明治天皇像 平成19年4月3日

明治天皇 めいじてんのう

嘉永5年9月22日(1852年11月3日)〜明治45年(1912年)7月30日

岐阜県岐阜市・岐阜公園でお会いしました。


名は睦仁むつひと
孝明天皇の第二皇子。
母は権大納言中山忠能ただやすの娘・慶子よしこ
京都の中山邸で生まれ、祐宮さちのみやと命名。
万延元年(1860年)皇太子となり睦仁と改名。
幕末の倒幕運動の高まりの中で孝明天皇が急死し、慶応3年(1867年)1月、践祚せんそして皇位を継承。
第122代天皇となる。
徳川慶喜の大政奉還後、同年12月、王政復古により新政府を樹立。
1868年9月、『明治』と改元。
翌月には、京都から東京に移り江戸城(のち宮城)に入る。
近代国家の建設の進む中、ヨーロッパ的君主としての教育を受ける。
明治22年(1889年)欽定憲法として発布された大日本帝国憲法により、天皇は国の元首で統治権の総攬そうらん者と定められ、文官・武官の任免、陸海軍の統帥と編制、条約の締結、宣戦・講和などの大きな権限を保持し、国務大臣の輔弼ほひつと帝国議会の協賛によりこれを行使した。
日清戦争では広島の大本営に起居し国務・統帥にあたった。
明治45年(1912年)7月29日崩御。(宮内省の公式発表は7月30日崩御)
9月13日に大葬。


明治大帝聖像



明治大帝聖像
(岐阜市・岐阜公園)





(平成19年4月3日)

碑文

 照古鑑今 源深流長
今日 我が日本の輝かしい繁栄の もといを築かれた明治天皇の御遺徳を永く顕彰し 國民等しく これを景慕するため 明治百年・昭和四拾参年・を追憶して御料林・國有林・金華山のふもとに 御遺旨によって斂葬し奉った伏見桃山陵に對峙して 崩御の御命日に聖像を建立す

皇紀弐千六百参拾弐年
西暦1972年
昭和四拾七年七月参拾日
明治大帝聖像建立奉賛会

(銘板より)

明治大帝

明治天皇は御名を睦仁むつひと、御幼稱は祐宮と申し、孝明天皇の第二皇子として、嘉永5年9月22日(陽暦11月3日)京都御所朔平門外の権大納言中山忠能邸内御産所に於て誕生せられた。
御生母は忠能の女、従一位勲一等中山慶子である。
萬延元年7月10日准后夙子(後の英照皇太后)の御子として儲君に治定せられ、次いで9月28日親王宣下を受けられ、慶應2年12月御父天皇が崩御されるや、翌3年正月9日践祚せられた。
時に御年16である。
翌4年8月27日即位の禮を擧げられ、同年9月8日明治と改元あり、御在位46年に亘られたが、明治45年7月30日御年61を以て崩御せられた。
翌8月25日御追號を定めて明治天皇と稱し奉り、9月15日御遺旨によって、京都府紀伊郡堀内村大字堀内字古城山(京都市伏見區桃山町古城山)に斂葬し奉った。
御陵名は伏見桃山陵と申上げる。
「御資性英武厳明にあらせられ、而して善く侍補耳に逆ふの諫を嘉納し給ふ、是れ眞に寛仁大度の君徳に適はせ給ひて大舜太宗に揆を同うし給うなり」とは侍講元田永孚が納諫の御盛徳を稱揚し奉った語である。

御製 述懐
 いにしへのふみ見るたびに思ふかな
         おのがをさむる國はいかにと

(副碑・碑文)


【明治天皇と赤穂義士】

明治天皇は遷都の東京に着いた約3週間後には勅使を大石良雄等の墓前に遣わした。
「汝良雄等、固く主従の義を執り、仇を復して法に死す。百世の下、人をして感奮興起せしむ。朕深く嘉賞すなり」。
赤穂浪人らは法を冒して「眼前の君父」の復仇をした。
その「忠節」を称賛する天皇を北一輝は「維新革命後、民主的に進化せる天皇」といった。

(参考:松本清張 著 『北一輝論』 講談社 昭和51年2月第1刷発行)

(平成29年10月18日 追記)


【軍隊の統率者】

明治天皇に軍隊の統率者としての心構えをご指導申し上げたのは西郷隆盛だった。
それまで女官によって占められていた宮中の制度を改め、天皇の近侍に旧幕府や各藩の下級士族を登用したのは、西郷の力であった。
この結果、山岡鉄太郎、高島靹之助、村田新八、米田虎雄、島義勇など、旧幕府から旧藩の下級士族が数名侍輔として側近に召し出された。
これらは何れも維新の血生臭い剣槍の間を馳せ回った連中で、剛毅朴訥、錚々そうそうたる面魂つらだましいをもった豪傑であったから、青年時代の明治天皇に与えた影響は大きかった。

明治天皇が自ら近衛兵を指揮して習志野へ行軍されたのは明治6年4月のことで、肥満体のため馬に乗れない西郷隆盛が、28キロの道を歩いて供奉したのは有名な話である。
4月30日には夜半から暴風雨になり、天皇野営の天幕の下で、西郷は徹宵御警固申し上げている。
この野営訓練を記念して、天皇はこの原野を「習志野」と命名された。
今の習志野市の地である。

これから近衛聯隊の機動演習が関東地方の各地で行われるようになったが、明治天皇はつねに士卒と行動を共にされ、2、3の侍従と馬で田野を駆け巡られ、時には雨でずぶ濡れになられたこともしばしばであった。

(参考:須山幸雄 著 『二・二六事件 青春群像』 芙蓉書房 昭和56年第1刷発行)

(平成29年2月3日 追記)


【明治天皇】

明治天皇は実に立派な方でした。
眉毛が濃くて、少しつり上がっていて、また眉と眉の間が広く、しかも毛がねている。
若い時から御苦労をされ、山岡鉄舟先生とか元田永孚先生について漢学、東洋思想を学ばれ、それに欧米風の思想を取り入れられた偉い天皇であられました。

(参考:山梨勝之進 著 『歴史と名将〜戦史に見るリーダーシップの条件〜』 毎日新聞社 昭和57年2月第9刷発行)

(平成29年5月5日 追記)


明治天皇像 平成20年4月26日

福島県いわき市・平城跡でお会いしました。

明治大帝聖像

明治大帝聖像
(福島県いわき市・平城跡)

昭和45年2月11日建國の日
聖像奉建いわき会
会長 若松晴司
代表世話人 猪狩四郎


(平成20年4月26日)

