西郷隆盛像 平成16年7月17日

西郷隆盛 さいごう・たかもり

文政10年12月7日(1828年1月23日)〜明治10年(1877年)9月24日

東京都台東区 上野公園でお会いしました。


薩摩藩主・島津斉彬なりあきらのお庭方となりますが、斉彬死後に時勢に絶望して自殺を図るが果たせず、奄美に配流となりました。
赦免後、京都での志士たちとの接触が島津久光に疑われて流罪となりました。
第一次長州戦争の戦後処理にあたった頃から倒幕に転じ、慶応2年(1866年)の薩長連合密約から王政復古クーデターに活躍しました。
明治4年(1871年)出仕して参議に就任し廃藩置県にたずさわりました。
岩倉遣外使節団出発後、留守政府の責任者となりますが、朝鮮派遣の征韓論争、明治6年の政変で下野し、西南戦争で敗れ城山で自決しました。


西郷隆盛像 上野公園の西郷隆盛像

敬天愛人
西郷隆盛と銅像の由来

西郷隆盛は文政10年(1827年)12月7日薩摩藩士として鹿児島加治屋町に生まれた。
通称吉之助、南洲はその号である。
若くして、藩主島津斉彬に重用され、幕末内外多難の際、大いに国事に奔走したが、これに関連して奄美大島に流されること2回。
元治元年(1864年)許されて京都に上るや、朝廷の意を重んじて一旦は長州を敵としたが、後、木戸孝允と謀って薩長連合を結成し、慶応3年(1867年)12月ついに王政復古の大業を成就、その後も官軍の参謀として大功を樹て、明治維新の基礎を確立した。
その間、高橋泥舟勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦禍から救ったことは余りにも有名である。
その後は、故郷に退隠したが、明治4年(1871年)正月、三条実美以下新政府首脳の懇請を受けて上京、参議に就任し、廃藩置県その他近代国家建設のための主動的役割を果した。
然るに、明治6年6月いわゆる征韓論が閣議に上るや断乎反対して、大使派遣による平和的修交を主張し、その決定を見るに至ったが、後欧米出張から帰国し、内治優先論を固執する岩倉具視、大久保利通等の反対に敗れて辞官帰郷。
私学校を興して後進青年の育成に努めた。
明治10年2月当局者の謀に激した私学校生徒に擁せられて西南の役となり、転戦7ヵ月余、ついに敗れて城山に自刃した。
9月24日、享年51歳。
そのため一時逆賊とされたが、明治22年2月、明治天皇の特旨により賊名を除かれ、正三位を追贈された。
この銅像はこれに感激した隆盛のの旧友、吉井友実が、同士と共に追慕の情を表すべく建立を計画したものであり、御下賜金のほか有志2万5千人の醵金を得て、明治26年起工、同30年竣工、わが国彫刻界の巨匠高村光雲の作である。
西郷隆盛の偉大な功業は、その信条たる敬天愛人の精神に発した仁愛と至誠没我の所産であり、日本の代表的偉人として今なお、敬慕される所以は実にここにあるのである。

(説明石碑より)

犬


西郷隆盛が連れている犬。


後藤貞行の作。
失礼ながら全然可愛いとは思えない。
本当にこれは犬なのか?


(平成16年7月17日)

西郷隆盛誕生の地




西郷隆盛誕生の地
鹿児島県鹿児島市加治屋町にあります。
「維新ふるさと館」の近くです。


(平成12年3月26日)
西郷隆盛誕生地



西郷隆盛誕生地

(鹿児島市加治屋町4)





(平成19年3月30日再訪問)

西郷隆盛誕生地

〜身体も心も目玉も大きかった西郷さん〜

「大きくたたけば大きく鳴る。小さくたたけば小さく鳴る」と土佐の坂本龍馬を驚かせた薩摩の「ウドメサア」(目の大きな人のこと)西郷隆盛の器量の大きさは、彼が生まれ育った下加治屋町したかじやまちの郷中ごちゅう教育によって培われたといわれています。
1827年(文政10)西郷は下級武士の家の7人兄弟の長男として誕生(海軍大臣を勤めた従道つぐみちは三男)。
貧しい生活の中で藩校造士館ぞうしかんに通い、次第に下加治屋町郷中の少年達のリーダーとして頭角を現します。
鹿児島の町には独特の若者組織があり、町毎に区切られた郷中という単位で少年たちが集まり、厳しくしつけられるのです。
西郷は13歳のとき、右腕を負傷し武芸はあきらめましたが、その分勉学に励み、二才頭にせがしらとして郷中の仲間の人望を集めました。
西郷の指導者としての有能さは、この郷中から多くの偉人が育ったことからもうかがえます。
17歳で郡方書役助こおりかたかきやくすけという地方役人となり、農村を回り、農政についての意見をまとめました。
これが後に英明えいめい藩主といわれた島津斉彬の目にとまり、やがて日本を舞台に活躍する足掛かりとなったのです。

