(通称号:玉5914部隊)
編成地 | 編成時期 | 終戦時の上級部隊 | 終戦時の所在地 |
東京 | 明治7年 | 第1師団 | フィリピン・セブ島 |
明治7年5月、東京鎮台に歩兵第1連隊が誕生。
軍旗を授与されたのは明治7年12月19日。
兵営は赤坂の毛利藩邸跡に置かれた。
西南の役では、田原坂の激戦、城山攻撃に参加。
東京に帰還後、連隊長は乃木希典中佐に替る。
乃木は約5年ほど連隊長を務めた。
日露戦争では、第2軍(司令官・奥保鞏大将)に所属して金州・南山を攻撃。
旅順攻撃には第3軍(司令官・乃木希典大将)に編入されて参加した。
連隊は第3次攻撃では二〇三高地に突撃し、主力のほとんどを失う。
その後、奉天会戦にも参加。
日露戦争後もしばらくは満州に駐留した。
内地に帰還後は殆ど訓練の日々。。
連隊の出動は関東大震災の時に帝都の警備のために出動した程度。
昭和11年の2・26事件で連隊から多くの関係者を出した。
5月、かねてから満州に駐留を命じられていた連隊は内地を出発。
満州の孫呉を拠点としてソ満国境の警備に当たる。
昭和12年6月19日、日ソが互いに領有を主張して譲らず、小競り合いが絶えなかったカンチャーズ島に突如ソ連軍が上陸し、武力衝突が起こる。(カンチャーズ事件)
30日未明、ソ連の軍艦が突如満州側に発砲したため、連隊の速射砲隊がソ連の軍艦を撃沈。
以後、外交交渉となり、7月2日、ソ連軍が撤退し、事件は解決した。
日中戦争では、連隊は万里の長城を越えて、張家口から大同へと進撃した。
昭和14年5月、ノモンハン事件が勃発し、連隊は再びソ連軍と交戦することになる。
7月に速射砲中隊が派遣され、戦死者を出し、8月には連隊主力に派兵が下令。
9月4日にノモンハンの南、ハロンアルシャンに集結したが、まもなく停戦となり連隊は孫呉に帰還した。
日米開戦後も満州で対ソ戦に備えていたが、昭和19年、南方転進を命じられ上海に集結。
10月20日、第2大隊を除く主力はフィリピンのレイテ島に向け出港。
11月1日、レイテ島オルモックに上陸。
北部のリモンに進出していた第1師団主力と合流し、この方面の激戦に参加したが、兵力は上陸時の2500名から350名に消耗。
連隊はリモンを撤退して西部のカンギポットに終結。
昭和20年1月、第1師団の撤退作戦(地号作戦)により、レイテ島から脱出してセブ島に渡る。
この時、セブ島に脱出できたのは連隊長以下72名。
セブ島では現地自活をしながら遊撃戦を行なったが、まもなく終戦となる。
この時の生存者は、わずか39名だった。
上海で本隊と別れた第2大隊は、その後、マリアナ諸島のロタ島に派遣され現地の警備につく。
米軍の上陸はなかったが、銃爆撃と飢餓のため大隊の兵力は84名になっていた。
「歩一の跡」碑 (東京都港区赤坂・檜町公園) (平成22年11月10日) |
歩兵第一聯隊 碑誌
當公園一帯は江戸時代長州藩毛利侯の下屋敷であった
明治7年歩兵第1聯隊がここに創設され以来67年間東京および近縣の郷土部隊として明治大正昭和に亘って駐屯しこの門をくぐった人々は夥しい数にのぼる
乃木将軍は第2代の聯隊長であった
ここに出身者有志相集って本碑を建てて永くその跡を留める
昭和38年秋
(碑文より)
歩兵第1連隊跡 |
赤坂檜町あかさかひのきちょう
古くは今井村のうちでしたが、寛永(1624年〜1644年)以後、萩(長州)藩毛利家、松江藩松平家、山家やまや藩谷たに家の屋敷地となり、幕末まで大きな変化はありませんでした。
萩藩毛利家屋敷は元治元年(1864年)、幕府と萩藩とが対立したため、召し上げとなっています。
町の北部に麻布今井町年貢町屋がありました。
これはかつての今井村の百姓家に由来すると思われ、承応3年(1654年)頃にはこの町屋が今井本村と呼ばれ、中心的な位置をしめていたようです。
明治5年(1872年)、麻布今井町年貢町屋と武家地を合併して、「赤坂檜町」となりました。
町名は毛利家邸内に檜が多く、檜屋敷ひのきやしきと呼ばれていたことに由来します。
明治になって、町内の南東部三分の二は陸軍省用地となり東京鎮台歩兵営がおかれ、後に歩兵第一連隊となりました。
西部は明治20年(1887年)頃は、空き地や畑だったようで、明治末頃までには大部分が住宅地となり、北東隅には、わずかに商店がありました。
戦後は歩兵第一連隊が進駐軍に接収されハーディバラックスという兵舎となりました。
昭和37年、アメリカから敷地が返還され、跡地には平成12年まで防衛庁が置かれていました。
(説明板より)
檜町公園近くで見かけた赤レンガ。 歩兵第1連隊に関係のある赤レンガだろうか? (平成22年11月10日) |
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