明治元年10月25日(1868年12月8日)〜昭和2年(1927年)9月18日
明治・大正期の小説家。
本名は徳富健次郎。
同志社を中退後、上京して兄・蘇峰が経営する民友社に入り、『不如帰ほととぎす』によってベストセラー作家となる。
以後、『自然と人生』や自伝的長編小説『思出の記』『黒潮こくちょう』などで地位を確立した。
社会的関心も強く、大逆事件に際して政府の処置を批判する講演(「謀叛論」)を行うなど独自のヒューマニズムを実践したり、聖地巡礼やトルストイ訪問なども行った。
妻との共著に自伝小説『富士』がある。
徳富蘇峰・蘆花兄弟の旧邸 (大江義塾跡) (熊本市大江4−10−33) (平成23年2月9日) |
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徳富蘇峰・蘆花兄弟の旧邸(大江義塾跡)
蘇峰、蘆花兄弟が父淇水の任官に伴い明治3年に水俣から移ってきて、19年、東京へ出るまでの間住んでいた。
蘇峰は、少年時代、島崎の兼坂塾や熊本洋学校に学び、5年間の東京・京都遊学の後、15年には19歳で、ここに大江義塾を開設した。
蘆花は明治の文豪として活躍したが、幼少の折ここから間近に見た明治9年の神風連の変を、後に出版した『青山青雲』の中の「恐ろしき一夜」と題する小品に書いている。
(説明標柱より)
明治天皇行在所の一部 (平成23年2月9日) |
明治天皇行在所あんざいしょの一部
この部屋は明治5年に移築されたものです。
この年の6月、明治天皇が熊本に行幸になりました。
その時、新町の会輔堂(今の一新幼稚園)が行在所になり、そこに厠かわや(お手洗い)が新築されました。
その厠は御使用になりませんでしたので、御還幸の後、当時、県の七等出仕(上級役員)であった徳富一敬が払下げを受けてわが家につぎ足したものです。
(説明板より)
中二階 (平成23年2月9日) |
「恐ろしき一夜」に出てくる中二階
この中二階は、明治5年に建てられました。
明治9年10月24日の夜、徳富家では母の久子と病気の長女常子と健次郎(蘆花)の3人でした。
突然近くで戸障子の倒れる音や人の悲鳴が聞こえました。
母の久子はおびえた健次郎の手をひいて、ここの二階から雨戸をあけて外を眺めますとあちこちに火の手があがっていました。
神風連の変だったのです。
このことを健次郎は後の小説「恐ろしき一夜」の中に書いています。
(説明板より)
【文豪蘆花の修業場】
明治9年10月24日の夜の神風連の乱、幼い蘆花は恐る恐る二階の雨戸のかげから、この事件を見たのです。
その時のことは、のちの「恐ろしき一夜」(明28)に書かれています。
翌10年には西南戦争が起こり、一家はここから東の方沼山津ぬやまづや杉堂に避難しました。
戦い終わって帰ってみると、愛犬は食べられ、頭だけが残っていました。
これは蘆花の「犬の話」(明28)に出ています。
「不如帰ほととぎす」(明33)と「自然と人生」(同)で有名になり、「思出の記」(明34)や「黒潮くろしお」(明36)の名作を書いた蘆花は、同志社遊学の2年間を除いて18歳までここで暮らしました。
兄の大江義塾は彼のまたとない修業の場でした。
(リーフレット『徳富公園』より)
徳富記念館 (平成23年2月9日) |
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西暦 | 年号 | 年齢 | 経歴 |
1868 | 明治元 | 0 | 10月25日 葦北郡水俣演(現・水俣市浜町)に徳富家末弟として生まれる。 |
1870 | 明治 3 | 3 | 父・一敬(淇水)、熊本藩庁に招かれ、一家は熊本・大江に移る。 |
1874 | 明治 7 | 7 | 本山小学校に入学。 成績優秀なるも身体虚弱。 |
