盛岡城 もりおかじょう

岩手県盛岡市内丸1丁目・岩手公園


 平成21年11月7日

国指定史跡 盛岡城跡

所在地 盛岡市内丸1番地ほか
指定年月日 昭和12年4月12日

盛岡城は、三戸さんのへから不来方こずかたに居城の移転を決定した南部信直のぶなお(盛岡藩初代藩主)が、慶長2年(1597)に嫡子利直としなお(2代藩主)を総奉行として築城を始めたと伝えられ、翌慶長3年(1598)の正式許可の後、築城工事が本格的に進められました。
城の縄張りは豊臣家重臣の浅野長政の助言によるものといわれ、北上川と中津川の合流点に突き出した丘陵に本丸・二の丸・腰曲輪こしくるわなどを配し、それぞれに雄大な石垣を構築して内曲輪うちくるわ(御城内ごじょうない)としています。
さらに、内曲輪の北側は起伏の激しかった現在の内丸地域を平坦にして堀で囲み、南部氏一族や藩の家臣たちの屋敷を配置して外曲輪そとくるわとしました。
また、外曲輪の中津川対岸の城下を堀で囲み、武士や町人たちの屋敷街である遠曲輪とおくるわ(総構そうがまえ)が配置されています。
築城工事は、北上川や中津川の洪水にみまわれながらも続けられ、築城開始から36年後の寛永10年(1633)に南部重直しげなお(3代藩主)が入城して以来、藩政時代を通じて盛岡南部氏の居城となりました。
盛岡城は、廃藩置県の後明治5年(1872)に陸軍省所管となり、明治7年(1874)には内曲輪(御城内)の建物の大半が取り壊され、城内は荒廃しましたが、明治39年(1906)に近代公園の先駆者である長岡安平ながおかやすへいの設計により岩手公園として整備され、市民の憩いの場として親しまれています。
平成18年(2006)には開園100周年を記念し、「盛岡城跡公園」と愛称をつけました。

平成21年10月 盛岡市

(説明板より)

説明板より

国指定史跡
盛岡城跡・岩手公園

盛岡城は慶長2年(1597)に鋤すき初め(起工)をしたと伝えられ、翌3年に豊臣秀吉の許可を得て本格的築城が始められました。
その後、寛永年間にかけて城郭の整備が進められ、盛岡藩主南部氏20万石の居城でした。
城は当時の北上川と中津川の合流点近くの丘陵に築かれ、本丸・二の丸・三の丸を中心に、腰曲輪(淡路丸)や榊山さかきやま曲輪などの平坦部が配置されています。
本丸や二の丸の一部では自然石を用いた築城当初の石垣、また、二の丸の西側では貞享3年(1686)に積まれた切石の高石垣など異なる年代のさまざまな石垣が見られます。
明治維新後、盛岡城は陸軍省の所管をへて、明治39年(1906)、岩手県が城跡を中心に整備を加え、岩手公園として開園しました。
昭和9年(1934)に盛岡市に移管され、同12年(1937)国史跡に指定されました。
現在岩手公園は、城跡の風格ある石垣に調和した園地の修景が行われ、春には桜、秋には紅葉が美しく、四季を通した憩いの場として、広く市民に親しまれている総合公園です。

○所在地        岩手県盛岡市内丸
○史跡指定年月日  昭和12年(1937)4月17日
○史跡指定面積    8.6ha
○開園年月日     明治39年9月15日
○開設面積       8.7ha

(説明板より)

腰曲輪の石垣
腰曲輪


腰曲輪


この付近は、藩主が乗馬の練習をした「馬場」となっていました。
(この説明板と本丸石垣の間です)

(説明板より)


(平成21年11月7日)
腰曲輪




腰曲輪






(平成21年11月7日)
腰曲輪の遺構変遷

石垣修理に伴っておこなわれた発掘調査の結果、腰曲輪の構造が大きく4時期にわたって変化していることがわかりました。

@不来方こずかた城期(15〜16世紀)―盛岡城築城以前の福士ふくし氏の居城であった時期で、斜面に空堀、土塁などが階段状に設けられ、本丸の周囲を廻っていました。
A盛岡城1期(16世紀終末)―南部氏における築城が開始された時期で、本丸や二ノ丸などには石垣が築かれましたが、腰曲輪は土手のままで、周囲に柵が廻っていました。
B盛岡城2期(17世紀前半)―腰曲輪の南側と東側、北東側に石垣が築かれます。
この時期の腰曲輪の南側は、現状の平坦面よりも2mほど低い窪地になっていました。
C盛岡城3〜5期(17世紀後半)―腰曲輪西側にも石垣が構築されたほか、南側の窪地はしだいに埋め立てられ、江戸時代末期(19世紀前半)には、現状のような平坦な地形になりました。

