加藤清正像 平成12年5月6日

加藤清正 かとう・きよまさ

永禄5年6月24日(1562年8月4日)〜慶長16年6月24日(1611年8月2日)

熊本県熊本市 熊本城の前でお会いしました。


豊臣秀吉に仕えた賤ヶ岳七本槍の一人で、天正16年(1588年)肥後半国を与えられ熊本城主となり、国人・土豪勢力の一掃に努め、麦年貢をルソンへ輸出するなどの積極的な貿易をすすめました。
文禄の役では先陣を勤め、慶長の役での蔚山ウルサン籠城での活躍は有名です。
秀吉の信頼も厚かったのですが、石田三成らの台頭により政権の中枢からは遠ざけられてしまいました。
関ヶ原の合戦では九州にあって東軍(家康方)に属し宇土城等を攻め、戦後に肥後一国54万石に加増されました。
熊本城を築き、城下町を整備、領内の治水や干拓事業にも尽力しました。
清正は熱心な日蓮宗信者でもあり、領内での日蓮宗寺院の建立をすすめるとともに、キリシタン弾圧政策を行いました。
慶長16年(1611年)50歳のときに二条城で家康と会見する豊臣秀頼の後見役を果たし、その帰国途上に船中で発病し熊本城内で亡くなりました。


 平成23年2月7日再訪問

熊本県熊本市・熊本城前でお会いしました。




「清正公」像

(熊本県熊本市中央区花畑町)

昭和54年3月
加藤清正公銅像建設期成会
会長 星子 敏雄
推進 マグナライオンズクラブ

(平成23年2月7日)

加藤清正公
永禄5年(1562)〜慶長16年(1611)

日本三大名城の一つに数えられる熊本城を築いた加藤清正は、天正16年(1588)肥後半国の領主として隈本城に入り関ヶ原の戦い後、肥後54万石の大名となる。
この間、熊本城の築城に着手し慶長12年(1607)完成させたといわれ、隈本を熊本と改名した。
土木・治水をはじめ城下町の形成に力を注ぎ、現在の熊本市発展の基礎を築いた。
今でも「清正公(せいしょこ)さん」と親しまれ、多くの人々の崇敬を集めている。

(説明碑・碑文より)

この地は加藤清正の「御花畑屋敷」の西北隅にあたる。
細川時代には、城内に至る「下馬橋(げばばし)」のたもとで、また、「お花畑」と呼ばれる藩主の屋形の一角であった。
このように由緒があり、城内への重要な登城口である現在地に、加藤清正公の銅像を設置することが最もふさわしく、辛島公園ロータリーから移設したものである。

平成3年9月
熊本市長 田尻靖幹

(説明碑・碑文より)


【加藤清正】

清正は永禄5年(1562年)、尾張国(愛知県)愛智あいち郡中村に生まれる。
幼くして父に死別し、しばらくは母に養育されたが、その母が豊臣秀吉の母と従姉妹同士だった関係で、やがて近江(滋賀県)長浜12万石の領主だった秀吉のもとに引き取られることになった。
異説もあるが、時に清正9歳、元亀元年(1570年)のことという。

当時、秀吉には子どもがいなかったので、清正を我が子のようにかわいがり、軍学・兵法・武術などをみっちり仕込んだ。
一種の英才教育である。
15歳で元服し、150石を与えられ、天正9年(1581年)、鳥取城を攻める秀吉に従って初手柄を立てた。
以後、つねに秀吉陣中にあって本領を発揮し、戦功を重ねた。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月24日 追記)


【仁愛の精神】

文禄の役(1592年)に1年間、朝鮮の二王子を捕虜として陣中生活を送った加藤清正は和約成立後帰国した二王子から、陣中生活中の厚遇に対して、心こもる感謝状をもらっています。
その中に「慈悲仏の如し」という言葉があり、二王子らは清正の生存中から京城南大門外に清正の廟を造り、肖像画を掲げて彼を祀りました。

(参考:太田文雄 著 『日本人は戦略・情報に疎いのか』 芙蓉書房出版 2008年第1刷発行

(令和元年11月9日 追記)