此花乃井



此花乃井
(大阪市・花乃井中学校)





(平成20年6月18日)

此花乃井

江戸時代、もと石見津和野藩蔵屋敷のあったところで屋敷内のこの井戸から湧き出る飲料水は大阪では珍しく良質のものであった。
慶応4年(1868)明治天皇が大阪に行幸されたとき、この井戸水を用水に供し「此花乃井」の名を与えられ、大阪の名水として評判が高かった。

(説明板より)

碑文

大正13年江戸堀小学校改築せらるゝや此の花の井は石にて盍ひ井桁と碑とを校内幼稚園庭に移して久しく年を経たり
時恰も紀元二千六百年に當り江戸堀町會連合會及び各公園體はこの名水の埋もれんことを畏れ先人の志を継ぎて元の位置に園を営み之を復し以て 聖徳を永久に仰がんとす

昭和15年11月3日

花乃井中学校



大阪市立花乃井中学校
(大阪市西区江戸堀2−8−29)





(平成20年6月18日)





明治天皇臨幸碑
(熊本県熊本市・水前寺成趣園)





(平成23年2月7日)

成趣園ハ往昔藩主ノ苦心経営セシ所翠緑常ニ地ニ滴リ池水永ニ清冽タリ加フルニ泉石布置ノ妙ヲ得洵ニ天下ノ名園タルニ恥チサル也
明治天皇曾テ西國巡幸ノ途次ヲ以テ炎暑ノ玉塵ヲ此ノ水境ニ拂ハセ給ヒシコト故ナキニ非ス竊ニ聞ク之ノ日
天皇酔月亭ニ坐シテ涼ヲ掬シ漁夫ノ網中羣魚ノ溌剌タルニ興シツツ上ル所の供御ヲ嘉シ給ヘリト是實ニ明治五年六月十九日ノ事に属ス惜ムラクハ其ノ亭モ亦丁丑の兵燹ニ罹リテ悉ク烏有ニ歸セリ而シテ碑側ノ古今傳授ノ閭n畧其ノ故阯タルニ■幾カラム歟

昭和七年二月十一日   明治天皇聖蹟光揚會

(碑文より)






古今伝授の間
(熊本県熊本市中央区水前寺公園)





(平成23年2月7日)

古今伝授之間の由来

この茅葺の古風な建物を古今伝授之間と申します
今から凡そ4百年前 京都御所の中に建っていました
後陽成天皇の皇弟桂宮智仁親王の書院を兼ねた茶室でございます
この部屋で 細川家初代の細川幽齋公が桂宮智仁親王に「古今和歌集」の解説の奥義を伝授された由緒深い建物でございます
後に桂宮家に於て此の建物を永く保存せんが為に その御領地山城国乙訓郡開田村(現京都府長岡京市)に在る長岡天満宮の境内に移し 長岡茶屋と申されました
その後 明治初年に之を縁故ある細川家に賜り大正元年に水前寺公園正面の現在地に昔の型通り 移築されました
屋内の杉戸には狩野永徳の「雲竜」の墨絵(現在消滅)正面の襖に永徳の門人海北友松の「竹林七賢人」(現存)の絵があります
この建物が建っている場所は細川藩時代 藩主の「酔月亭」が在った場所です。

古今伝授之間保存会

(説明板より)

出水神社神苑 水前寺成趣園

【桃山様式の優美な回遊式庭園】

東海道五十三次を模したといわれる趣ある風情。
阿蘇の伏流、清冽な湧水。
「水前寺成趣園」は、桃山様式を代表する優美な回遊式庭園です。
1636(寛永13)年、細川家三代忠利公は、この地に「国府の御茶屋」を設け、近侍の豊前羅漢寺前住、玄宅のために一寺を建立。
先の御茶屋も寺の所属としたため、一帯は「水前寺の御茶屋」と呼ばれるようになりました。
その後、三代、約80年をかけて完成し、陶淵明の詩に由来する「成趣園」と命名されました。

(リーフレット『出水神社神苑 水前寺成趣園』より)






明治天皇行在所の一部
 (徳富蘇峰蘆花兄弟の旧邸)
(熊本市大江4−10−33・徳富記念園)




(平成23年2月9日)

明治天皇行在所あんざいしょの一部

この部屋は明治5年に移築されたものです。
この年の6月、明治天皇が熊本に行幸になりました。
その時、新町の会輔堂(今の一新幼稚園)が行在所になり、そこに厠かわや(お手洗い)が新築されました。
その厠は御使用になりませんでしたので、御還幸の後、当時、県の七等出仕(上級役員)であった徳富一敬が払下げを受けてわが家につぎ足したものです。

(説明板より)






明治天皇西国行幸(西郷隆盛供奉)
行在所手洗鉢

(山口県下関市・「本陣 伊藤邸跡」)




(平成23年9月15日)





本陣 伊藤邸跡
(山口県下関市阿弥陀寺町5)




(平成23年9月15日)

本陣 伊藤邸跡

伊藤家は鎌倉時代から続く下関屈指の名家。
室町・江戸時代には港町下関の指導者的な地位にあり、この地に広大な邸宅を構えていた。
室町時代は、下関の交通・流通などを掌握して朝鮮交易なども行い、江戸時代には大年寄りとして町政を司る。
また、本陣を兼帯して九州諸大名の参勤時の休泊所となり、各藩の用達も行った。
特に対馬宗氏つしまそうしとは前代から親密な関係にあった。
伊藤家はオランダ宿として名高い。
江戸に参府するオランダ商館長は、伊藤家と佐甲家の二つの本陣を下関の定宿とした。
歴代当主は進取の気性に富み、開明的であったが、なかでも文化・文政期の当主杢之允盛永もくのじょうもりながは、熱烈なオランダ趣味の人で、ヘンドリック・ファン・デン・ベルグというオランダ名を名乗り、ヅーフ、ブロンホフなどの商館長と親しく交際した。
佐甲家に宿泊した商館医のシーボルトも杢之允から歓待されている。
また、幕末の当主杢之助もくのすけ(静斎せいさい)は吉田松陰と交際し、助太夫すけだゆう(九三きゅうぞう)は真木菊四郎や坂本龍馬を支援した。
とりわけ、慶応2・3年頃の龍馬は伊藤家を活動の拠点としていた。
近代初頭の明治5年6月、伊藤家は明治天皇の西国巡幸時の行在所となり、本陣としての最後の役割を終えた。

下関市

(説明板より)