1875 | 明治 8 | 8 | この年より日記を書き始める。 |
1876 | 明治 9 | 9 | 10月24日夜「神風連の乱」の騒動を母・久子と2階より眺める。 |
1877 | 明治10 | 10 | 西南戦争を避けて熊本沼山津及び上益城郡杉堂で数ヶ月過ごす。 |
1878 | 明治11 | 11 | 兄・蘇峰に連れられ京都の同志社英学校に入学する。 |
1879 | 明治12 | 12 | 夏休みに愛媛県今治教会にて過ごす。 |
1880 | 明治13 | 13 | 6月 兄・蘇峰の退学の後を追って同志社を退学し熊本に帰る。 |
1882 | 明治15 | 15 | 兄の大江義塾の最初の入校生となる。 |
1884 | 明治17 | 17 | 母・久子、牧師・飛鳥健次郎より受洗。 |
1885 | 明治18 | 18 | 3月 熊本三年坂メソジスト教会にて横井時雄立ち合いのもと牧師・飛鳥健次郎より受洗。 (妹の常子、光子、音羽子、倉園秀雄も同時期に受洗) 3月から1年4ヶ月を横井時雄の愛媛・今治教会で過ごし、廃校になった中学校跡で夜学会の英語教師を務める。 |
1886 | 明治19 | 19 | 9月 同志社英学校3年に再入学する。 |
1887 | 明治20 | 20 | 12月 山本久栄との失恋を期に同志社英学校を退学。 |
1888 | 明治21 | 21 | 2月 海老名弾正の熊本英学校の教師となる。 |
1889 | 明治22 | 22 | 熊本英学校を退職し、5月 「民友社」に入社。 外国電報、新聞雑誌類の翻訳、外国事情の紹介等に従事し評論なども発表。 下宿は八王子・滝山町8番地 |
1894 | 明治27 | 27 | 5月 原田藍(愛子)と結婚し、氷川町の勝海舟の離れに住む。 |
1895 | 明治28 | 28 | 1月 熊本市下通に住む愛子の父・原田弥平次、母・鹿子がチフスにて死亡。 駆けつけた愛子もチフスに感染して約2ヶ月熊本病院に入院。 家庭雑誌に『恐ろしき一夜』を発表する。 |
1898 | 明治31 | 31 | 逗子の柳屋で大山信子の実話を聞き、国民新聞に小説『不如帰』連載開始。 『青山白雲』を民友社より出版。 |
1900 | 明治33 | 33 | 『不如帰』『自然と人生』刊行。 国民新聞に『おもひ出の記』連載。 |
1903 | 明治36 | 36 | 1月 黒潮社設立。 『黒潮』出版。 『黒潮』の巻頭に兄・蘇峰への告別の辞を発表し、大反響を呼ぶ。 |
1905 | 明治38 | 38 | 8月 富士山頂で暴風に遭い、人事不省に陥り、精神革命が始まる。 |
1906 | 明治39 | 39 | 横浜から備後丸で聖地パレスチナへ巡礼の旅に出る。 ヤスヤナ・ポリヤナにトルストイを訪問。 『巡礼紀行』刊行。 |
1907 | 明治40 | 40 | 東京府下多摩郡千歳村粕谷に転居。 水俣から戸籍を移す。 トルストイに倣った晴耕雨読の生活を始める。 |
1909 | 明治42 | 42 | 『寄生木』刊行。 |
1911 | 明治44 | 44 | 無政府主義事件「大逆事件」に憤り、「天皇陛下に願い奉つる」を朝日新聞に送る。 第一高等学校(現・東京大学)にて「謀叛論」として題して講演する。 |
1914 | 大正 3 | 47 | 父・一敬死す。葬儀に列席せず。 閉居3年始まる。 『黒い眼と茶色の目』刊行。 |
1917 | 大正 6 | 50 | 『死の蔭に』刊行。(大正2年の旅行記・熊本各地が書かれた) |
1918 | 大正 7 | 51 | 『新春』刊行。 |
1919 | 大正 8 | 52 | 独自のキリスト教思想の自覚に目覚め、アダムとイブの宣言を提げて、これを記念して夫婦で世界一周の旅に出る。 |
1922 | 大正11 | 55 | 夫婦と養女・鶴子同伴で九州及び朝鮮に旅行する。 朝鮮京城にいた蘇峰に接待を受ける。 |