(説明板より)

維新ふるさと館



維新ふるさと館
地下1階の「維新体感ホール」はなかなか面白いです。
西郷隆盛や維新の英傑のロボットが登場する寸劇(?)です。
入館料:大人300円
(平成12年現在)

(平成12年3月26日)

略年表
文政10年 1827年  1歳 西郷隆盛誕生  
弘化 1年 1844年 18歳 郡方書役助の役職につく  
嘉永 6年 1853年 27歳   ペリー来航
安政 1年 1854年 28歳 藩主・島津斉彬に従って江戸に行く
藤田東湖と親交
 
安政 2年 1855年 29歳 橋本佐内と出会う  
安政 5年 1858年 32歳 京都にて一橋慶喜将軍継嗣工作にあたる
月照と共に入水自殺を図るが一人助かる
奄美大島に潜伏
安政の大獄
万延 1年 1860年 34歳   桜田門外の変(井伊直弼暗殺)
文久 2年 1862年 36歳 島津久光の怒りを買い、沖永良部島に流される
文久 3年 1863年 37歳   薩英戦争
元治 1年 1864年 38歳 赦免され京都に入る
蛤御門の変で長州軍を撃退
勝海舟と会談
第1次長州征伐に参謀として随行
 
慶応 2年 1866年 40歳 薩長同盟締結 徳川慶喜が将軍となる
明治天皇即位
慶応 3年 1867年 41歳   大政奉還
明治 1年 1868年 42歳 鳥羽・伏見の戦い
東征大総督府参謀となる
山岡鉄太郎(鉄舟)と会談
勝海舟と会談し江戸城攻撃を中止する
上野戦争で彰義隊と戦う
東北鎮定に向かう
 
明治 2年 1869年 43歳 薩摩藩の参与となる
函館戦争の援軍に向かう
版籍奉還
明治 3年 1870年 44歳 明治政府に出仕  
明治 4年 1871年 45歳   廃藩置県断行
遣欧使節団出発
明治 5年 1872年 46歳 明治天皇の西国巡幸に随行する  
明治 6年 1873年 47歳 陸軍大将になる
朝鮮派遣が中止となり辞職して鹿児島に帰る
岩倉具視ら帰国
明治 7年 1874年 48歳   佐賀の乱
明治 9年 1876年 50歳   神風連の乱・萩の乱
明治10年 1877年 51歳 西南戦争で九州各地を転戦する
鹿児島の城山で自決
 

(参考文献:『歴史街道 2006年12月号』)

(平成19年1月6日追記)


【軍隊の統率者・明治天皇】

明治天皇に軍隊の統率者としての心構えをご指導申し上げたのは西郷隆盛だった。
それまで女官によって占められていた宮中の制度を改め、天皇の近侍に旧幕府や各藩の下級士族を登用したのは、西郷の力であった。
この結果、山岡鉄太郎、高島靹之助、村田新八、米田虎雄、島義勇など、旧幕府から旧藩の下級士族が数名侍輔として側近に召し出された。
これらは何れも維新の血生臭い剣槍の間を馳せ回った連中で、剛毅朴訥、錚々そうそうたる面魂つらだましいをもった豪傑であったから、青年時代の明治天皇に与えた影響は大きかった。

明治天皇が自ら近衛兵を指揮して習志野へ行軍されたのは明治6年4月のことで、肥満体のため馬に乗れない西郷隆盛が、28キロの道を歩いて供奉したのは有名な話である。
4月30日には夜半から暴風雨になり、天皇野営の天幕の下で、西郷は徹宵御警固申し上げている。
この野営訓練を記念して、天皇はこの原野を「習志野」と命名された。
今の習志野市の地である。

(参考:須山幸雄 著 『二・二六事件 青春群像』 芙蓉書房 昭和56年第1刷発行)

(平成29年2月3日 追記)