(説明板より)

宝蔵跡




宝蔵跡
(腰曲輪)





(平成21年11月7日)
二層櫓跡

二層櫓跡
(腰曲輪)

腰曲輪南東隅の石垣が一段高くなっているところには二層櫓が建っていました。
2009.3 盛岡市教育委員会

(説明板より)


(平成21年11月7日)
腰曲輪の建物

腰曲輪こしくるわとは、城の守りを堅くするために主要な曲輪の周囲に配された細長い曲輪のことで、盛岡城では本丸の東・南・西の三方を囲む一段低い区画となっています。
曲輪の東辺には二ヶ所の折邪おりひずみがあり、それぞれ櫓が構えられていました。
そのうち、北側の櫓は単層で、南側の櫓は二層となっており、お互いの櫓は武者走りにより連結されていました。
この二層の櫓については発掘調査の結果、櫓の規模が拡張されており、建替えがあったことがわかりました。
そのほか、東側北辺の一段低いところには石組の井戸が現存しています。
南西部には喰い違いの虎口こぐちと「吹上ふきあげ門」があったほか、吹上門の側には単層の櫓が建てられていました。
曲輪内部の南東側には「御宝蔵ごほうぞう」、本丸南辺の石垣下には「馬場ばば」があり、さらに東側には南部信直のぶなお・利直としなお父子を祀る「櫻山御宮さくらやまおみや」がありました。

※「折邪」:石垣や塀がクランク状に折り曲がっている部分

(説明板より)

 (説明板より)

二層櫓跡の調査写真



二層櫓跡の調査

(説明板より)





(平成21年11月7日)
腰曲輪から本丸へ
本丸跡




本丸跡






(平成21年11月7日)
南部利祥中尉像の台座




南部利祥中尉像の台座(本丸跡)





(平成21年11月7日)
南部利祥中尉像



南部利祥中尉像


銅像台座の展示写真




(平成21年11月7日)

南部家42代南部利祥としながは、日露戦争に従軍し、第1軍に属して各地に転戦したが、明治38年3月4日満州井口嶺の激戦において戦死した。
時に陸軍騎兵中尉、年24才であった。
この功によって功5級金鵄勲章を下賜された。
市民これを悼いたみ、かつその功績は明治維新の際朝敵の立場におかれた南部藩の汚名をそそいだものとして、5千数百名の賛同者集まり、帝室技芸員として著名な彫刻者新海竹太郎氏に委嘱し、利祥としなが中尉騎乗姿を鋳造し、明治41年9月この地に建設したものである。
しかるに昭和19年太平洋戦争の苛烈にともない軍需資材として供出され、今はその台座のみとなったものである。

昭和45年10月
盛岡市

(説明文より)

本丸
本丸から二の丸を見る 本丸から二の丸を見る
二の丸




二の丸






(平成21年11月7日)
二の丸




二の丸






(平成21年11月7日)
本丸の石垣
本丸南西部の石垣

本丸は城内の中心部にあたり、主に城主が日常生活や政務を行う場所として使われていました。
本丸南西部でおこなわれた発掘調査の結果、石垣は築城当初(16世紀末〜17世紀初頭)から構築されていましたが、元和年間(17世紀前半)以降の本丸を拡張するため、築城期の石垣を覆い隠すように構築されていることが確認されました。
さらに藩政時代の記録によると、この部分の石垣は自身によって傷んだため、元禄16年(1703)と宝永2年(1705)に石垣の修復を幕府に届け出ており、宝永3・4年(1706・1707)に工事が完成していることが記されています。
この部分の石垣は、鑿のみ加工により石材が整形されており、本丸の他の部分に比べ規格が揃っています。

(説明板より)
榊山稲荷曲輪跡




榊山稲荷曲輪跡






(平成21年11月7日)
榊山稲荷曲輪跡




榊山稲荷曲輪跡






(平成21年11月7日)

 榊山稲荷曲輪跡から見た景色

三の丸




三の丸






(平成21年11月7日)
烏帽子岩




烏帽子岩(三の丸)





(平成21年11月7日)

烏帽子岩(兜岩かぶといわ)のいわれ

盛岡城築城時、この地を掘り下げたときに、大きさ二丈ばかり突出した大石が出てきました。
この場所が、城内の祖神さまの神域にあったため、宝大石とされ、以後吉兆のシンボルとして広く信仰され災害や疫病があった時など、この岩の前で、平安祈願の神事が行われ、南部藩盛岡の「お守り岩」として、今日まで崇拝されています。

桜山神社社務所

(説明板より)

