八戸城 はちのへじょう

青森県八戸市内丸1−14−49(三八城公園)


 平成21年11月3日

八戸城

八戸城は、馬渕まぶち・新井田にいだ両川の形成した沖積平野に突き出た洪積台地の先端部を利用して築城されている。
建武元年(1334)陸奥国司北畠顕家の国代南部師行が糠部郡ぬかのぶのこおり八戸に根城ねじょうを築いたが、その後間もないころに、その孫信助が築いた中館なかだてがこれであろうという。
おの一族は根城・中館および新田館にいだだてに居住し、八戸地方を鎮めてきた。
戦国時代の末に、三戸の南部信直が豊臣秀吉から朱印を受け、南部内7郡を支配するようになった。
その子利直は、寛永4年(1627)に根城南部氏を遠野に移して、八戸を直支配とし、みずから縄張りをして当城および城下町の作事さくじ・普請ふしんをしたと伝える。
城下の西側には根城町の商家を移して三日町・十三日町・二十三日町を、また東側には新田町にいだまちの商家を移して八日町・十八日町・二十八日町をつくり、現在の市街のもとを作ったという。
しかし、当城および城下町の本格的な整備は、盛岡城に移った重直が、寛文4年(1664)世継ぎを定めないまま没したため、幕府が新たに弟重信に盛岡8万石を、同じく弟南部直房に八戸2万石をあたえたことにより、八戸藩が誕生した後のことである。
その領地は三戸郡・九戸郡・志和郡のうち83ヵ村であり、この図は弘化4年(1847)ころのものである。

昭和54年5月1日
八戸市教育委員会

(説明板より)

(説明板より)
八戸城址碑




八戸城址碑






(平成21年11月3日)

八戸城址碑の要旨

寛永6年(1629)、南部利直なんぶとしなおは、荒地を開いて城を築き、周りには二重堀を巡らし、郡奉行ぐんぶぎょうをおいてこの地を治めていた。
寛文4年(1664)、利直の後を継いだ重直しげなおは、子がないまま没した。
この年将軍家綱は、重直の遺領10万石のうち8万石を次弟の七戸隼人重信しげのぶに継がせ、末弟の中里数馬直房なおふさには2万石を与え新たに分家させた。
寛文6年、直房は八戸城に入り、それから250年余りにわたり歴代の藩主・賢臣達が文武に励み、農業・養蚕・織布しょくふ・畜産の振興に努め、領内は豊かになっていった。
2代藩主直政なおまさは、聡明で早くから学才の誉れが高く、将軍綱吉は側仕えにとりたてた。
これに先立って朝鮮国王から将軍に屏風が送られ、これを開ける方法が屏風の外に書かれた詩に隠されていたため、著名な学者にその謎解きを命じたが果たせなかった。
それを直政がたちどころに読み解き、屏風を開けることができた。
綱吉はこれに感嘆し、福島5万石を与えようとしたが直政はこれを固辞し、この慎み深い実直な性格を愛で皇国三鏡の一つといわれる米曇羅鏡を与えた。
直政は後に御側用人となり大いに活躍した。
8代藩主信真のぶまさは、闊達で人の能力を見抜く能力があり、野村軍記を登用し海陸産物の生産を盛んにし江戸に産物を輸送させ領民は利益を得、藩の財政も潤った。
9代藩主信順のぶゆきは、篤実で思慮深く勤勉・倹約を奨励した。
また、一族出身の木幡文内こはたぶんないをとりたて領内を豊かにした。
明治の戊辰戦争の折、奥羽連合の議が起こり諸藩の圧力が強く、八戸藩は非常に苦しい立場にあったが、信順は藩士や領民を懇々と諭し軽挙妄動を戒めた。
明治2年(1869)、版籍奉還して八戸城は政府の管理となったが、後に子爵南部利克としなり所有となった。
明治11年(1878)、八戸城に三八城神社が創建され、新羅三郎義光しんらさぶろうよしみつ・南部三郎光行なんぶさぶろうみつゆき・南部左衛門佐直房なんぶさえもんのすけなおふさを祀り県社に名を連ねた。
明治14年、明治天皇が北巡の際長者山で旧藩士による騎馬打毬をご覧になった。
今ここに公園の開設と三八城神社の改築が行われた記念に、町民が相談し石碑を建立し、以上のことを後世まで伝えようということになり、私が由来の碑文を作成した次第である。

昭和3年(1928)3月上旬

北海道帝国大学総長正三位勲一等農学博士 佐藤 昌介 作文
                    正七位勲六等 久保 節 書
                          石工 杉本 安太郎 刻

(説明板より)

三八城みやぎ公園(八戸城跡)
児童安全塔




児童安全塔






(平成21年11月3日)

碑文

大正13年5月16日未明、八戸町に大火あり、大半が焼土と化し、町民は困窮した。
その影響の児童に及ぶを憂え、且つ夢と希望を与えようと、有志が集りお話会を開いた。
それから毎年、長者山を会場とし夏休を利用し「森のおとぎ会」として今日まで続けてきたのである。
八戸童話会は、その後童話教育に理解ある会員を糾合し、子供大会、母と子の仲よし運動会、出張童話会、子供会の育成など諸行事を開催して来た。
これ偏に児童の健全な育成を願う会員の素志に外ならない。
しかるに昨今、交通事故をはじめとし、水難、火事等による、児童の被災と不安は後を絶たない。
よって「森のおとぎ会」50周年を迎えるにあたり、この災いより救い、永遠に児童の幸とよき成長を願って、児童安全塔を建立する。

昭和49年8月1日
八戸童話会

岩岡徳兵衛像




岩岡徳兵衛






(平成23年11月3日)
南部直房像




南部直房





(平成21年11月3日)
第38回 はちのへ 菊まつり

奥州菊って?