 説明板より

(本陣 伊藤邸間取り図)


 平成21年11月4日

岩手県盛岡市・盛岡八幡宮でお会いしました。

明治大帝聖像


明治大帝聖像
(岩手県盛岡市・盛岡八幡宮)

明治天皇産馬天覧聖址




(平成21年11月4日)

御聖像奉建之詞

謹んで顧うに 明治御維新の大業は洵に今日日本国進展の基礎である
明治天皇御齢16歳にして御即位あそばされ御在位46年常に御躬を以て衆に先んじ聖明親しく國運拓開の萬機を総攬せらる
御聖徳は赫々として日月の如く御聖訓は昭々として萬世を照させ給う
恰も明治9年7月7日東北御巡幸の砌り畏くも
天皇親しく岩手県産馬御台覧の地盛岡八幡宮の境内に御聖像を奉建して永く御聖徳を景仰し奉らんことを希い奉ります

謹白再拝

昭和50年9月10日
明治大帝聖像奉賛協会 会長 榊原 孝

(碑文より)

盛岡八幡宮



盛岡八幡宮
(岩手県盛岡市八幡町13−1)





(平成21年11月4日)

御由緒

康平5年(1062)前九年の役に際し、陸奥鎮守府将軍源頼義・義家父子が、奥州安倍一族(貞任・宗任)平定のため、山城国男山八幡大神を不来方の丘陵の地(現盛岡城跡公園)に御勧進、必勝武運を祈願したのが創祀と伝えられ、後世鳩森八幡社と奉称した。
その後、源頼朝公の義経追討に関わる奥州平定に際し、南部の荘(山梨県)より参陣した初代南部光行公は大いに軍功をたて、糠部五郡を拝領し三戸に居城、八幡大明神を祀った。(現八戸市鎮座の櫛引八幡宮)
南部氏は清和源氏の末裔で、先祖代々八幡大神を氏神と仰ぎ崇敬の念篤く、南部26代信直公が起こした不来方城築城に際し、既に鎮座していた鳩森八幡社をそのまま城内に祀り、領内鎮護の神と斎祀ったのである。
しかし、そのために一般庶民の参詣はできなかった。
寛文11年(1671)2月、第29代重信公は、志家の地(現在地)に、新八幡宮造営の工を起し、延宝8年(1680)完成、翌9年8月14日より3日間盛大なる新八幡宮鎮祭の重儀が行なわれた。
爾来、新八幡宮は上は藩主、下は一般庶民の限りない崇敬を集めて、地方の大社の威厳を風靡してきたのである。
明治維新になり、盛岡城はその主を失い陸軍省の所管となり、御本社の鳩森八幡社は遂に祭祀執行の途が無くなり、明治5年(1872)10月、御霊代を新八幡宮に鎮座されるに至った。
明治9年(1876)7月、明治天皇の東北御巡幸に際し、産馬御奨励の思召しにより神域の流鏑馬馬場において南部駒天覧の栄に輝き、社務所奥座敷で御小憩になり、新緑につつまれた神域を御観賞された。
現在は、平成の大御代を記念して、平成9年(1997)12月丹塗り極彩色彫刻が施された新大社殿が竣工されて境内が一新し、新たな盛岡の顔として四季の景観に映える堂々たる風格を漂わせ、県下第一の大社として崇敬を集めている。

(リーフレットより)


聖風閣



聖風閣
(岩手県盛岡市愛宕町14−1・中央公民館)





(平成21年11月5日)

聖風閣

この建物は、もと「賜松園」(南大通)の一部であった。
同園の名は、明治天皇が明治9年(1876)東北ご巡年の際菊池金吾邸に駐輦され、松の樹を賜った事に因んで名づけられたものであるが、昭和59年に賜松園のうち御成りの間を当中央公民館に移設保存することにしたものである。
当庭園内には大正天皇、昭和天皇各宮殿下お手植の南部赤松があり松籟清韻天皇家三代の聖風を今に伝えていることからこの建物を「聖風閣せいふうかく」と名づけた。
この聖風閣は、一般の茶会、句会等各種利用に供しております。

(説明板より)


聖跡記念塔





聖跡記念塔
(岩手県盛岡市中央通1丁目・日影門緑地)







(平成21年11月5日)
日影門緑地


日影門緑地
(岩手県盛岡市中央通1丁目)


「明義堂」跡、のちの藩校「作人館」跡
仁王小学校跡


(平成21年11月5日)

城下町盛岡町名由来
日影門外小路ひかげもんそとこうじ

内丸うちまるの西隣りの地域が、日影門外小路で、内丸に次ぐ高知たかち衆の屋敷があった。
東は現在の北日本銀行本店の辺り、西は土橋まで、南は赤川を境に、北は現在の天主教会の南境辺りで四ツ家と接していた。
日影門外小路という名称は、広小路との境に日影門という門があって、その外側になるから起ったものであろう。
現在の北日本銀行本店の東境とヒノヤタクシーの辺りに日影門があったようだ。
今では道路は拡幅されて判然としないが、僅かに「くの字」型に曲っていた形跡がある。
現在、「聖跡記念塔」があるところは、明治9年(1876)仁王小学校があり、明治天皇が東北御巡幸の際お成りになった場所である。
ここは、大正2年(1913)仁王小学校移転後、市立盛岡商業学校の校舎に使われた。
この場所は、藩校作人館さくじんかんがあったところで、岩手県の教育史上重要な役割を果した地である。

昭和53年11月 盛岡市

(説明板より)


明治天皇行在所跡碑



「明治天皇行在所跡」の碑

(岩手県奥州市水沢区字大町82)





(平成21年11月8日)

明治天皇行在所

明治天皇は、二度東北巡幸をされている。
水沢へは明治9年(1876)7月4日、同14年(1881)8月17日、いずれも行在所あんざいしょは大町の豪商戸坂万六宅(現在地)であった。
行在所は行宮あんぐうともいわれ、天皇の旅行のときの仮の御所のことである。

(説明板より)

明治天皇行在所跡



明治天皇行在所跡
(岩手県奥州市水沢区字大町82)





(平成21年11月8日)

明治天皇上陸記念碑



明治天皇上陸記念碑
(北海道函館市大町9)




(平成22年5月25日)
明治天皇上陸記念碑



明治天皇上陸記念碑
(北海道函館市大町9)




(平成22年5月25日)