名古屋市秀吉清正記念館
名古屋市中村区・中村公園文化プラザ2階にあります。
秀吉・清正の生きた時代や尾張の戦国武将の姿などを歴史的にわかりやすく絵や文書などの資料や模型、視聴覚機器などで展示しています。
なお、常設展は随時、展示替えを行います。
休館日:月曜日・祝日の翌日・毎月第3金曜日・年末年始
入館料:無料

(平成14年10月27日)

加藤清正像 平成15年11月28日

愛知県名古屋市 名古屋城名城公園の能楽堂のところでお会いしました。




加藤清正像

後に見える建物が能楽堂です。
更に向こうに見えるのが名古屋城の天守閣です。



(平成15年11月28日)

建立の記(碑文)

本像は、名古屋城築城にあたり、多大の貢献があった加藤清正公の業績を顕彰し、カゴメ株式会社創業八十周年記念として、同社が建造しこれを名古屋市に寄付されたものです。

昭和54年3月 名古屋市

加藤清正像  平成18年4月8日

滋賀県長浜市・豊国神社でお会いしました。

加藤清正公像



加藤清正像

(滋賀県長浜市南呉服町2−4・豊国神社)





(平成18年4月8日)

清正公銅像再建略記

先に川崎米吉氏より奉納された加藤清正公の銅像は 大東亜戦争の末期に供出され 爾来三十有余年台石のみを残したまま今日に至りました
今般 古稀の祝を記念し且つ前奉納者の意思を継いで 再建し奉納する

昭和56年7月吉日

森脇酸素株式会社
森脇産業株式会社
社長 森脇六太郎

富山県高岡市問屋町82
製作 一ノ瀬高級美術銅器製作所

(銘板より)

加藤清正公銅像

太閤さん子飼いの腹心の部下。
終生献身的に豊臣家を守護した武将で今でも豊国神社の護衛を司っています。
長烏帽子兜と十文字槍は清正公のシンボル。

(『豊国神社』のリーフレットより)

虎石



虎石
(滋賀県長浜市南呉服町2−4・豊国神社)





(平成18年4月8日)

虎石

長浜城内に庭園が造られたとき、加藤清正公が寄進した庭石が太閤さんのお気にいりでした。
元和元年(1615)に長浜城を廃して彦根城へ移築する時この石は大通寺へ移設されましたが、毎晩々々「いのう〜いのう〜」と虎が吠えるように鳴き叫びますので、豊国神社へ戻したところ静かに鎮座したと言います。
以後「霊石虎石」と呼ばれて瓢箪池の畔にあります。

(『豊国神社』のリーフレットより)

豊国神社
豊国神社
(滋賀県長浜市南呉服町2−4)

御祭神
豊臣秀吉公
加藤虎之助清正公
八重事代主命えびす宮
木村長門守重成公


(平成18年4月8日)

由緒

太閤さんは、天正2年(1574)の春から長浜城の建築と商家の町並み造りに着手されました。
その後、約10年のあいだ長浜町に善政を施され、大阪や京都に移住されてからも長浜町民との交流は絶える事なく続いていました。
この現われが天正19年に公布された『三百石の地租税免除』の朱印状で、幕末まで大きな恩典になりました。
太閤さんが、慶長3年(1598)8月18日に伏見城で逝去されますと、長浜町民は京都の豊国廟にならって逸早く豊國神社を建立しました。
ところが徳川幕府の政権下では、太閤さんを神格化することは許されず、豊國神社は京都と共に取り壊されました。
それ以来、町役人十人衆が太閤さんの御神像を各家庭に隠してお祀りしていましたが、一計を案じて寛政5年(1793)に彦根藩へ『えびす宮』を建立する許可を願い出て一社を建立、太閤さんを裏に隠してお祀りました。
これが『十日戎』の始まりです。
弘化3年(1846)になりますと、太閤さんの恩徳を町民に布撫するために又々一計を練り、豊臣家の一字をとり『豊神社』と書いて『みのり神社』と呼んでいました。
その名残が東の外堀に架かる『みのり橋』です。
明治維新が過ぎ、大正9年(1920)に天下晴れて『豊國神社』と名乗れるようになりますと、太閤さんをお祭りする行事が市民挙げて盛大になりました。
太閤さんの御神霊が不運だった江戸時代に、長浜の先人の発想により前立ち神になって戴いた恵比寿神の祭典も盛大に行っています。
合祀神の木村長門守公は豊臣秀頼公を最後まで守護した人、加藤清正公は太閤さんの腹心の部下であった所以による神々です。