奥州(八戸)菊は口碑の伝える処によると、宝暦年間、今から約260年前、八戸の豪商・七崎屋 半兵衛が京阪地方から、観賞菊として、『軍勢(赤)』『黄宝珠(黄)』等約20種の苗を当地・鮫ヶ浦港へ移入したのが始まりといわれています。
この花型は球のごとくして、花径2寸位(約6cm)、ちょうど現在の中輪咲きの様なものとそうていされます。
これらの菊が、八戸を中心に、東北・北海道に栽培され、花型は中央部を掴むように、抱えるように、盛り上がり気味に花を囲む姿は、さかまく荒波のごとく、また、太い管走りが四方に向かって激しく噴流するような、実に勢いさかんで、この花の形容はまさに日本菊中の一異彩であります。
奥州菊は、八戸が発祥の地であり、この地方がそだててゆかなければならない文化財の一つだと思います。
実生栽培等により、名花を作出くださいました古来幾多先人の努力に敬意と感謝を申し上げます。

(看板より)

明治天皇行在所跡



明治天皇行在所跡
(市庁舎前ロータリー)





(平成21年11月3日)

市庁舎界隈(かいわい)と八戸の近代教育

下の図は、明治27年(1894)に作られた「八戸実地明細絵図」の一部で、この地の当時の様子がうかがわれる。
手前側の建物群が現在の八戸小学校の前身である「八戸尋常高等小学校」で、明治6年に「第7大学区第17中学区1番小学」として創設された。
(その後、「八戸尋常小学校」「八戸国民学校」と名称が変わり「八戸小学校」となるのは昭和22年からである。)
図の一番手前側にある洋風二階建の建物が講堂で、明治14年に完成し、その年の明治天皇東北御巡幸の際の行在所あんざいしょともなった。
現在は櫛引八幡宮に、移築され、「明治記念館」(市指定文化財)となっている。
建っていた場所は現在の市庁前ロータリーのところで、講堂前に見える木(コウヤマキ)は、現在もそこにそびえ立っている。
現在の市庁舎旧館一帯が小学校の校地だったが、小学校校庭左側の道路に近い二階建の建物が「書籍縦覧所」(八戸城物見櫓を明治7年に移築した建物)で、現在の市立図書館の前身である。
この建物の脇に立っている木がサイカチの木で永い間人々に親しまれていたものである。
小学校の後の方に見えるのが「青森県尋常中学校八戸分校」で、明治26年に創設された。
その後「青森県第二尋常中学校」「青森県立第二中学校」と改称され、この説明板の場所に建てられていたが、手狭になったため、明治41年に大杉平に移り、「県立八戸中学校」となった。
現在の「県立八戸高等学校」の前身である。
中学校が移転した跡地には、昭和4年に八戸尋常小学校が隣接地から移転した。
このほか、八戸市立商業学校(現、県立八戸商業高等学校、昭和4年)八戸市立工業学校(現、県立八戸工業高等学校、昭和19年)八戸市立第二中学校、八戸市立第一高等学校(昭和23年)も子の地で創設されている。
しかし昭和50年八戸小学校の学区内児童数増加により、城下小学校を分離することにしたほか、小学校施設と市庁舎周辺地域再整備の両全を図り、八戸小学校を現在地に移転したのを最後に、この地から学校が姿を消し、市庁街としての姿を整えた。
以上のように、この界隈は八戸の学校教育発祥の地であり、特に八戸小学校がその創設から最後の移転まで103年間、近代教育の中心的存在をなしていた場所であった。

昭和57年7月 八戸市

(説明板より)

 (説明板より)


八戸城角御殿表門



八戸城角御殿表門
(青森県八戸市内丸3−3−6・南部会館)





(平成21年11月3日)

県重宝
八戸城角御殿表門

ここは、寛政年間には角御殿すみごてんと呼ばれていた。
寛政4年(1792)御者頭おものがしら煙山けむやま治部右衛門がここに居住し、八戸城にふさわしい門と玄関を建てるよう命ぜられた。
門はその5年後に建てられ、その時の棟札が残されているが、資金繰りの苦心談が八戸藩日記にうかがわれる。
昭和53年、風雪のため倒壊したとき、毘沙門天びしゃもんてん像が門の冠木かぶきの中央から発見された。
像高3.6センチの小さなものであるが、精巧な像で、棟札にも「奉修毘沙門天秘法」とあることから創建時のものであることが知られる。
この寛政9年の棟札の他に、嘉永4年(1851)、明治42年(1909)修理の棟札もある。
昭和55年、創建当初の形に復原した。
門の構造は棟門むなもんといわれ、通常は2本の柱の上部を冠木でつなぎ、切妻屋根をのせるものであるが、この門の場合は、4本の柱を一列に並べて冠木でつなぐ大規模なもので、平衡を保つため裏側に2本の支柱を取付けるという特異な構造となっている。

昭和57年3月
八戸市教育委員会

(説明板より)


旧八戸城東門



旧八戸城東門
(青森県八戸市大字根城字根城・「根城の広場」)





(平成21年11月3日)

旧八戸城東門
八戸市有形文化財 平成5年6月3日指定

この門は、八戸城の東門で安政6年(1857)の大風のため倒れ、家臣の木幡こはた氏の門として建て替えられました。
伝承によればもともと根城にあった門を八戸城に移したといわれています。

(説明板より)




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