明治天皇上陸記念碑

赤御影石の地球儀の上に、青銅の鳳凰が羽を広げた碑は、明治天皇が明治9(1876)年、東北・北海道巡幸で来函の際、旧税関桟橋への上陸を記念したものである。
同14年に再び来道の際、小樽から陸路函館へ巡幸し、ここから乗船して青森へ向った。
明治9年の下船・乗船と同14年の乗船で、計3回となることから、三蹤碑さんしょうひとも呼ばれている。
この碑は、函館出身の彫刻家梁川剛一の作で、昭和10(1935)年9月7日に除幕された。
同16年に7月20日を「海の記念日」と定めたのは、明治天皇の明治9年の巡幸の際、7月18日に離函し、20日に横浜に帰着したことを記念したものである。
平成8(1996)年から国民の祝日「海の日」となった。

函館市

(説明板より)


明治天皇行幸記念碑


明治天皇行幸記念碑
(北海道函館市元町・元町公園)

北海道廳長官 戸塚大一郎 謹書



(平成22年5月25日)

明治九年七月十六日開拓使函館支廳ニ行幸アラセラル

昭和十五年七月十六日 建之
渡島支廳長 森本正雄 謹書

(碑文より)


明治天皇奈良行在所



明治天皇奈良行在所
東大寺東南院舊境内

(奈良市・東大寺)





(平成19年4月12日)

史蹟
東南院旧境内


東大寺東南院は貞観17年(875)10月、理源大師聖宝僧正が薬師堂を創建し、その後延喜4年(904)佐伯院(香積寺)を移し寺観が整備せられた。
寺地が大仏殿の東南に位置するところから東南院と称せられ、三輪宗と真言宗の二宗兼学の院家と成り延久3年(1071)三輪宗の本所となり、尊勝院と共に東大寺筆頭の院家となった。
白河上皇の御幸以来、天皇・上皇の御所となり、南部御所ともいわれた。
鎌倉時代、後白河法皇や後醍醐天皇の行在所、或は大仏殿落慶供養会に臨席した源頼朝も当院に滞在した。
近くは明治10年2月明治天皇行在所となり名香蘭奢待らんじゃたいを截香せられた。
尚明治8年2月寺内改革により東南院は東大寺本坊と改称し、一山を統轄することに成った。
昭和6年7月東大寺旧境内は史蹟に指定されたが、当院旧地の重要性に鑑み、同9年3月更に東南院旧境内を史蹟に指定し、保存が計られるに至った。

東大寺

(説明板より)


明治天皇行在所跡



明治天皇行在所跡

(長野県上田市・上田商工会議所)

元帥公爵 山縣有朋



(平成20年10月29日)

碑文

明治十一年夏秋之間 皇上巡幸北陸東海領兩道親察民情九月七日駐輦於上田町會上田街額學校竣新營之功乃以充行在所焉町民遭此千古未曽有之盛事懽■不己■後毎歳以是日擧記念式大正五年十月上田町別築 ■學校舎以舊校舎為町役場至八年五月為市役所今茲市民相謀■建碑以表行在所遺跡請文烏于余余喜市民■■聖思之深也敢録其■築云

大正九年五月二十七日
長野縣知事 正四位勲二等赤星典太撰並書


明治天皇御手植えの松




明治天皇御手植え之松

(長野県長野市・健御名方富命彦神別神社)




(平成20年10月28日)
明治天皇駐畢蹕之処碑




「明治天皇駐畢蹕之処」碑

(長野県長野市・健御名方富命彦神別神社)




(平成20年10月28日)

明治天皇駐畢蹕ちゅうひつ之処碑

明治天皇明治11年北陸東海両道に巡幸シ9月8日駕ヲ長野ニ駐メ給ヒ9日午後此ノ丘上設クル所ノ亭館ニ於テ川中島四郡ノ風光ヲ望ミ「佳郷」ト宣ハセラル後遂ニ館ニ名ヅク
爾来五十五星霜今茲ここに市民相謀リ碑ヲ佳郷館跡ヲ距へだてル北方77尺ノ地ニ建テ以テ聖躅せいちょくヲ千載ニ伝ヘ偉徳ヲ万古ニ仰カムトス
碑ハ工学博士伊藤忠太ノ設計ニ成リ題字ハ故陸軍大将乃木希典ノ集字ナリ

昭和8年9月
長野市長 丸山辨三郎 謹書
佳郷館は明治24年の城山火災のために類焼した。

(説明板より)

健御名方富命彦神別神社



健御名方富命彦神別神社たけみなかたとみのみことひこわけのじんじゃ
(長野県長野市箱清水)





(平成20年10月28日)

明治天皇行幸の処碑



「明治天皇行幸之処」碑
(長野県長野市・信濃教育会館)





(平成20年10月28日)

此ノ処ハ明治十一年九月九日 聖駕行幸ノ地ニシテ長野縣製絲場址ナリ
長野縣知事従四位勲三等近藤駿介

(碑文より)

信濃教育会館



信濃教育会館
(長野県長野市旭町1098)





(平成20年10月28日)

明治天皇駐蹕遺址碑




明治天皇駐蹕遺址碑

(長野県松本市・松本城




(平成20年10月25日)

明治天皇駐蹕遺址碑について

明治13年(1880)6月、明治天皇が松本地方へご巡幸になり同月25日には当時この地(二の丸御殿跡)に新築開設された松本区裁判所へお立ち寄りになった。
このご駐れんを光栄とする松本市民は大正10年6月、ここに印された玉址を永遠に伝えるため駐蹕遺址碑を建て、記念とした。
その後、昭和53年に裁判所(長野地裁松本支部)が三の丸に移った。
この地は史跡松本城二の丸御殿跡として整備され公園となった。
その際、この碑は建碑の意に添って現在地に残された。

(説明板より)

 平成21年11月4日

青森県八戸市・櫛引八幡宮でお会いしました。

明治大帝御聖像



明治大帝御聖像

(青森県八戸市・櫛引八幡宮)





(平成21年11月4日)
明治記念館


明治記念館
(青森県八戸市・櫛引八幡宮)

県重宝 旧八戸小学講堂
明治天皇行在所



(平成21年11月4日)

明治記念館の由来

明治記念館は八戸市堀端に八戸小学講堂として、明治14年(1881)8月に竣工した。
県内に現存する最古の洋風建築である。
洋風の下見板張りの外壁が真壁として納まり、柱の頂部には飾を載せ、胴蛇腹と軒蛇腹とを備えている。
明治14年の明治天皇東北御巡幸に際し行在所として用いられた。
昭和4年には八戸市図書館となり、御聖蹟として維持される。
昭和37年に櫛引八幡宮境内へ移築し、その際窓回り等に若干の改造が加えられてはいるが、「明治」の雰囲気を色濃く伝えており、「明治記念館」として現在に至る。
(現在は直会所・神前結婚式控室・会議室等に使用している。県重宝平成3年3月13日指定)