(『豊国神社』のリーフレットより)


 平成23年4月29日

東京都三鷹市・井の頭自然文化園彫刻園でお会いしました。





加藤清正公
(東京都三鷹市井の頭4−1・井の頭自然文化園彫刻園)





(平成23年4月29日)

【築城名人:加藤清正】

豊臣秀吉は大坂城の天下普請を構想した時、まだ20歳そこそこの青年・清正を、築城見まわりという大役に任じた。
築城見まわりとは、築城の下準備や工事の進み具合を秀吉に報告するのを職務としており、よほど犀利さいりな眼識がないと勤まらない。
そうすると、清正はすでにその頃から城づくりに関する識見を修得していたことになる。

清正の名築城家としての声価が一挙に高まったのは、朝鮮渡海の前進基地である肥前(佐賀県)名護屋城を築いてからであろう。
清正は、五層七重の天守をはじめ、本丸・二の丸・三の丸その他大小の曲輪など、まことに複雑な構成をもつ名護屋城を、たった5ヵ月で完成させた。

加藤清正は自身が築城名人だったばかりでなく、同様に築城に造詣の深い飯田覚兵衛、森本儀太夫らの家臣にも恵まれていた。
大坂城、名古屋城とともに天下の三名城と呼ばれた熊本城は、彼ら主従が力を合わせて築きあげた結晶である。

創建当初の熊本城は、天守閣2、櫓49、櫓門18、そのほかの諸門29を数えたが、何よりも豪壮美を誇ったのは、いわゆる「扇の勾配」をもった石垣であり、清正流の築造術の精髄は、その石垣築きにあったとされる。
清正没後のことだが、名古屋城の手伝い普請を命じられた加藤家は、目隠しの幕を張り巡らして天守台の石垣を築いたというから、加藤家のほうもよほどその技法を大切にしていたのであろう。
加藤家は江戸城の手伝い普請の際も、桜田から日比谷にいたる石垣築きを担当したが、清正流の技法はさすがに卓越しており、江戸っ子の評判をさらったと伝えられる。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月6日 追記)


井伊掃部頭邸跡



井伊掃部頭邸跡
(東京都千代田区永田町・憲政記念館「国会前」交差点付近)





(平成18年5月25日)

井伊掃部頭邸跡(前 加藤清正邸跡)

この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。
加藤家は二代忠広ただひろの時に改易かいえきされ、屋敷も没収されました。
その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷かみやしきとして明治維新まで利用しています。(歴代当主は、掃部頭かもんのかみを称しました)
幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)3月に、この屋敷から外桜田門そとさくらだもんへ向かう途中、水戸藩士等に襲撃されました。

平成9年8月
千代田区教育委員会

(説明板より)


明治神宮御苑



加藤清正・下屋敷庭園跡
(東京都渋谷区代々木神園町1−1 明治神宮御苑)





(平成20年2月21日)

明治神宮御苑

明治天皇御製
  うつせみの代々木の里はしづかにて
    都のほかのここちこそすれ

この御苑は江戸時代の初めから大名加藤家、井伊家の下屋敷の庭園でありましたが、明治初年皇室のご料地となり、明治天皇の思召により所々模様替えがなされ、昭憲皇太后にはたびたび行啓になられた由緒深い名苑であります。
面積は約83,000平方米(2万5千坪余)で武蔵野特有の面影を残した苑内には、隔雲亭、御釣台、四阿南池、菖蒲田、清正井などがあり四季折々の眺めは誠に趣があり、殊に6月に咲き競う御祭神ご遺愛の花菖蒲の美しさは格別です。