【征韓論】

西郷さんは征韓論に敗れて下野し、西南戦争を起こしたということになっていますが、西郷さんは韓国に兵を送って武力で制圧しろなどとは一度も言っていません。
征韓論を唱えたのは板垣退助で、西郷さんはそれに真っ向から反対し、礼を厚くし威儀を正した全権大使を派遣すべきであり、それには自分がふさわしいと主張したのです。
そして一度は西郷全権大使の派遣が閣議で了承されたのですが、大久保利通と岩倉具視が何だかんだと言ってこれに反対し、結局、西郷大使派遣は立ち消えとなりました。
西郷さんは朝鮮と手を結び、さらに清国を説いて、いわば東アジア共同体のようなものを考えていたようです。
そうすることでロシアや欧米列強に対抗しようとしたわけです。
その後の歴史は、西郷さんの意に反して鹿鳴館に象徴されるような「脱亜入欧」政策が幅を利かし、彼を悲劇の人物にしてしまいました。

(参考:菅沼光弘 著 『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』 2012年・第1刷 徳間書店)

(平成27年6月26日・追記)


征韓論(西郷隆盛 VS 大久保利通・岩倉具視)

一般的に言われているのは、西郷隆盛が没落した不平士族を救う為に活路を外に求めて朝鮮を武力で征伐しようとしたが、大久保利通や岩倉具視に反対され敗れたというもの。
しかし、これはどうも違うらしい。

日本は江戸時代に鎖国をしていたが、朝鮮とオランダだけは国交を保っていた。
明治元年、明治政府は朝鮮に使節を派遣し、新政府の樹立と友好親善の国書を提出。
しかし朝鮮はこの国書の受理を拒否。
(国書の受理を拒否するということは国交断絶、敵対行為を意味する)
これに対し明治政府は交渉を続けるが、朝鮮は日本の使節に対して愚弄、侮蔑を繰り返す。
明治6年、朝鮮は釜山にある大日本公館の門前に、日本は「無法の国」と記する文書を掲示。
この事件により、日本国内で遂に征韓論が起こる。

これは日本へ対する敵対行為であるから我が国が戦争に訴えてよい大義名分となると外務卿の副島種臣が断言。
この問題が閣議に上がったときに、参議の板垣退助は釜山への出兵を主張し、他の参議のほとんどがこれに賛成。
しかし、西郷隆盛はこれに異議を唱えた。
責任ある全権大使が朝鮮へ行き、礼を尽くして朝鮮政府を説得し反省させるべきで、それでも我が使節を侮辱したり殺害した場合には公然と罪を問い征伐すべきであるとして、自分を大使に任命して欲しいと申し出た。
よって、西郷隆盛は『征韓論者』ではなく『遣韓論者』であると最近では言われている。

明治6年8月17日、閣議で西郷隆盛の遣韓大使が決定され明治天皇のご裁可を受けた。
ところが、これを覆したのが大久保利通と岩倉具視。
天皇の裁可を受けた事項に対し内治優先を理由に反対。
しかし10月15日の閣議で再度西郷隆盛の派遣が決まった為、大久保利通、岩倉具視は辞表を提出。
このため、直ちに天皇に上奏する役目の三条実美太政大臣は2人の辞表提出に動揺したのか、高熱を出して倒れてしまった。
大久保利通と岩倉具視は策略を巡らし、岩倉具視が太政大臣代理として西郷隆盛の遣韓反対を上奏したため、天皇はこれを裁可。
閣議で二度決定し、一度は天皇のご裁可を受けた事項を卑劣な手段で葬るという違法行為が行われたのである。
この不正と非道に対し、西郷隆盛は参議を辞めて故郷鹿児島に退く。

(参考:『歴史街道 2006年12月号』)

(平成19年1月6日追記)


【死処を求める】

明治になって西郷が「征韓論」、つまり武力で朝鮮国の体制を変革しようと考えたのは、いくら口を尽くして説得しても、近代化の意義を認めない、“朱子学中毒患者”の島津久光が間近に存在していたからだろう。
当時の朝鮮国は朱子学中毒の国である。
なにしろ朱子学中毒になるほど猛勉強して科挙に合格しなければ、国家の官僚になれないのである。
近代化というものは悪として絶対に拒否している人々が国家の中枢を占めている国、その朝鮮国を目覚めさせるためには、戦争を起こすしかないというのが征韓論だ。
最近、西郷は朝鮮国で死ぬつもりなどなく、あくまで話し合いで物事を解決しようと思っていたと主張する歴史学者もいるが、それがどんなに甘く非現実的な見方か。

