平成23年9月14日

平 知盛 たいらのとももり

仁平2年(1152年)~寿永4年3月24日(1185年4月25日)

山口県下関市・みもすそ川公園でお会いしました。


平安末期の武将。
平清盛の四男。
平治元年(1159年)、蔵人、従五位下。
翌年に武蔵守に任じられ、8年間の在任中に国内の武士の組織化を進めた。
この間に官位も昇進し、寿永元年(1182年)に従二位権中納言。
治承4年(1180年)以仁王もちびとおう挙兵以後の治承・寿永の内乱では、平家軍統率の中心的役割を果たした。
文治元年(1185年)壇ノ浦の戦で敗れ入水。






平知盛像
(山口県下関市・みもすそ川公園)




(平成23年9月14日)




左:源義経
右:平知盛像

(山口県下関市みもすそ川町・みもすそ川公園)




(平成23年9月14日)

日本史の節目を刻む関門海峡

西へ東へと一日に4回、その流れの向きをかえる関門海峡。
せまい所では、両岸の幅は700メートルあまりで、潮流の速度は、最高で約10ノット(時速18キロ)にもなります。
また、瀬戸内海の入口に位置する地理的条件から、昔も今も交通の要衝で、日本の歴史の節目を刻む舞台となっています。
寿永じゅえい4年(1185)3月24日、平知盛とももりを大将にした平家と、源義経ひきいる源氏がこの壇之浦を舞台に合戦をしました。
当初は平家が優勢でしたが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は追い詰められました。
最期を覚悟した知盛が、その旨を一門に伝えると、二位にいの尼あまは当時数え8歳の安徳天皇を抱いて入水じゅすい
知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。
日本の政治は貴族から幕府による武家政治へと移行していきました。
なお、この戦いにおいて義経は平教経のりつねの攻撃を船から船へと飛び移ってかわし、いわゆる「八艘はっそう飛び」を見せたといわれています。

下関市

(説明板より)






「壇の浦古戦場址」碑

(山口県下関市・みもすそ川公園)




(平成23年9月14日)





壇之浦古戦場跡
(山口県下関市・関門海峡)




(平成23年9月14日)





平家の一杯水
(山口県下関市・関門海峡)




(平成23年9月14日)




平家の一杯水
(山口県下関市・関門海峡)




(平成23年9月14日)

平家の一杯水

寿永4年(1185)3月24日、源義経を総大将とする源氏と平知盛が率いる平家は、最後の一戦を壇ノ浦でくりひろげました。
開戦当初は、東向きの流れに乗った平家が有利に戦っていました。
やがて潮の流れが西向きに変わり始めると、源氏方は反撃を始めました。
潮流に乗った源氏は、平家の船を操る水夫かこと舵取りを弓矢で狙いました。
こぎ手を失った平家の船は潮の流れに引き込まれ、完全に自由を失いました。
そうなると、勝敗はもうはっきりしています。
平家方のある者は捕らえられ、または海に沈み、または傷を受けてようやく岸にたどり着いた者もありました。
そのうちの一人の平家の武将は、全身にひどい傷を受け海に落ちましたが、命がけで泳ぎ岸にたどり着きました。
その武将は傷の痛みと疲れで喉がカラカラに渇ききっていました。
あたりを見渡すとわずかな水たまりを見つけたので、武将は痛む体を引きずって水たまりに近づき、その水を手のひらにすくい喉をうるおしました。
その水の美味しいこと、武将にとっては命の水とも思えるものでした。
あまりの美味しさに夢中になって二度目を口にしたところ、大きくむせて吐き出してしまいました。
不思議なことに真水は塩水に変わっていた、といわれています。

(説明板より)






平家一門之墓
(山口県下関市・赤間神宮)




(平成23年9月15日)




平家一門之墓
(山口県下関市・赤間神宮)




(平成23年9月15日)
平家一門之墓
前列
左少将 平有盛
左中将 平清経
右中将 平資盛
副将能登守 平教経
参議修理大夫 平経盛
大将中納言 平知盛
参議中納言 平教盛
後列
伊賀平内左衛門 家長
上総五郎兵衛 忠光
飛騨三郎左衛門 景経
越中次郎兵衛 盛継
丹後守侍従 平忠房
従二位尼 平時子

(説明石碑・碑文より)





赤間神宮
(山口県下関市阿弥陀寺町4-1)




(平成23年9月15日)

赤間神宮

御祭神 第81代 安徳天皇

寿永4(1185)年3月24日源平壇浦合戦に入水せられた御8歳なる御幼帝をまつる天皇社にして下関の古名なる赤間関に因みて赤間神宮と宣下せらる
昭和20年7月2日戦災に全焼せるも同40年4月24日御復興を完成し同50年10月7日 寛仁親王殿下の台臨を仰いで御創立百年祭を斎行 同60年5月2日 勅使御参向のもと高松宮同妃両殿下の台臨を仰ぎ御祭神八百年式年大祭の盛儀を厳修せり

(説明板より)







(山口県下関市・赤間神宮海参道)




(平成23年9月15日)

海峡守護『碇』の由来

水天皇大神安徳天皇をまつる赤間神宮は、関門海峡の鎮めの神と仰がれています。
今を去る八百年の昔、源平壇ノ浦の戦いに平家の大将知盛は全てを見収め、碇を背に海中深く御幼帝のお供をして、龍宮城へ旅立たれました。
それより『碇知盛』の名で能や歌舞伎に演じられ、勇将振りがたたえられています。
このいわれをもとに、海参道の入口を選び現代の碇を奉納し、御祭神のみたまを慰め、海峡の平安を祈るものであります。

昭和60年5月2日
源平八百年祭を記念して
寄進 下関海洋少年団

(説明板より)

謡曲「碇潜いかりかづき」と壇の浦

謡曲「碇潜」は、平家一門の修羅の合戦の模様とその悲壮な最後を描いた曲である。
壇の浦の古戦場を弔いに来た旅僧が乗り合わせた渡し舟の漁翁ぎょおうに軍いくさ物語を所望する。
漁翁(実は平知盛の幽霊)は能登守のとのかみ教経のりつねの奮戦と壮烈な最期を詳しく語り跡の弔いを願う。
旅僧の回向えこうに導かれるように勇将知盛の姿が現れ、安徳天皇を始め一門悉ことごとく入水するまでの経過と、自らの修羅の戦いの有様や碇を頭上に戴いて海中に飛び込んだ知盛の幻影を旅僧は見たのであった。
という構成を持つ「舟弁慶」の類曲である。
壇の浦は急流で知られる関門海峡の早鞆の瀬戸に面した一帯をいう。
平家滅亡の悲哀やその最後を美した総帥そうすいの面目と情趣に想いの馳せる海岸である。

謡曲史跡保存会

(説明板より)




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