1923 | 大正12 | 56 | 『竹崎順子』刊行。 |
1924 | 大正13 | 57 | アメリカの排日案に嗇既して、『太平洋を中にして』刊行。 |
1927 | 昭和 2 | 59 | 9月18日 療養先の伊香保にて15年ぶりに兄・蘇峰と和解した夜、永眠。 病名は心臓弁膜症、萎縮腎、類脂肪性腎炎、血厭充進症。 妻・愛子は「白雲にしばしへだての二つ岳ならぶは光り地にみつる時」の和歌を石に刻み石棺に入れる。 |
1936 | 昭和11 | ― | 恒春園(約3400坪)を東京都に寄付。 |
1947 | 昭和22 | ― | 2月20日 愛子死去(73歳) (熱海市の子爵邸の離れに転居し、1週間後に没する。恒春園内墓地に埋葬) |
(チラシより)
【蘆花夫人・愛子】
本名:藍
明治 7年7月10日生
昭和22年2月20日没 (72歳)
隈府町の酒造業・原田弥平次の娘、隈府小入学。
明治17年、一家は熊本市転居(現在の銀座通りあたり)、熊本師範附属小に編入。
明治22年、熊本英学校女子部でしばらく学び、明治23年4月、東京師範学校(お茶の水女子大の前身)に入学、明治27年3月卒業、日本橋・有馬小学校教師となる。
明治27年5月5日に蘆花と結婚、二人は初対面。
新居は勝海舟の借家であった。
翌年4月愛子は教師を退職する。
蘆花は心から愛子を愛したが、作品が書けないと苦悩し、狂気を愛子に向けた。
愛子はその蘆花を受け止め支え続けた。
昭和2年9月、蘆花死去。
昭和11年、愛子は恒春園(約3818坪)を東京都に寄付。
昭和22年、熱海市の曽我子爵邸の離れに転居し、1週間後に友人の歌う讃美歌を聴きながら72年の生涯を閉じた。
恒春園内墓地に蘆花と共に眠る。
【蘆花作品のモデルとなった女性たち】
「不如帰」のモデル 大山信子のぶこ
明治10年 生
明治29年5月 没 (19歳)
日露戦争で「陸の大山」と言われた陸軍大将・大山巌の娘で、蘆花の処女作「不如帰」のヒロイン浪子のモデルとなった人である。
彼女は、明治26年、17歳で子爵・三島弥太郎と結婚した。
ところが、2ヶ月を過ぎるころから肺結核に感染し、7ヶ月後に離婚となる。
そして、3年後に息をひきとった。
彼女はその時、「あゝ、辛い、辛い、最早(もう)、最早(もう)婦人(おんな)なんぞに一生まれはしませんよ。」と叫んだという。
蘆花は、明治31年夏、この話を、逗子・柳屋で長逗留をしている時、大山大将の部下であった福家(ふけ)陸軍中佐の未亡人・静子が避暑で訪れ、彼女からこの話を聴き、それをもとに小説を書いた。
そして11月29日「国民新聞」に「不如帰」と題して連載を始め、明治33年1月15日「不如帰」として出版。
すると、50万部の大ヒットとなった。
その後、日本各地の劇団が上演するなど、多くの日本人の涙を誘うと共に「不如帰の歌」も生まれた。
「黒い眼と茶色の目」のモデル 山本久栄ひさえ
明治 3年 生
明治26年7月12日 没 (23歳)
父・山本覚馬かくまは地方官・政治家として初期の京都府政を指導、また、新島襄の同志社も支援。
母は覚馬の身辺世話に当っていた時恵である。
叔母・八重子は「ハンサム・ウーマン」としてNHK・ヒストリアで取り上げられた新島襄夫人である。
また義姉・峰子の夫は横井時雄(同志社第3代社長)である。
蘆花作品「黒い眼と茶色の目」は蘆花が明治19年6月に今治から京都へ転居し、9月から始めた2度目の同志社生活の中での久栄との恋愛の葛藤を描いたものである。
二人の仲は叔母・八重子や横井時雄等の反対により明治21年12月破局に終わる。
その後、久栄は、明治21年同志社女学校を卒業し神戸英和女学校を卒業後、仏語女学校に勤める。
明治26年、京都にて脳病のため没。
京都市若王子山の墓地に叔父・新島襄、父・山本覚馬等と共に眠る。