西郷は同じ儒教でも理論先行の朱子学より、実践を重んじる陽明学を重んじるようになっていた。、
だからこそ西郷はまさに最後のご奉公として死処を求めていた。
しかし、朝鮮国での死は妨害されてしまった。
そこで、明治10年(1877年)、西南戦争を起こし、死をかけて新政府に諫言かんげんする道を選び、その生涯の幕を自ら閉じたのである。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月19日 追記)


 平成26年11月22日 

山形県酒田市・南洲神社でお会いしました。







 「徳の交わり」像 
 (南洲神社)





(平成26年11月22日)

徳の交わり

西郷隆盛(南洲)と菅実秀(臥牛)が対話しているこの坐像は 鹿児島武西郷屋敷において両翁が親睦を深め「徳の交わり」を誓いあったことを記念して製作したものである
庄内藩は戊辰戦争で官軍に激しく抵抗したため厳しい処分を覚悟していたが南洲翁の公明正大な極めて寛大な処分となった
この南洲翁の大徳に感じ臥牛翁は明治8年自ら旧庄内藩士と共に訪鹿して南洲翁の教えを受け後にその教えを受けた人達の手記を集め「南洲翁遺訓」を発刊した
旧藩主酒井忠篤公は数名の人を各地に行脚させ全国に頒布した
南洲翁の偉大さに傾倒し生涯のすべてを尽くされた荘内南洲会の創始者である長谷川信夫先生の遺志を継ぎ今荘内の一角に両翁の遺徳を偲び不易の教訓である「敬天愛人」の精神を永く後世に伝えるため 有志相諮り浄財を募り対話の坐像を建立した

平成13年9月吉日
財団法人 荘内南洲会

(銘板より)

資料館内部 


 赤間ヶ関硯

 これは長州藩の三好から先生に贈られ
 先生が愛用されたものを土持政照に
 贈られたものである。
 (説明文より)


(平成26年11月22日)

西南戦争で西郷先生に殉じた荘内の二青年 

明治10年2月、西南の役前、荘内の二青年伴兼之と榊原政治は、当時私学校にて学問に調練に精励しておった。
西南の役がはじまり、決死の覚悟で従軍を願い許された二人は、西郷先生と共に2月17日鹿児島を出発した。
伴、榊原の両名の属した隊は、最初熊本城攻撃に参加した。
その後、田原坂、植木の戦斗に於ける戦い振りは見事であったと伝えられておる。
3月20日の植木での熾烈な戦斗の中で、伴兼之は政府軍の銃弾を受けて即死する。
此の時榊原政治は敢然として敵陣の真只中に突進し遂に政府軍を退却させることが出来、伴兼之の屍を引き取ることが出来た。
榊原青年は、其の後、人吉に赴き、連戦活躍したが、御船の戦で、敵弾を胸部に受け重傷となり、延岡の薩軍病院で手厚い看護を受けたのであったが、5月10日遂に戦死となる。
郷里庄内の人々は、この二人の死を伝え聞いて、若年乍らよくぞ荘内人の真面目を発揮して西郷先生に殉じて呉れたと、斉しく心から感謝したのであった。
鹿児島の南洲墓地の中に、しかも西郷先生のお墓のすぐ前に、我が荘内出身の二青年の墓がある。
御両人の行動を後々までも語り伝えるとともに、心より御冥福をお祈り申し上げます。

(財)荘内南洲会

(神社内の掲示板より)


南洲神社 
(山形県酒田市飯盛山2−304−10)

(平成26年11月22日)

西郷隆盛像 平成19年3月30日

鹿児島県鹿児島市・鹿児島市立美術館前でお会いしました。

西郷隆盛像



西郷隆盛像
(鹿児島市城山町4・市立美術館前)





(平成19年3月30日)