(説明板より)

清正井



清正井

(東京都渋谷区・明治神宮御苑)





(平成20年2月21日)

清正井

この地に下屋敷を構えて居た加藤清正が掘ったと伝えられ、一年中絶ゆることなく湧き出る清水は南池の水源となり掘り方の巧妙と水質の優秀なことは早くから世に知られています。

(説明板より)


本門寺の石段



本門寺の石段
(東京都大田区池上1−1−1・池上本門寺)





(平成20年5月19日)

大田区文化財
本門寺ほんもんじの石段

この石段は、加藤清正(1562〜1611)の寄進によって造営されたと伝えられ、「法華経」宝塔品ほうとうぼんの偈文げぶん九六字にちなみ、96段に構築され、別称を「此経難持坂しきょうなんじさか」という。
なお、元禄げんろくの頃(1688〜1703)に改修されているが、造営当時の祖型を残しており、貴重な石造遺構である。
清正は慶長11年(1606)に祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しているので、この石段もその頃の所産と思われる。

昭和49年2月2日指定
大田区教育委員会

(説明板より)


清正駒つなぎの桜




清正駒つなぎの桜

(長野県松本市・松本城




(平成20年10月25日)

清正駒つなぎの桜

熊本城主加藤清正は、江戸からの帰りに松本城に立ち寄った。
城主石川玄蕃頭は、遠来の客を手厚くもてなした後、騎馬2頭を引き出し「土産にどちらでもお気に召した方を1頭差し上げましょう。」といった。
清正は志のほどを感謝して「貴殿の目利きで選んでは誠に申し訳ない。取り立てた駒を我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない。2頭共申し受けるのが礼儀と心得る。」といって2頭を頂戴して帰ったという。
これを伝え聞いた人々はさすが清正公と感じ入ったという。
この時駒を繋いだのがこの桜の木だと伝えられている。

「加藤清正伝」より

(説明板より)


清正公堂



清正公堂
(福島県東白川郡棚倉町・長久寺)





(平成21年9月13日)
棚倉城二の丸南門



棚倉城二の丸南門
(福島県東白川郡棚倉町・長久寺)





(平成21年9月13日)

長久寺と山門

長久寺は、宝永2年、太田備中守資晴公が駿州田中より移り棚倉藩5代城主となり、棚倉城南門外に仮堂を建て、宝永4年5月12日、花園の地に総本山身延山久遠寺第33世遠沾院日享上人を開山として、太田公、御母堂 本成院殿妙元日貞大姉位の菩提と、この地に法華経の道場を建立、夫公院高徳山長久寺(現在は瑞光院)を開創する。
当山山門は、その時に、棚倉城二の丸南門を山門として長久寺開基太田公が寄進移築されたもので、初代城主丹羽長重公が築城(寛永2年)の門と言われ、棚倉城に縁ある建物として現存する唯一のものである。
今現在はトタン葺、切妻造、薬医門、前面主柱・脇柱間を改築して仁王尊を安置している。
この仁王尊は、寺誌に「馬場村都々古別神社ノ本地仏維新ノ際託所火中ヨリ日要感得之右周旋人伊野下村」とある。

(説明板より)

長久寺



長久寺
(福島県東白川郡棚倉町大字花園字沢目176)





(平成21年9月13日)





切株
(熊本県菊池市・菊池神社)




(平成23年2月7日)

この切株は加藤清正公が慶長9年(1604)頃、国道57号線の大津街道に杉並木を植えた屋久杉の根元である。
平成3年秋の台風19号(風速50米以上)で倒れたものを菊池市豊間の林業、黒谷光臣氏が神社に奉納されたものである。
約400年の風雪に耐え、数々の歴史の流れを見つめ、また往来する多数の旅人たちの疲れを癒して来たことでしょう。

奉納日 平成6年4月24日

(説明板より)






菊池神社
(熊本県菊池市隈府1257)




(平成23年2月7日)

