弘化4年(1847年)〜明治10年(1877年)9月24日
桐野利秋の従弟。
明治元年(1868年)の戊辰ぼしん戦争では鹿児島藩隊分隊長として奥羽地方を転戦。
翌年、鹿児島常備隊小隊長。
明治4年(1871年)近衛陸軍少佐。
翌年、征韓論に関連して朝鮮に赴き情勢を視察する。
明治6年(1873年)西郷隆盛に従って辞職、帰郷後私学校の幹部となる。
明治10年(1877年)の西南戦争で西郷軍大隊長として熊本城を包囲。
のちに敗れて鹿児島の城山で西郷を介錯かいしゃくし自刃。
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別府景長の墓 (鹿児島市・南州墓地) (平成19年3月30日) |
別府 晋介景長
明治10年9月24日城山で戦死31歳。
明治6年近衛少佐を辞し帰郷、加治木区長となる。
西南の役では6番7番連合大隊長として出陣。
9月24日早朝、岩崎谷口に向い突進中、銃弾を受けた西郷の命によりその介錯をつとめた。
(説明板より)
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南州墓地 (鹿児島市・南州公園内) 1877年(明治10)の西南戦争で戦死した西郷隆盛をはじめ、2023名の将士が眠っています。 (平成19年3月30日) |
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