西郷隆盛像

〜天を相手に人生を全うした誠心の英雄〜

西郷隆盛は幕末維新の指導者で、明治天皇の信頼が厚く、日本初の近衛このえ都督陸軍大将になりました。
1827年(文政10)下加治屋町したかじやまち郷中ごじゅうに生まれた西郷は、幼名は小吉こきち、通称を吉之助きちのすけといい南洲と号しました。
青年時代に二才頭にせかしらとして農政に関する意見書を提出。
藩主島津斉彬の目にとまって側近に抜擢され、国事への関心を高めました。
ところが、その斉彬が急死。
勤皇僧月照げっしょうと錦江湾に投身、一人生き残って大島に流されました。
その後、大久保利通らの助けで幕府を倒す運動に復帰。
藩論を指導し、薩長連合を結んで、王政復古の大号令を決行。
東征大総督府参謀として江戸無血開城を実現しました。
新政府が樹立した後は、参議として廃藩置県を断行。
岩倉具視、木戸孝允、大久保利通らが外遊中の政府を預かりました。
1873年(明治6年)遣韓けんかん使節をめぐる政争に敗れて東京から鹿児島に帰った後は、私学校を開き後進の指導にあたりましたが、彼らの血気に押され、ついに西南戦争へと突入。
1877年(明治10年)西郷は城山で自刃じじんしました。
この銅像は、郷土出身の彫刻家 安藤照あんどうてるが習志野ならしの大演習で陸軍大将の制服を身につけた西郷の姿を思い描き制作したものです。

(説明板より)

西郷隆盛像 平成19年3月30日

鹿児島県鹿児島市・『屋久杉センターせごどん』脇でお会いしました。

西郷隆盛像



西郷隆盛像
(鹿児島市城山町・『屋久杉センターせごどん』脇)





(平成19年3月30日)

西郷隆盛像 平成19年3月30日

鹿児島県鹿児島市・『城山長寿泉』脇でお会いしました。

西郷隆盛像



西郷隆盛像
(?)
(鹿児島市城山・『城山長寿泉』脇)





(平成19年3月30日)
「大西郷永久にあり」の碑



「大西郷永久にあり」の碑

(鹿児島市・『城山長寿泉』前)





(平成19年3月30日)

大西郷の御霊に捧ぐ

白雲棚引く太陽の連峯
遥かなり雲霞かすみの中に浮ぶ薩摩富士
紺碧こんぺきの海に聳立そそりたつ櫻島岳やま
七色に変貌へんぼうし水面みなもに揺らぐ山の影
紅蓮ぐれんの斜陽、城山に映
濃紺のうこんの森、赤々と染まる
若人の雄姿これに寸分たり
時は明治10年秋9月
戦禍せんか荒涼こうりょうとして山を覆
戦塵せんじんの中に凝聚ぎょうしゅうする憂国の人々
流血悲惨なり泥寧ぬかるみと化し
しかばね累々として木立の中に横臥おうが
血風なまぐさく鬼哭きこく啾々しゅうしゅうたり
城山の砦とりで、寸断され孤立無援
寂莫せきばく寥々りょうりょうたり
刀は既に折れ、弾たまきるとも
師弟の縁えにし、永遠とわに消滅せず
大方たいほうの翼に抱擁されし若人の魂
仄仄ほのぼのとして楽し
人生泡沫うたかたの如し廿有余年
夕陽に濡れし櫻島を指呼しこに見て
自刃し果てし幾十幾百人
死の中に法悦を見出し微笑
いまだ其の顔に漂う
日本の至宝こゝに玉砕するも
大方と共に日本悠遠の榮光を祈念す
人間一切の煩悩を放擲し
国恩に殉ずる心魂
薩摩武人の権化たり
「晋どん、もうここでよかろう」
大西郷莞爾として腹十字に切る
別府晋介の翳す秋水に
利鎌とがまの残月、玲瓏と冴え
山の端に落んとす
岩崎谷の朝未まだき、巨星天涯に去る
肌寒し黎明の中に若人の魂を抱き締め
自刃し逝きし大西郷の心
魂魄この世にとゞまりて
敬天愛人の眞髄に徹するは
日本悠遠、平和の道標みちしるべたり
大方の志いづくんぞ知らん
永劫ごうに愛国の心櫻島の息吹と共にあり
かすかなり、朝靄もやの中に眠る櫻山岳やま
波静にして紫紺の海に倒影とうえい
いまだ仄ほの暗き暁の彼方に
けたゝまし乱れ飛ぶ海鳥の群れ

昭和51年9月24日
作詞 大迫 亘

(碑文より)

城山長寿泉



城山長寿泉

(鹿児島県鹿児島市城山町20−1)





(平成19年3月30日)

西郷南州洞窟



西郷南州洞窟
(鹿児島市城山町19)





(平成19年3月30日)
西郷南州洞窟



西郷南州洞窟
(鹿児島市城山町19)