菊池神社

明治3年4月御鎮座、吉野朝に忠誠を尽くした菊池武時・武重・武光父子三公を主神に、菊池一族の殉国戦没の将士を祀ってあり、歴史館には、歴史を物語る古文書、家憲、千本槍、画像、能衣装、能面など数多く展示されています。
例年10月13日から15日まで秋季大祭があり、その初日13日には御松囃子御能(国指定重要無形民俗文化財)が征西将軍の宮お手植えと伝える将軍木前において奉納されます。

熊本県

(説明板より)






清正井(復元)
(熊本県熊本市中央区内坪井町4−8・熊本中央高等学校)





(平成23年2月7日)

【毒殺説】

慶長16年6月、清正は徳川家康の度重なる上洛の要請に応じた豊臣秀頼を守って二条城に赴き、つつがなく両者の対面をつかさどったが、熊本に帰る途中で病を発し、帰城してまもなく病没した。
享年50歳。
あまりにも突然の死であったため、家康による毒殺説が一部でささやかれている。
それは、二条城で出された饅頭に毒が仕込んであり、清正はそのことを知っていたが、儀礼上食べないわけにはいかない秀頼に代わって饅頭を平らげ、あえて一身を犠牲にしたというのである。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月24日 追記)


 平成23年2月8日

熊本県熊本市・本妙寺公園でお会いしました





清正公大銅像

(熊本県熊本市・本妙寺公園)





(平成23年2月8日)

加藤清正銅像

中尾山(本妙寺山)の8合目、清正を葬る浄池廟じょうちびょうの上手に屹立きつりつする。
昭和10年(1935)は清正の没後325年忌に当ったので、本妙寺ではその記念事業として清正の銅像を製作、安置することとし、その製作を長崎出身の彫刻家北村西望きたむらせいぼうに依嘱した。
同年4月、高さ約8.2メートルに及ぶ銅像は上熊本駅に到着し、現地まで僧達の読経に合せて信者達が紅白の綱を曳いて登り、台座に据付けられた。
浄池廟裏手から銅像までの石段も25段区切りで300段につくられた。
19年4月戦争末期の金属供出で撤去されたが、35年4月に再建され今日に至っている。

熊本市

(説明板より)

清正公大銅像

昭和10年清正公325遠忌を記して建立
昭和35年清正公350遠忌に再建像全体の約10m台座ともの高さ約17m
製作者 芸術院会員 故・北村西望氏

(リーフレット『肥後 本妙寺』より)





本妙寺公園
(熊本県熊本市花園・肥後本妙寺)





(平成23年2月8日)




浄池廟中門
(熊本県熊本市花園4−13−1・肥後本妙寺)





(平成23年2月8日)




浄池廟拝殿
(熊本県熊本市花園4−13−1・肥後本妙寺)





(平成23年2月8日)



浄池廟本殿
(熊本県熊本市花園4−13−1・肥後本妙寺)

廟の両脇には清正を慕って殉死した大木土佐兼能の墓と
朝鮮人で会計(金官)の職にあった良甫鑑の墓がある。


(平成23年2月8日)

浄池廟

加藤清正は、天正16年(1588)肥後半国の領主として入部し、近世熊本の基礎を築き、慶長16年(1611)6月24日熊本城中でなくなった。
遺言により、熊本城に相対し且つ自身の深く帰依した日真上人隠棲の草庵に近いこの地に葬って、浄池廟と称した。
元和2年(1616)には本妙寺もまたこの廟守護のため熊本城内から移転してきた。
浄池廟は、正面に清正の木像を安置しているが、その真下に清正が葬られており、この建物全体がそのまま清正の墓である。
明治維新の廃仏毀釈の際、廟は撤去されて長岡護美筆になる墓碑が建てられたが、明治27年廟は再建され、墓碑は廟の後背に移されて今日に至っている。

(説明板より)


肥後の清正〜桐と葵のはざまを生きる〜
熊本出版文化会館/編  亜紀書房  1996年第3刷発行  1,500円
(内容)
第1章:清正の肥後入国前後
第2章:清正と行長
第3章:清正の肥後経営
第4章:桐と葵のはざまで
補章:加藤家のその後と後世の清正観
資料編

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