 三の丸から本丸を見る

桜山神社




桜山神社(三の丸)





(平成21年11月7日)

 説明板より


彦御蔵




彦御蔵(岩手公園)





(平成21年11月7日)

彦御蔵

彦御蔵ひこおくらは、盛岡城内に現存する唯一の建造物で棟札むなふだがなく建築年代は不明ですが、江戸後期に建てられた蔵と考えられています。
構造は、土蔵造どぞうづくりの木造2階建で外壁は漆喰塗しっくいぬり仕上げ、屋根は野地板のじいたの上に土塗りとし、その上に木造屋根組をもたせた二重構造で、その上に瓦を葺いています。
内部は、10間(18.5m)×5間(9.18m)の総2階となっており、中央にある八角形の棟持柱むなもちばしら3本で建物は支えています。
さらに、建物の中央部分に仕切りが設けられており入り口も2箇所あることから、それぞれ用途の異なる道具類を収めていたものと考えられています。
この蔵は、現在地から約100m西側の市道際にありましたが、道路拡幅計画範囲にあったため移設保存されることとなり、江戸時代に米内蔵よないぐらのあったとされる現在地に曳き家し、改修されたものです。

(説明板より)


時鐘



時鐘

(岩手県盛岡市内丸4・「鶴ヶ池」脇・下曲輪跡)





(平成21年11月7日)

盛岡市指定文化財

1.名称       時鐘じしょう
2.指定年月日  昭和42年6月24日
3.所在地     盛岡市内丸4
4.説明
藩政時代、城下に時を知らせるため、久昌寺前の十三日町(現在の南大通2丁目)と三戸町(現在の中央通1丁目)の2ヵ所に時鐘が設置されました。
この鐘は、日影門外ひかげもんそと時鐘と言われ、外堀(現盛岡中央郵便局裏)の土塁どるい上にあったもので、4代藩主南部重信なんぶしげのぶの時代にその子行信ゆきのぶの発願により聖寿禅寺しょうじゅぜんじの大道和尚が銘文を作り、小泉仁左衛門清則きよのり(釜屋五郎八かまやごろはち)によって延宝7年(1679)11月に鋳造されたものです。
明治維新後は岩手郡役所構内(現岩手県庁向い)に一時移転、その後この地に移り、昭和30年頃まで盛岡市民に時刻を知らせていました。
○鐘の規模
高さ      2.03メートル
直径      1.21メートル
輪口の厚さ  15センチメートル
重量      約3,600キログラム
5.所有者 盛岡市

平成18年9月
盛岡市教育委員会

(説明板より)

鶴ヶ池




鶴ヶ池(下曲輪跡)





(平成21年11月7日)

【盛岡城下の形成と発展】

初期の城下町
慶長3年(1598年)に開始された盛岡城築城は、同時に城下町を新しく造営することでもあった。
慶長4年(1599年)初代盛岡藩主南部信直のぶなおの遺志を継いだ2代藩主南部利直としなおは、新たな街づくりに着手し、現在の盛岡市街地の原形を造り上げた。
城下の形成は、まず自然の川を生かしながら、城を中心に堀と土塁を三重にめぐらすことから始まった。
街割りは城を中心に家臣屋敷、商工業地域、寺社地域に大きく分け、さらに城下から放射状にのびる街道沿いにも足軽屋敷などを配した。

江戸中期の城下町
大きな変化は、北上川の流路が付け替えられ、船渡しであった夕顔瀬橋が架けられ、新山舟橋ができたことである。
流路の変更に伴い大沢川原や川原町が生まれ、三戸町の西にも新しい町ができた。
夕顔瀬橋架橋により同心丁(新田町)ができ、北上川の西にも市街地が拡大、さらに八幡宮の遷座とともに八幡町の町並みもできた。
城下の拡大はほとんどが4代藩主南部重信の時の延宝年間あたりに集中している。
町人街は江戸時代中期頃に、いわゆる「盛岡二十三町」となった。
これらの市街地は幕末までほとんど変わらず、盛岡城下はこの時期までにほぼ完成したと見られる。

幕末の城下町
市街地の範囲は江戸中期とあまり変わっていないが、それでも諸士屋敷の上田新小路や加賀野新小路が新しくつくられている。

寺社の配置
寺社群は盛岡城下の北と東に形成された。
遠曲輪西辺の北延長(縄手)に南部家菩提寺の聖寿寺しょうじゅじ、北東の鬼門鎮護の位置に永福寺えいふくじを建立し、また遠曲輪北辺外に寺町をつくり諸寺を配置した。
さらに城下の南の玄関口に当たる南東にも寺町をつくり、寺院群も都市計画の一環に組み込んでいた。
その後、寺院数は次第に増加し、諸士街や町屋街にも寺院が建てられるようになった。
近世全期を通じて、城下および周辺の寺院数は80ヶ寺前後が知られている。
宗派は真言宗・曹洞宗・浄土宗が多いのが特徴である。