「黒い眼と茶色の目」は大正3年12月10日、刊行となる。
(リーフレット『蘇峰と蘆花をめぐる女性たち』より)
徳富記念園(大江義塾跡・徳富旧邸) (熊本市大江4−10−33) (平成23年2月9日) |
徳富記念公園について
ここは、明治3年から徳富蘇峰・蘆花兄弟が幼少時代を過ごした徳富旧邸であり、明治15年から同19年まで蘇峰の設立した大江義塾の旧跡であります。
徳富家は明治19年に一家をあげて上京しましたが、その旧邸は河田家によって保存され、昭和37年熊本市に寄贈されました。
熊本市では明治百年記念事業の一つとして旧邸の整備と記念館の建設を行ない、徳富兄弟ゆかりの遺品類を展示しています。
(説明板より)
【一高記念講演会・「謀反論」】
大逆事件の幸徳秋水らが、東京・市谷の東京監獄で処刑されて1週間後の明治44年(1911年)2月1日、作家の徳富蘆花は、武蔵野の寓居から人力車で本郷区向ヶ丘ににある第一高等学校へ向かった。
一高内の第1大教場は数百人の聴衆であふれかえっていた。
紋付き、羽織姿の蘆花が登場すると、「演題は未定」であるのに場内は不思議な空気に包まれていた。
主催者の河合栄治郎、河上丈太郎(戦後の社会党委員長)、鈴木憲三(のちに弁護士)ら一高弁論部の3年生委員は、この記念講演会をもって2年生の新委員と交代することになっていた。
引継ぎにあたっては各界の著名人を担ぎ出すことを習いとしていたので、彼らが真っ先に考えたのが徳富蘆花である。
今回は前年の天皇暗殺計画とされる大逆事件で、つい1月に幸徳ら12人が処刑されて世は騒然としていた。
蘆花は兄の徳富蘇峰を通じて、首相の桂太郎に幸徳らの助命嘆願を試みたが、国民新聞社長の蘇峰は動かなかった。
蘆花が講演を受ければ、なんらかの思いを披歴するだろうと彼らが考えてもおかしくはない。
舞台の袖には、墨で黒々と「演題未定 徳富蘆花」と書かれていた。
委員の河上が1枚目の紙を一気に引き裂いた。
すると、それまで隠されていた本来の演題「謀反論」が浮き出てきたのである。
彼らは大逆事件批判が事前に漏れて、講演会中止に追い込まれることを警戒して奇計を案じたのだ。
蘆花はゆっくりと「僕は武蔵野の片隅に住んでいる」と語り始めた。
自宅に近い豪徳寺には暗殺された大老、井伊直弼の墓があり、谷を越えると処刑された吉田松陰を祀る松陰神社があるという。
敵対した二人ではあるが、蘆花は「50年後の今日から歴史の背景に照らしてみれば、畢竟ひっきょう、今日の日本を造り出さんがために、反対の方向から相槌を打ったに過ぎぬ」と独自の議論を展開した。
蘆花は改めて、「諸君」と注意を喚起した。
「僕は幸徳君らと多少立場を異にする者である」と明確にしたのち、それでも社会発展のためには「謀叛むほんを恐れてはならぬ。自ら謀叛人を恐れてはならぬ。自ら謀叛人となることを恐れてはならぬ。新しいものは謀叛である」と語った。
最後に蘆花は、一高生に向かい「幸徳らも誤って乱臣賊子となった。しかし百年の公論は必ずその事を惜しんで、その志を悲しむであろう」と訴えた。
蘆花は大逆事件に見る明治の官僚主義を批判し、次代を担う学徒に「自由を殺すは即ち生命を殺すことになる」と人格の陶冶とうやを呼びかけていたのである(佐藤嗣男「蘆花講演『謀叛論』考」明治大学人文科学研究所紀要1997)。
だが、恐れていたことが現実に起った。
「謀反論」が直ちに文部省の知れることになったのだ。
翌日、校長の新渡戸稲造は文部省に呼び出され、弁論部長の畔柳郁太郎くろやなぎいくたろう教授とともに譴責けんせき処分を受けた。
(参考:湯浅博 著 『全体主義と闘った男 河合栄治郎』 産経NF文庫 2019年4月 第1刷発行)
(令和2年5月4日 追記)
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