(説明板より)

櫛引八幡宮



櫛引八幡神宮

(青森県八戸市大字八幡字八幡丁3)





(平成21年11月4日)

櫛引八幡宮縁起

櫛引八幡宮は南部家初代光行みつゆき公の草創と伝えられる。
平泉合戦に戦功をたてた光行公は、源頼朝から糠部郡ぬかのぶのこおり(青森・岩手北部の広大な領域)を拝領し、建久2年(1191)に入部したという。
その後父信濃守遠光とおみつ公(加賀美次郎みじろう)が甲斐国南部郷に仁安にんあん元年(1166)に祀っていた八幡大明神はちまんだいみょうじんを勧請かんじょうし六戸の瀧ノ沢村に仮宮かりみやを営ませ、更に霊地を求めさせた。
神託によって四戸の櫛引くしひき村を社地に定めて、貞応じょうおう元年(1222)社殿を造営し、遷宮鎮座した。
これより櫛引八幡宮と称し、南部領総鎮守として尊崇されることになった。
建武の新政(1334)にあたり、南部家10代茂時しげとき公は北条氏に殉じ、家運が傾いたが、同族の南部又次郎師行公は、後醍醐天皇の皇子義良親王のりよししんのうに供奉ぐぶし、陸奥守兼鎮守府将軍北畠顕家あきいえ卿の国代こくだいとして糠部郡に赴任し、八戸根城を築き、広く北奥全体を支配し活躍した。
師行公は社領・祭事を旧例に復、流鏑馬の神事を始めた。
やがて勢力を回復した嫡家13代大膳権大夫だいぜんのごんたいぶ守行公が奉納したと伝わる応永おうえい11年(1404)在銘の左文字の鰐口わにぐちが当社に現存する。
また、秋田戦争に戦勝祈願して出陣した根城南部10代光経みつつね公が、応永18年(1411)めでたく凱旋し、その父信光のぶみつ公がさきに後村上天皇から拝領した卯の花縅おどしよろい(国宝白糸縅褄取つまどり鎧)を乗馬と共に奉納している。
現社殿は28代重直しげなお公が造営したもので、正保しょうほ2年(1645)に■ちょうなだてをし、慶安けいあん元年(1648)に完成した。
このため地大工のほか、屋根葺・彫物師などの江戸大工、彩色の絵書・塗師・金物打ちの大工・錺屋かざりやなどが盛岡から派遣された。(南部藩日記「雑書」)。
その後も延享えんきょう2年(1745)の大修理など、数次にわたる修補も藩の手で行われ、旧暦8月15日の例大祭には盛岡から藩主の名代みょうだいが代参し、藩主より一般市民まで広く崇敬を集めていた。
なお、日本三大駒として知られる郷土玩具の八幡馬やわたうまは当宮発祥であり、奈良・春日大社の赤糸縅鎧と東西の双璧そうへきと並び称される、県内唯一の国宝赤糸縅鎧・白糸縅鎧をはじめ、国重要文化財・県重宝ちょうほう・市文化財に指定された社宝が数多く所蔵されている。

(リーフレットより)


明治天皇八戸行在所跡



明治天皇八戸行在所舊阯
(青森県八戸市・八戸市役所前ロータリー)

昭和10年4月 建設



(平成21年11月3日)

明治天皇 行在所跡(ロータリー)

この地は明治14年8月24日、明治天皇が八戸を訪れた際に宿泊された場所です。
行在所(あんざいしょ)と呼びますが、昭和8年11月旧史跡名勝天然記念物法により「明治天皇御聖跡」として史跡に指定。
史跡整備にあたり、この聖跡をさけて道路がつくられ、昭和10年4月にロータリーが完成。
その後、何度かの整備が行われ現在に至ります。
宿泊の仮宮(かりみや)となった建物は櫛引八幡宮に移築されている「明治記念館」です。

(説明板より)

明治天皇行在所跡



明治天皇行在所跡
(市庁舎前ロータリー)





(平成21年11月3日)

市庁舎界隈(かいわい)と八戸の近代教育

下の図は、明治27年(1894)に作られた「八戸実地明細絵図」の一部で、この地の当時の様子がうかがわれる。
手前側の建物群が現在の八戸小学校の前身である「八戸尋常高等小学校」で、明治6年に「第7大学区第17中学区1番小学」として創設された。
(その後、「八戸尋常小学校」「八戸国民学校」と名称が変わり「八戸小学校」となるのは昭和22年からである。)
図の一番手前側にある洋風二階建の建物が講堂で、明治14年に完成し、その年の明治天皇東北御巡幸の際の行在所あんざいしょともなった。
現在は櫛引八幡宮に、移築され、「明治記念館」(市指定文化財)となっている。
建っていた場所は現在の市庁前ロータリーのところで、講堂前に見える木(コウヤマキ)は、現在もそこにそびえ立っている。
現在の市庁舎旧館一帯が小学校の校地だったが、小学校校庭左側の道路に近い二階建の建物が「書籍縦覧所」(八戸城物見櫓を明治7年に移築した建物)で、現在の市立図書館の前身である。
この建物の脇に立っている木がサイカチの木で永い間人々に親しまれていたものである。
小学校の後の方に見えるのが「青森県尋常中学校八戸分校」で、明治26年に創設された。
その後「青森県第二尋常中学校」「青森県立第二中学校」と改称され、この説明板の場所に建てられていたが、手狭になったため、明治41年に大杉平に移り、「県立八戸中学校」となった。
現在の「県立八戸高等学校」の前身である。
中学校が移転した跡地には、昭和4年に八戸尋常小学校が隣接地から移転した。
このほか、八戸市立商業学校(現、県立八戸商業高等学校、昭和4年)八戸市立工業学校(現、県立八戸工業高等学校、昭和19年)八戸市立第二中学校、八戸市立第一高等学校(昭和23年)も子の地で創設されている。
しかし昭和50年八戸小学校の学区内児童数増加により、城下小学校を分離することにしたほか、小学校施設と市庁舎周辺地域再整備の両全を図り、八戸小学校を現在地に移転したのを最後に、この地から学校が姿を消し、市庁街としての姿を整えた。
以上のように、この界隈は八戸の学校教育発祥の地であり、特に八戸小学校がその創設から最後の移転まで103年間、近代教育の中心的存在をなしていた場所であった。