(平成19年3月30日)

西郷隆盛洞窟

〜西南戦争最後の司令部〜

1877年(明治10)9月24日、午前4時政府軍の城山総攻撃が始まりました。
城山に立てこもる薩軍兵士は、わずか300余。
これを囲む政府軍は、何重も柵をめぐらし、その数4万。
死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間すごしたこの洞窟を出ました。
桐野利秋別府晋介村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒です。
この日の西郷の出立いでたちは妻のイトが縫った縞しまの単衣ひとえに白い兵児帯へこおび
ゆっくりと岩崎谷いわさきだにを下ります。
その時流弾ながれだまが西郷の腰に命中。
別府の介錯をあおいで49歳の生涯を閉じたのです。
西南戦争というのは、不平士族の反乱のあいつぐ中、台風の目というべき西郷を慕う私学校の生徒たちが、政府の挑発によって引き起こした暴動が始まりです。
首謀者の引き渡しか全面戦争か、その結論を出したのは「おはんらにやった命」という西郷の一言でした。
2月15日、ついに挙兵。
熊本で政府軍と激しい攻防をくりかえすも、近代兵器の前に敗退。
7ヶ月にわたる大乱の最後を、西郷は故山こざん城山で迎えたのです。

(説明板より)


南洲翁終焉之地碑




『南洲翁終焉之地』の碑

(鹿児島市城山町12)




(平成19年3月30日)
終焉の地




西郷隆盛終焉の地

(鹿児島市城山町12)




(平成19年3月30日)

西郷隆盛終焉の地

〜波瀾はらんの道、ここに尽きる〜

ズドン、ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の腰を大腿部だいたいぶを撃ち抜きました。
城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされたのです。
「晋どん、もうここらでよか」東を向き、皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯かいしゃくの太刀が振り下ろされました。
1877年(明治10)9月24日のことです。
西郷を敬愛する私学校生徒を中心に強大な反政府勢力となった薩軍が、2月15日に50年ぶりの豪雪をついて熊本に軍を進めて以来、7ヶ月もつづいた「西南の役」が終ったのです。
熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れ、人吉から宮崎、延岡に追われた薩軍はついに解散。
西郷以下の幹部は宮崎県北の可愛岳えのたけを突破し九州の中央山脈を縦走する難行軍の末、故郷鹿児島を死に場所に選んだのです。
岩崎谷に銃声がやみ、西郷の死体が発見された時、政府軍の総司令官 山県有朋中将は「翁はまことの天下の豪傑だった。残念なのは、翁をここまで追い込んだ時の流れだ」と語り、いつまでも黙祷もくとうしたということです。

(説明板より)

西郷隆盛像 平成19年3月30日

鹿児島県鹿児島市・西郷南州顕彰館でお会いしました。

西郷南州像


西郷南州像
(鹿児島市・西郷南州顕彰館)

武 西郷屋敷公園
南州翁と菅臥牛翁対話の銅像原型
製作者 高岡市 四津井工房


(平成19年3月30日)
西郷南州顕彰館



西郷南州顕彰館

(鹿児島県鹿児島市上竜尾2−1・南州公園内)





(平成19年3月30日)

西郷南州顕彰館

当館、西郷南州没百年を記念し、皆さんの募金で造られ、鹿児島市教育委員会が主管しています。
主な展示品は、
1.西郷隆盛の生涯の10景のジオラマ
2.西郷隆盛の衣服・遺品・肖像画
3.西郷隆盛直筆の書幅・書簡・漢詩文
4.西南戦争関係資料・銃・弾刀・旗・写真
◆入館料 大人100円 小人50円
◆開館時間 午前9時〜午後5時(休館日毎週月曜日)
西郷南州遺訓集など関係図書も頒布しています。

(説明板より)


西郷隆盛の墓



西郷隆盛の墓

(鹿児島市・南州墓地)





(平成19年3月30日)
南州墓地



南州墓地

(鹿児島県鹿児島市上竜尾2−1・南州公園内)





(平成19年3月30日)

