(別称:銀杏城)
熊本市本丸1−1
「熊本城」のパンフレットより
日本三大名城の一つ熊本城は別名銀杏城とも呼ばれ名将加藤清正によって、慶長6年(1601年)に着工され、7年の歳月をかけ築城されました。
城郭の広さは約98万u、周囲9km(築城当時)、そのなかに天守3、櫓49、櫓門18、城門29を持つ豪壮雄大な構えで、美しい曲線で築かれた石垣や自然の地形を利用した独特の築城技術が生かされています。
熊本城は豊臣秀吉の九州統一により、その家臣加藤清正が熊本統治の拠点として築城したもので、城下町の整備や優れた治山、治水、産業の振興など、今日の熊本の基礎を築きました。
しかし加藤家の治世は徳川の忌避にふれ2代44年しか続きませんでした。
その後豊前小倉城より細川忠利が封じられ、明治4年(1871年)まで11代239年の間細川家の居城として続きました。
明治10年(1877年)西南の役に際しては、西郷隆盛率いる薩摩軍を相手に50日余も籠城し、難攻不落の城として真価を発揮しましたが、惜しいことに薩摩軍の総攻撃の前日に原因不明の失火により宇土櫓他12棟を残し焼失しました。
慶長12年に完成した当時は東向きの城でしたが、元和元年以降は大手筋が西向きに変わっています。
昭和35年(1960年)、清正公350年祭と市制70周年を記念して再建された復興天守です。 |
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石垣が素晴らしい城です。 |
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宇土櫓 |
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加藤清正像 |
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【熊本城】
加藤清正が肥後(熊本県)半国25万石を給せられ、熊本(当時は隈本くまもと)に入部したのは、天正16年である。
前年に九州平定を成し遂げた秀吉は、佐々成政さっさなりまさを肥後に封じたが、その成政が失政を犯したため、肥後を二つに分け、その半分を清正に与えたのであった。
あとの半分をもらったのは小西行長である。
清正は前年、秀吉から讃岐(香川県)一国を与えようと言われたが、自分の望みは肥後に封じられて島津氏に備えることにあると言って、拝辞した。
清正が熊本城の築造に着手した時期についてははっきりせず、いくつかの説があるけれども、今のところは52万石の太守となったのと同年という説が有力視されている。
それまで清正が居城としていたのは、鹿子木親員かのこぎちかかずが室町末期に築いた隈本城である。
新城の建設地は、この隈本城も含み込んだ茶臼ちゃうす山の丘陵に設定された。
茶臼山は、坪井川がその裾を洗い、白しら川と井芹いぜり川に守られた自然の要害である。
清正の家臣には、飯田覚兵衛、森本儀太夫ぎだゆう、三宅覚左衛門みやけかくざえもん、豊田玄蕃げんば、下川又左衛門など、築城に造詣の深い重臣たちがいた。
なかでも飯田・三宅両氏は、ことのほか石垣築きに長じていたといわれる。
清正は着工に先立ち、これらの重臣に大工・左官らを付けて上方かみがた方面に派遣したり、平素から石垣づくりの足軽などの養成に努めていたという。
このような周到な下準備もあって、天下の堅城・熊本城は出現したわけである。
熊本城が確かに天下の堅城であることは、明治10年(1877年)の西南の役において立証された。
この時、熊本城に攻めかかった西郷隆盛軍は1万3千弱、一方、司令長官・谷干城のもとに、これを迎え撃った熊本鎮台軍はわずか3千400余。
武器も山砲30門、臼砲きゅうほう30門を有する西郷軍に対し、鎮台軍は山砲13門、臼砲7門のほか野砲6門とスナイドル銃といったありさまで、戦力的には圧倒的に劣勢だった。
だが、鎮台軍は熊本城に籠城すること52日、ついに西郷軍を撤退のやむなきに追いつめたのである。
(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)
(令和2年7月24日 追記)
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