昭和57年7月 八戸市

(説明板より)

 (説明板より)


明治天皇が使用した品々





明治天皇が使用した品々
(北海道札幌市・豊平館




(平成22年5月26日)

行幸啓

豊平館は、明治・大正・昭和の3代の天皇が行幸啓に際し宿泊された、由緒ある建物です。
明治14年8月、北海道開拓の状況を視察のため、小樽港に上陸された明治天皇は、機関車・義経号のひく開拓使号をお召し列車として、札幌においでになり、以後4日間、豊平館を行在所として市内および近郊の開拓状況を視察されました。
明治44年8月、皇太子殿下(大正天皇)の行啓に際しても、豊平館を宿泊所としました。
6日間にわたり札幌近郊を視察された殿下は、産業奨励のため数多くの産物をお買い上げになりました。
大正11年7月、摂政宮殿下(昭和天皇)の行啓時の際、外遊された経験をお持ちの殿下は、軍服以外にも、モーニングや背広など軽装もお召しになり、市民に親しい印象をあたえられました。
また市民も、旗・提灯行列でお迎えし、豊平館正面のバルコニーから、殿下がこの歓迎にお応えになられました。
昭和15年、札幌市は豊平館内に「聖徳記念館」を設置し、3代にわたる行幸啓にかかわる品々を展示し、市民に開放しました。
ここに展示した品は、明治天皇(明治14年)行幸時に使用された、ゆかりの遺品です。

(説明板より)

梅の間




梅の間
(北海道札幌市・豊平館)




(平成22年5月26日)
寝室




寝室

(北海道札幌市・豊平館)




(平成22年5月26日)

梅の間

明治・大正・昭和天皇(大正、昭和天皇は皇太子時代)の三代に渡って御座所ござしょとなった部屋です。
5灯付きのシャンデリアが取り付けられ、釣り元の中心飾り(メダイオン)には梅の模様が施されていることから、梅の間と呼ばれています。
右手の部屋は寝室で寝台・洋服箪笥たんす・洗面台が備え付けられています。
なお、各部屋の壁は漆喰大壁しっくいおおかべで、木部は春慶塗しゅんけいぬりの仕上げになっていました。

(説明板より)

広間




広間

(北海道札幌市・豊平館)




(平成22年5月26日)

廣間(ひろま)

豊平館のメインルームで、前室を含め約172uあります。
舞踏室として使う計画が当初あったため、床構造は堅牢で特殊な作りになっていました。
シャンデリアは25灯付きが二基あり、一方の釣り元の中心飾り(メダイオン)には紅葉、もう一方には大菊があしらわれています。
1881(明治14)年の明治天皇行幸の時には、道民の代表者とお会いになる「謁見所えっけんじょ」として使われました。

(説明板より)


聖恩碑



聖恩碑

(北海道札幌市・大通公園・西5丁目)




(平成22年5月26日)

【碑文】

昭和十一年秋天皇陛下北海道ニ行幸シ陸軍特別大演習ヲ統監シ給フヤ十月一日ヨリ九日ニ至ル迄カ蹕ヲ本市ニ駐メ其ノ間各所ニ親臨シ又勅使ヲ差遣シ以テ愛民撫下ノ仁惠ヲ垂レサセ給ヘリ二十萬市民此ノ盛事ニ際会會シ欣躍抃舞感激ノ情今ニ至テ猶ホ新ナルモノアリ謹デ按ズルニ明治天皇ハ明治十四年奥羽北海道ニ巡幸シ八月三十日ヨリ翌月二日ニ至ル迄鳳輦ヲ本市ニ駐メサセラレ大正天皇ハ東宮ニ在セシ時明治四十四年北海道ニ行啓シ八月二十五日ヨリ二十九日に至ル迄鶴駕ヲ本市ニ駐メサセラレ今上陛下ハ東宮ニ在セシ時大正十一年北海道ニ行啓シ七月十一日ヨリ十四日ニ至ル迄鶴駕ヲ本市ニ駐メサセラレタリ明治天皇登極ノ初メ優詔ヲ下シテ北海開拓ノ大本ヲ樹テ給ヒ大正天皇今上陛下亦相尋デ開拓ノ進境ヲ臠セ給フ是ヲ以テ全道ノ官民常ニ相一致シテ聖旨ニ副ヒ奉ランコトヲ經營七十年ノ間文化普及シ産業欝興シ遂ニ今日ノ盛況ヲ見ルニ至レリ而シテ本市ハ實ニ北海ノ首都タルノ地位ニ在ルヲ以テ明治以来三朝ノ恩榮ヲ蒙ルコト斯ノ如ク其レ大ナリ此レ宜シク後世ニ傳ヘ以テ子孫ヲ訓ユベキモノ本市深ク此ニ鑑ミル所アリ乃チ昭和十一年行幸記念事業ノ一トシテ碑ヲ建テ紀スニ三朝ノ恩榮ヲ以テス凡ソ其ノ下ヲ過ギ其ノ事ヲ徴スル者誰カ聖恩ノ疆リ無キニ感ジ蕭然トシテ尊王愛國ノ念ヲ振起セザラン閑院宮載仁親王特ニ題字ヲ賜フ感戴ニ勝ヘズ予謹デ其ノ梗概ヲ敍シ碑陰ニ書スルコト此ノ如シ

昭和13年11月
札幌市長従四位勲四等三澤寛一謹撰


明治天皇御臨幸の所



明治14年9月10日
明治天皇御臨幸之所
(青森県弘前市大字下白銀町7・青森地方裁判所)




(平成21年11月2日)





 紀元二千五百四十一年
 明治天皇御休憩所 
 明治十四年九月十六日
 (秋田県護国神社の裏)




(平成26年11月20日)

玉座



玉座
(滋賀県長浜市・「慶雲館」2階)





(平成18年4月8日)

明治天皇と長浜行幸

明治20年(1887)2月、明治天皇・皇后は京都行幸啓の帰路、長浜へ立ち寄られました。
琵琶湖を大津港から長浜港まで第二太湖丸で渡り、長浜駅から汽車に乗り換えるという行程でした。
2月21日、慶雲館は昼食をとられる休憩所となりました。
午後一時の到着に煙火が打ち上げられ、港からの仮設廊下には白縮緬が柱に巻かれ、白縮緬の垂れ幕がかけられました。
慶雲館の入り口には緑門が設けられ、一階東の間には浜縮緬をはじめ当地の名産品が展示されました。
そして、二階には天皇・皇后の玉座が設けられました。
慶雲館には1時間ほど滞在され、再び仮設廊下を経て北側の停車場から汽車に乗られました。