南州墓地

〜信義を貫いた巨星と群れ星ここに眠る〜

1877年(明治10)9月24日、城山で西郷隆盛が自刃して、ついに7ヶ月にわたった西南戦争が終わりました。
熊本城の攻防、田原坂の激戦に敗れた薩軍は、多くの死傷者をだしながらも九州を南下して、故郷の城山を最期の決戦の場に選んだのです。
南州墓地には西南戦争に敗れた薩軍さつぐん2023名もの将兵が眠っています。
1877年(明治10)岩崎谷で戦死した西郷以下40名を仮埋葬したこの地に、その2年後、市内各所に埋葬されていた遺骨を移し、さらに6年後には、宮崎・熊本・大分の各県からも集められました。
墓石は正面に西郷隆盛、左手に最後まで奮戦した桐野利秋、右手には篠原国幹、他には村田新八、辺見十郎太、別府晋介、桂久武など幹部が並び、鹿児島県令(知事)として西郷を支援し処刑された大山綱良や、わずか14歳にして戦場に消えた伊地知いちじ・池田両少年、兄弟5人が討ち死にした児玉こだま兄弟、県外出身者の名も見られます。
また1879年(明治12)に設けられた参拝所は、1922年(大正11)西郷隆盛を祭る南州神社となりました。

(説明板より)

古写真 (説明板より)
西南戦争終末直後の鹿児島市街と桜島(明治10年撮影)

城山展望台からの景色 平成19年3月30日
城山展望台から見た現在の景色

南州神社


南州神社
(鹿児島県鹿児島市上竜尾2−1・南州公園内)

御祭神:西郷隆盛命
配祀:桐野利秋命以下薩軍戦歿者6800柱



(平成19年3月30日)
招魂



招魂
西南之役戦歿者慰霊塔

(鹿児島市・南州神社)




(平成19年3月30日)

趣意

明治10年(1877)9月の西南之役終熄より120余年、平成11年度遺族会総会は慰霊塔建立を決議。
戦域より遺砂を格納し、就中無名の戦士に光を当て顕彰の誠を捧げるべく企画、同時に南州翁や戦跡より「縁ゆかりの石」を集め、翁の足跡や苦難の跡を偲ぶよすがとした。
今般建立に当り賛同、募金に協力された有志諸賢に深く感謝の念を捧げるものである。

平成13年9月16日
西南之役戦歿者慰霊塔建立期成会

(碑文より)


「関原読軍記」碑



『関原読軍記』碑

(滋賀県長浜市石田町・石田三成出生地跡(石田会館)





(平成18年4月8日)

関ヶ原軍記を読む
西郷隆盛

東西一決関ヶ原に戦う
鬢髪冠を衝き烈士憤る
成敗存亡 君問う勿れ
水藩の先哲 公論あり

(説明板より)


勝海舟歌碑



勝海舟歌碑
(鹿児島県鹿児島市・南州墓地)





(平成19年3月30日)

勝海舟歌碑

明治6年(1873)、朝鮮への使節派遣の問題で新政府を去った西郷隆盛は、鹿児島に戻り、青年の教育のため私学校を設立しました。
ところが明治10年この私学校の生徒が、西郷の意思に反して暴走。
ついには西南戦争を引き起こしたのです。
この歌は、幕末以来西郷と親交の深かった勝海舟が、愛する私学校生徒に身を委ね生涯を閉じた亡友のために詠んだものです。
隣に立つ常夜燈じょうやとうは、西郷と勝海舟との会談により江戸城が無血開城され、江戸100万市民が兵火を免れたことへの感謝のため、昭和14年5月当時の東京市によって建立されたものです。
歌碑はこの常夜燈と同じ花棚石けだないしでできています。

(説明板より)

歌碑と常夜燈



歌碑と常夜燈

(鹿児島市・南州墓地)





(平成19年3月30日)






顕彰碑
(東京都大田区・洗足池公園内・留魂祠)




(平成23年11月26日)

碑文

慶應三年十二月 王政古ニ復シ翌明治元年二月大總督熾仁親王 勅ヲ奉シ 錦旗東征セラレ三月十五日ヲ期シテ江戸城ヲ攻メシム城兵決死一戦セントシ兵火将ニ全都ニ及ハントス時ニ勝安芳幕府ノ陸軍總裁タリ時勢ヲ明察シテ幕議ヲ歸一セシメ十四日大總督府参謀西郷隆盛ト高輪ノ薩藩邸ニ會商シテ開城ノ議ヲ決シ四月十一日江戸城ノ授受ヲ了セリ都下八百八街數十萬ノ生霊因テ兵禍ヲ免ガレ江戸ハ東京ト改稱セラレテ 車駕此ニ幸シ爾来 三朝ノ帝都トシテ殷盛比ナシ是レ一二隆盛安芳ノ兩雄互ニ胸襟ヲ披キテ邦家百年ノ大計ヲ■メタルノ賜ナリ今ヤ東亞大有為ノ秋ニ方リ當年兩雄ノ心事高潔ニシテ識見卓抜ナリシヲ追慕シ景仰ノ情切ナリ茲ニ奠都七十年ニ際シ兩雄ノ英績ヲ貞石ニ勒シテ之ヲ顕彰シ永ク後昆ニ傳フ

