徳川家綱 とくがわ・いえつな

寛永18年8月3日(1641年9月7日)〜延宝8年5月8日(1680年6月4日)


江戸幕府第4代将軍。
在職:慶安4年8月18日(1651年10月2日)〜延宝8年5月8日(1680年6月4日)
3代将軍家光の長男。
母は側室の宝樹院(お楽の方)。
幼名は竹千代。
11歳で将軍職を継ぐが、就任当初、由比正雪らの慶安事件が生じた。
前代の遺老酒井忠勝・松平信綱・阿部忠秋や叔父の保科正之が補佐。
殉死の禁止、末期まつご養子の禁緩和、証人(人質)制廃止など牢人対策、寛文印知、度量衡の統一、全国的商品流通政策などの諸制度の整備、キリシタン統制のため宗門改の全国制度化など、大老・老中の合議制の下で幕藩制の安定化が進められた。
保科正之らが引退してからは、大老酒井忠清に権力が集中した。


徳川家綱霊廟勅額門



徳川家綱霊廟勅額門
(東京都台東区上野桜木1−16)





(平成19年12月28日)

徳川家綱霊廟勅額門れいびょうちょくがくもん (重要文化財)

台東区上野桜木1丁目16番

4代将軍家綱は、慶安4年(1651)4月に父・家光の死に伴って、わずか10才で将軍の座につき、延宝8年(1680)5月8日に39才で没した。
法名を厳有院げんゆういんという。
病気がちであった家綱時代の政務は、主として重臣の手に任されていたが、とくに後半の政治を担当した大老・酒井忠清が有名である。
時代は家綱の襲職しゅうしょく直後に起った由比正雪の乱の解決を機に、ようやく安定期に入った。
家綱の霊廟の一部は維新後に解体されたり、第二次世界大戦で焼失したが、この勅額門と水盤舎すいばんしゃ(ともに重要文化財)は、その廟所と共に、これらの災を免れた貴重な遺構である。
勅額門の形式は四脚門しきゃくもん、切妻造きりづまづくり、前後軒唐破風付ぜんごのきからはふつき、銅瓦葺どうかわらぶき
なお、このうち水盤社は延宝8年に家綱のために造立されたものであるが、この勅額門は昭和32年の改修時に発見された墨書名によって、もと家光の上野霊廟の勅額門であったものを転用したものと考えられる。

平成6年3月
台東区教育委員会

(説明板より)


銅鐘



銅鐘
(東京都台東区・寛永寺)





(平成19年12月28日)

銅鐘どうしょう (台東区有形文化財)

台東区上野桜木1丁目14番11号 寛永寺

本鐘の大きさは、総高177.2センチ、口径91.8センチ。
厳有院殿(4代将軍家綱)の一周忌にあたる、延宝9年(1681)5月8日厳有院殿廟前の鐘楼に奉献された。
明治維新以降に、寛永寺根本中堂の鐘として、当所に移されたと伝えられる。
現在は、除夜の鐘や重要な法要の際に使用されている。
作者の椎名伊予守吉寛は、江戸時代前期(17世紀後半)に活躍した江戸の鋳物師で、神田鍋町に住した。
延宝元年(1673)から貞享3年(1686)にかけて、銅鐘を中心に17例の作例が知られている。
その中には増上寺や寛永寺などに関わるものも含まれており、幕府との関係の深さが窺える。
本鐘は、将軍家霊廟の儀式鐘で、近世初期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上でも貴重な遺品のひとつである。
平成18年に台東区有形文化財として台東区区民文化財台帳に登載された。

平成19年3月
台東区教育委員会

(説明板より)




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