(説明板より)

慶雲館2階




慶雲館・2階






(平成18年4月8日)

日清戦争・大本営、広島へ

明治27年(1894)8月1日、清国に対し宣戦布告。
大本営の広島進出が発表されたのち、9月13日に皇居を出発した明治天皇は15日午後に広島駅に到着、広島城内に設けられた大本営の建物に入った。
本館は明治10年(1877)に建設されたもので、2階建ての木造洋館である。
大本営本館となった当時、部屋数は1階が10室、2階が11室で、2階の中央南部にあった会議室が天皇の御座所とされた。
明治天皇はここで極めて質素な生活をしていたようで、この建物の外に出たのは、10月2日の呉軍港行幸、10月18日の帝国議会開院式臨幸、11月2日の帝国議会仮議事堂における征清陸海軍戦捷大祝賀会臨幸、11月6日の浅野泉邸臨幸の時だけであったと伝えられている。
明治28年(1895)4月1日、下関で講和条約が締結された。
4月21日、天皇は平和の回復に関する詔書を発布し、日清戦争は終結した。
天皇は4月27日に広島を出発。
大本営は広島から京都に移り、さらに5月30日に東京に移され、残務整理を終えた明治29年(1896)4月1日に解散した。

(参考:財団法人広島市文化財団 広島城 編集 『広島城の近代』 平成20年2月 広島市市民局文化スポーツ部文化財担当 発行)

広島大本営跡


広島大本営跡
広島城本丸・上段)




(平成22年5月1日)

広島大本営跡

明治27年(1894)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所あんざいしょとされ、ここに大本営が設けられた。
明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日までの7か月あまりに及んだ。
その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されている。

(説明板より)

【広島大本営】

広島大本営の建物は原爆で焼失したため現存していない。
文献によると、木造二階建ての質素な建物で、天皇の御座所は二階正面の部屋が充てられ、御湯殿や御召替所、軍議室も設けられていた。
御座所は居間と寝室の区別がなく、就寝の時間が来ると、侍従がベッドを出してしつらえたという。
侍従長と侍従の詰所は2階の端にあった。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月5日 追記)







明治天皇御宿泊の間
(山口県下関市・長府毛利邸)




(平成23年9月14日)

明治天皇と長府毛利邸

明治天皇(1852〜1912)は、明治5年(1872)と明治35年(1902)の2度下関を訪問されています。
明治35年(1902)11月に熊本で行われた陸軍特別大演習統監のために西下されたときに同邸を行在所あんざいしょとして一泊されたのが、11月9日のことで、翌10日には九州へ向かわれました。
11月15日には御還幸の途に就かれ、再び同邸に15・16日と宿泊され、16日には、積日の疲労にもかかわらず、火の山砲台を御巡検されています。
当日は、萩の尾(火の山パークウェイ入り口交差点付近)までは車で登られ、そこで小休止されたのち、そこからは馬で火の山砲台に登られました。
萩の尾には、「明治天皇御駐輦ちゅうれん記念の碑」と「明治天皇萩の尾御小休所しょうきゅうじょ阯の碑」があり、当時を偲ぶことができます。

1)行在所(あんざいしょ):天皇の行幸(ぎょうこう)時の仮宮(かりみや)。
2)駐輦(ちゅうれん):天子が、行幸の途中で車をとめること。
3)小休所(しょうきゅうじょ):少しの間休むこと。

(解説パネルより)






長府毛利邸
(山口県下関市長府惣社町4−10)




(平成23年9月14日)

長府毛利邸(長府惣社町)

長府毛利邸は、長府毛利家14代当主の毛利元敏公が、東京から帰住するため、この地を選んで建てた邸宅で、明治31年(1898)に起工し、明治36年6月2日に完成した後、大正8年(1919)まで長府毛利家の本邸として使用されました。
その間、明治35年11月には、明治天皇が、熊本で行われた陸軍大演習を御視察の際、当邸を行在所として使用され、一部の部屋は当時のまま残されていて、往時を偲ばせてくれます。
また津軽家に嫁がれ、常陸宮華子妃殿下の御生母となられた久子様(元敏公のお孫さんにあたる)も、この御屋敷で幼少時代を過ごされています。
邸内にある庭園は、池泉回遊式で苔・石・池・楓・灯籠等配置の妙は、新緑や紅葉の季節に一段と映え、しっとりとした日本庭園のたたずまいを感じさせてくれます。

開場時間:午前9時から午後5時まで
休業日:年末年始(12月28日より翌年1月4日まで)

(説明板より)


明治神宮御苑



明治神宮御苑
(東京都渋谷区代々木神園町1−1)





(平成20年2月21日)

明治神宮御苑

明治天皇御製
  うつせみの代々木の里はしづかにて
    都のほかのここちこそすれ

この御苑は江戸時代の初めから大名加藤家、井伊家の下屋敷の庭園でありましたが、明治初年皇室のご料地となり、明治天皇の思召により所々模様替えがなされ、昭憲皇太后にはたびたび行啓になられた由緒深い名苑であります。
面積は約83,000平方米(2万5千坪余)で武蔵野特有の面影を残した苑内には、隔雲亭、御釣台、四阿南池、菖蒲田、清正井などがあり四季折々の眺めは誠に趣があり、殊に6月に咲き競う御祭神ご遺愛の花菖蒲の美しさは格別です。

(説明板より)

隔雲亭



隔雲亭かくうんてい
(明治御苑)





(平成20年2月21日)

隔雲亭

元の隔雲亭は明治33年明治天皇の御思召により皇后様のために建てられましたが、戦災により焼失したので、昭和33年篤志の寄附と社殿御造営残材とにより一部増築して再建したものであります。

(説明板より)


崩御

明治45年(1912年)7月20日、突然政府の号外が発行され、明治天皇が尿毒症で重態であると報じられた。
宮城前には天皇の病気平癒を祈る国民が続々と集まった。
だがその甲斐もなく7月30日午前0時43分崩御された。
国を挙げての悲しみの中で9月13日、天皇の御大葬が行われた。
大葬開始の号砲とともに、赤坂の邸にあった乃木希典大将と静子夫妻が後を追って殉死された。
世論の中には大将夫妻の殉死は封建の遺物だと非難する声もあった。