昭和十四年四月
東京市長従三位勲一等小橋一太謹識






留魂碑
(東京都大田区・洗足池公園内・留魂祠)




(平成23年11月26日)

碑文

あしたに恩遇おんぐうを蒙かうむり夕ゆうべに焚?ふんかうせらる。
人世じんせいの浮沈ふちんは晦明くわいめいに似たり。
たとひ光ひかりを回めぐらさざるも葵あふひは日に向ふ。
し運を開く無きも意は誠まことを推さむ。
洛陽らくようの知己ちきみなと為
南嶼なんしょの俘囚ふしうひとり生を竊ぬすむ。
生死何ぞ疑はむ天の附与なるを。
ねがはくは魂魄こんぱくを留めて皇城こうじょうを護まもらむ。
          獄中感有り 南洲

(説明板より)






留魂祠
(東京都大田区南千束・洗足池公園内)





平成23年11月26日)





留魂祠
(東京都大田区南千束・洗足池公園内)





平成23年11月26日)

留魂祠りゅうこんし

一、祭神 南洲西郷隆盛先生
一、例祭 毎年9月24日

由緒
明治維新の英傑、西郷南洲(隆盛)勝海舟の両先生は、大政奉還後の江戸城の明け渡し交渉によって、江戸の町を戦火より救われ、首都東京の基を築かれたことでも著名ですが勝先生は、晩年、この洗足池畔せんぞくいけはんに洗足軒と呼ぶ別邸を設けられ、南洲先生と日本の将来について歓談されたと伝えられます。
南洲先生はその後、明治10(1877)年の西南戦役により、故郷鹿児島において子弟三千余と共に逝去されましたが、これを惜しまれた勝先生は、追慕のため南洲先生の漢詩を建碑されさらに明治16(1883)年、その魂魄こんぱくを招祠して留魂祠を建立せられました。
留魂祠の名は、漢詩「獄中有感ごくちゅうかんあり」の「願留魂魄護皇城ねがわくはこんぱくをとどめてこうじょうをまもらん」に由来するものです。
この留魂祠は、もと東京南葛飾郡大木村上木下川(現、葛飾区東四ツ木1−5−9)の薬妙寺境内にありましたが、勝先生の御遺志により、大正2(1913)年、石碑とともに現在の地へ移されました。
右隣には勝先生御夫妻の奥津城おくつき(御墓所)があり、維新の両雄は、いまなほ相並んで我国の将来を見守っておられるのです。

南洲会

(説明板より)


【西郷南洲の長男・虎太郎】

私が歩兵第1連隊の少尉の頃、西郷南洲の長男・虎太郎侯爵は少佐であり、歩兵第1連隊第1大隊長であった。
彼は父南洲ゆずりの5尺9寸もある長身の持ち主で、色はあくまで黒く酒を嗜んだ。
馬術は極めて拙劣であった。
彼の妻女は園田家の出であった。
園田家は北海道ニーカップ又、下総にも馬の大牧場を持っていた。
当時サラブレッドは日本では珍しかったが、この牧場にそれがあったと見え、岳父は彼にサラ系の1頭を贈ったものと見えた。
この逸物は虎太郎少佐には「脚下の重荷」であった。
彼は調教師にできるだけ「鈍」にに作り直せと命じたようであった。

明治10年西南戦争の後、南洲は逆賊として城山に散った。
明治天皇は彼の忠誠心を疑わなかった。
ただちに側近に命じて、長男虎太郎をドイツに留学せしめたのであった。
日本でドイツの幼年学校、士官学校を出て日本の陸軍将校となったのはこの虎太郎一人のみである。
かかる迂遠な道を辿ったから、彼の軍人としての行動はあまり迅速とは言えなかった。
それでも彼は大佐になり本郷連隊区司令官となった。

(参考:樋口季一郎 著 『アッツ、キスカ・軍司令官の回想録』 昭和46年10月 第1刷発行 芙蓉書房)

(令和元年12月14日 追記)


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