木建築及び落慶の一切の費用は、京都に本社を置く一教育出版社の寄進によったのである。
また、山門の新築は昭和60年(1985)である。
本寺は、昭和42年11月、境内全域が文部省より国の史跡に指定された。

(「義仲寺案内」チラシより)

案内

拝観料:大人200円
拝観時間:午前9時〜午後5時(ただし、11月〜2月は午後4時まで)
休日:毎週月曜日(月曜日が祝日、振替休日のときは開門)

(説明板より)


木曽義仲を支えた信濃の武将

信濃の名門、滋野氏本家の海野氏の海野幸広ゆきひろ、小太郎幸氏ゆきうじ父子。
小太郎幸氏は後に鎌倉幕府で源頼朝の御家人として仕え、子孫は代々、小太郎を名乗った。
この滋野分家の一つに後の真田氏がある。

(参考:『歴史街道200年8月号』)

(平成19年8月21日追記)




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