(参考:川上繁敏 著 『逍遥 太平洋戦争史』 リフレ出版 2012年初版)

(平成28年9月27日追記)

天皇陛下は7月10日には東京帝国大学の卒業式に臨席したが、その後体調を崩し、19日夜から意識が朦朧となっていた。
20日になっても熱が下がらず、同日夜、官報号外で「天皇陛下が尿毒症に罹かかり、ご重体である」旨が発表された。
7月29日午前11時、各国務大臣は病床にある天皇への拝謁を仰せつけられた。
午後11時43分、治療のかいもなく天皇睦仁が崩御した。
享年61。
皇族会議の結果、崩御の時間は30日午前零時43分として発表することとなった。
午後5時、枢密院会議が内閣で開かれ、新年号として「天興」「興化」「大正」の三案が奉上されたが、最終的に「大正」とすることで一致、ただちに改元の詔勅が発せられた。
この日、7月30日から大正元年が始まった。
明治天皇の御大喪は9月13日から、青山葬場殿で始まった。
この日、乃木希典陸軍大将夫妻の殉死があり、世間を驚かせた。

(参考:松田十刻 著 『斎藤實伝 「ニ・二六事件」で暗殺された提督の真実』 元就出版社 2008年第1刷)

(平成29年2月6日 追記)


【皇位継承】

左大臣一條忠香ただかの第三女として生まれ、入内にゅうだいした美子はるこ皇后(昭憲皇太后)は子を生さなかった。
明治天皇には多くの側室がいて次々に皇子女は生まれたのだが、運悪く生まれるとすぐに他界するなど短命で終わってしまう。
結果的に成人したのは女子が4人(竹田宮妃、北白川宮妃、朝香宮妃、東久邇宮ひがしくにのみや妃)、男子は伯爵家の姫で女官の柳原愛子やなぎはらなることの間に生まれた大正天皇ただ一人であった。

(参考:工藤美代子 著 『母宮貞明皇后とその時代〜三笠宮両殿下が語る思い出〜』 中公文庫 2010年7月初版発行)

(令和2年10月1日 追記)






聖徳記念絵画館
(東京都新宿区霞ヶ丘町1−1)




(平成22年11月10日)

東京都選定歴史的建造物
聖徳記念絵画館

所在地 新宿区霞ヶ丘町1番1号
設計者 明治神宮造営局
建築年 大正15年(1926)

明治神宮外苑は、多くの国民の寄附金と勤労奉仕によって、旧青山練兵場の跡地に造成され、大正15年明治神宮奉賛会によって奉献された。
広さは約30万u、神宮球場をはじめ数々のスポーツ施設が点在し、スポーツの森として都民に親しまれている。
その中心となる聖徳記念絵画館は、明治天皇・昭憲皇太后の事蹟を縦3m、横2.7mの大壁画80枚に表し、後世に伝えることを目的に建設された。
設計は公募により、一等に入選した小林正紹氏の案を基に明治神宮造営局(佐野利器、小林政一)が修正し、完成したものである。
重厚な建物の外壁は岡山県万成産の花崗岩石貼り、中央の頂部にドームをのせ、左右対称の両翼部2階が展示廊となっている。
中央正面階段よりアーチ型の玄関を入ると内部は大広間となり、その大空間壁面は国産大理石貼り、小部にタイルを用い、石膏の装飾文様等が配されている他、ステンドグラスによる採光も考慮された壮麗な意匠となっている。

東京都生活文化局

(説明プレートより)





葬場殿跡
(東京都・明治神宮外苑)




(平成22年11月10日)

葬場殿址

明治天皇が明治45年(1912)7月30日にお亡くなりになり、その御葬儀が9月13日に全国民の悲しみのうちにこの場所(当時の青山練兵場)で行なわれました。
ここがその時に御柩ひつぎ車が置かれた葬場殿のあとです。
中央の大木はこのことを記念して植えられた楠くすの木です。

明治神宮外苑

(説明板より)






明治神宮外苑





(平成22年11月10日)




『明治神宮外苑之記』碑

(東京都・明治神宮外苑)




(平成22年11月10日)

明治神宮外苑の記

石碑の題字 「明治神宮外苑之記」
         明治神宮奉賛会 総裁 閑院宮載仁ことひと親王殿下の篆書てんしょ
撰文      明治神宮奉賛会 会長 徳川家達いえさと
石材      東北仙台産の板岩

高・地表4メートル 幅・1.8メートル 厚・0.36メートル

碑文の大意

明治45年(1912)7月30日に、明治天皇(第122代の天皇・今の天皇の曽祖父)、大正3年(1914)4月11日には、昭憲皇太后(明治天皇の皇后)がお亡くなりになりました。
これを伝え聞いた国民の間から、御二方の御神霊をお祀りして、御遺徳を永遠に追慕ついぼし、敬仰けいぎょう申し上げたいという機運が高まり、その真心が実って、大正9年(1920)11月1日、代々木の地に、明治神宮の御創建となったのであります。
明治の時代は、日本の歴史を通じて、政治・経済・文化・スポーツ等の各方面において、驚くべき躍進を遂げ、近代国家としての基盤が確立されましたが、その原動力となられた天皇の偉大な御事蹟と御聖徳の数々を、永く後世に伝えたいものと、明治神宮外苑の造営が進められることになりました。
これがため、明治神宮奉賛会が設けられ、天皇が御在世中しばしば陸軍観兵式を行なわせられ、又、御葬儀がとり行われた旧青山練兵場の現在地に、皇室の御下賜金ごかしきんをはじめとして、ひろく全国民の献金と、真心のこもった労働奉仕により、十余年の年月をかけて、大正15年(1926)10月に、明治神宮外苑は完成しました。
苑内には、天皇・皇后御二方の御一代の御事蹟を、有名画家が描いた80枚の大壁画が揚かかげられている白亜の殿堂、聖徳記念絵画館を中心に、野球場、競技場その他の多くの優れた運動施設が設けられ、御仁徳をお偲びつつ、青少年の心身鍛錬の場として、或は遊歩を楽しむ人々の憩いの苑として、崇高森厳すうこうしんげんの気漲みなぎる内苑と相俟って造成されたもので、永く後世に残されるものであります。
外苑造成工事全く成り、奉賛会より明治神宮に奉献するに当り、事情の概要を記し、後の世の人々に伝えるものであります。

大正15年10月
            明治神宮奉賛会 会長 徳川家達

(説明板より)


桃山御陵



桃山御陵
(京都市伏見区)





(平成16年10月1日)

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