平成23年9月14日

源義経 みなもとのよしつね

平治元年(1159年)〜文治5年閏4月30日(1189年6月15日)

山口県下関市・みもすそ川公園でお会いしました。


鎌倉前期の武将。
父は源義朝、母は常盤御前ときわごぜん
源頼朝の異母弟。
幼名は牛若、九郎御曹司と称し、のちに義行、義顕と改名。
平治の乱後、鞍馬寺に流され、のちに奥州藤原秀衡ひでひらの扶持を受ける。
治承4年(1180年)、源頼朝が挙兵すると、その軍に加わり、代官として兄源範頼と共に東国武士を率いて上洛。
源義仲(木曽義仲)や平氏一門を追討した。
地域住人に対する徹底した軍事動員と、当時の合戦の作法を度外視した戦法によって連戦連勝した。
源頼朝の許可なく任官したため頼朝と不和となり、平氏滅亡後、鎌倉に下向したが鎌倉入りを拒絶される。
文治元年(1185年)10月、後白河上皇から頼朝追討の院宣を得て、九国地頭として西国住人に挙兵を呼びかけたが失敗。
再び奥州藤原氏を頼ったが、藤原秀衡の子である藤原泰衡に殺害された。







源義経像 
(山口県下関市・みもすそ川公園)




(平成23年9月14日)




左:源義経像
右:平知盛

(山口県下関市みもすそ川町・みもすそ川公園)




(平成23年9月14日)

日本史の節目を刻む関門海峡

西へ東へと一日に4回、その流れの向きをかえる関門海峡。
せまい所では、両岸の幅は700メートルあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります。
また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。
寿永じゅえい4年(1185)3月24日、平知盛とももりを大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。
当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。
最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位にいの尼あまは当時数え8歳の安徳天皇を抱いて入水じゅすい
知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。
日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。
なお、この戦いにおいて義経は平教経のりつねの攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘はっそう飛び」を見せたといわれています。

下関市

(説明板より)






「壇の浦古戦場址」碑

(山口県下関市・みもすそ川公園)




(平成23年9月14日)





壇之浦古戦場跡
(山口県下関市・関門海峡)




(平成23年9月14日)

弁慶石



弁慶石

(青森県八戸市・三八城神社)





(平成21年11月3日)

義経北行の旅案内板について

この地方には、源九郎判官義経が平泉を脱出し、北へ向かったという語り伝えがあり、八戸市内にも義経の北行にまつわる伝説を裏づける多くの地名や品々が残っている。
これらの紹介が歴史ロマン散策の資となることを願って市内伝説の足跡16ヶ所に案内板を設置した。

三八城山と弁慶石

義経が、高館の御所から見渡して、馬渕川の東の野原を京ヶ原と名付け、また京ヶ原の北の州先を京ヶ崎と命名したのが、今の三八城山である。
足下のこの大きな石は、弁慶石と呼ばれ、昔は境内南側のコブシの木のあたりに置かれていたという。
石のところどころが、人間の大きな足型のようにくぼんでいるのが、力自慢の弁慶が岩にしるした足型だといわれている。

社団法人 八戸観光協会

(説明板より)

三八城神社



三八城みやぎ神社

(青森県八戸市内丸1−1−69・八戸城跡)





(平成21年11月3日)



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