盛岡城下関係年表
平安 延暦22年 803年 志波城造営
康平 5年 1062年 前九年合戦で厨川柵陥落、安倍氏滅亡
鎌倉 文治元年 1185年 源頼朝、守護・地頭制を設置
文治 5年 1189年 奥州合戦で平泉藤原氏が源頼朝に滅ぼされる。
工藤行光に岩手郡地頭を任命
南北朝 元弘 3年 1333年 鎌倉幕府滅亡
建武元年 1334年 南部師行が糠部郡奉行となる。
室町 元中 9年 1392年 南北朝の合一
永享 7年 1435年 永享の乱(和賀・稗貫郡の騒乱)
翌年、斯波御所が南部長安らを率いて稗貫氏らを討つ
戦国 応仁元年 1467年 応仁の乱
天文10年 1540年 南部氏、雫石戸沢氏を攻略。
天文14年 1545年 斯波経詮、岩手郡南部に進攻。
のちに猪去・雫石に一族を配置。
織豊 天正16年 1588年 三戸南部信直、斯波氏を攻略し滅亡させる
天正18年 1590年 南部信直、八戸南部政栄に留守を託し小田原参陣。
豊臣秀吉の奥羽仕置により南部内7郡安堵。
天正19年 1591年 九戸政実の乱鎮圧後、浅野長政、南部信直に不来方への居城移転を勧める。
文禄元年 1592年 南部領内の諸城を破却、不来方城・三戸城など12城を残す。
慶長 2年 1597年 盛岡城築城鍬初一起工式を行う。
慶長 3年 1598年 盛岡城築城正式許可、本格的に着工。
江戸  慶長 5年 1600年 関ヶ原の戦い。南部利直、最上に出陣。
慶長 9年 1604年 奥州道中に一里塚設置。
慶長14年 1609年 中津川上の橋を架橋。
慶長16年 1611年 中津川中の橋を架橋。
慶長17年 1612年 中津川下の橋を架橋。
寛永10年 1633年 盛岡城築城完成し、南部重直、盛岡城を居城と定める。
寛永13年 1636年 盛岡城本丸落雷により炎上(寛永10年・11年の説あり)。
藩主の城外の御殿「新丸」建築着手。
正保 2年 1645年 石巻に江戸廻米用の米蔵を建てる。
明暦 2年 1656年 夕顔瀬橋を架橋。
寛文 2年 1662年 大洪水(白髭水)、中津川三橋流失。
寛文 4年 1664年 南部重直、嗣子を定めず死去。盛岡藩8万石(天和3年、10万石に復す)。
八戸藩2万石に分割。
寛文10年 1670年 大洪水(第二の白髭水)、中津川三橋・夕顔瀬橋流失。
寛文13年 1673年 本丸三重櫓・二階櫓、北上川新川開削・築堤工事が幕府より許可される。
延宝 2年 1674年 北上川新川開削改修工事完成。
延宝 3年 1675年 盛岡城の建物瀬戸瓦(赤瓦)職人採用。
翌年、三重櫓上棟(赤瓦は紫波町川原毛窯で焼成)
延宝 7年 1679年 新八幡宮創建。
延宝 8年 1680年 新山船橋完成。大沢川原(新土手)築堤。
享保 9年 1724年 大洪水、中津川三橋流失。
享保14年 1729年 享保の大火。大沢川原新土手より出火。河南地区被災、焼失1,933戸。
元文 5年 1740年 盛岡城下に屋根の瓦葺きを初めて許可。
安永 7年 1778年 安永の大火。夕顔瀬片原町より出火。河北・下小路被災、焼失2,505戸。
文化 3年 1806年 文化の大火。石町より出火。河北地区被災、焼失551戸。
文化 5年 1808年 盛岡藩、蝦夷地警衛の功績により20万石に加増される。
天保 5年 1834年 大洪水。夕顔瀬橋流失。
元治 2年 1865年 元治の大火。厨川三ッ家より出火。河北・加賀野被災、焼失845戸。
慶応 4年 1868年 明治維新。戊辰戦争、盛岡藩敗れる。
明治 明治 3年 1870年 盛岡藩を廃し、盛岡県を置く。(廃藩置県)

(参考:『平成11年度企画展 盛岡城下の街づくり』 2005年第2刷 盛岡市中央公民館 編集・発行)

(平成28年3月3日 追記)




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