源義朝 みなもとのよしとも

保安4年(1123年)〜平治2年1月4日(1160年2月5日)


源為義の長男。
母は藤原忠清の娘。
源義経の父親。
鎌倉を本拠に勢力を拡大し、所領相論を起こしながら在地の武士を組織化する。
上洛して仁平3年(1153年)、従五位下、下野守となり、翌年家督を相続。
保元元年(1156年)の保元の乱では、平清盛らとともに後白河天皇側の主力となる。
義朝の主張した夜襲により天皇側は勝利を収め、その功により従五位上・佐馬守に任じられ、昇殿を許されるが、崇徳上皇側に加わった父や兄弟の助命嘆願は許されず、斬首した。
後白河天皇の近臣・藤原道憲や平清盛と対立し、平治元年(1159年)、藤原信頼と組んで平治の乱を起こしたが失敗。
尾張国知多郡野間(現・愛知県美浜町)で長田忠致おさだただむねに殺された。


【関東へ】

父・為義の低調もあって、京都での生活が行き詰ったが、西国は平氏が押さえていて一旗を揚げる余地はない。
そこで、曽祖父・源義家の名声に期待して、縁ある関東に向かったのではないかと思われる。
東国で在地豪族を組織して勢力を伸ばし、やがて上総御曹司かずさおんぞうしと称される。
19歳で相模の三浦氏の娘(一説には橋本宿の遊女ともいわれている)との間に長男・義平よしひらをもうける。
21歳で相模の波多野はたの氏の娘との間に二男・朝長ともながをもうける。
天養てんよう元年(1144年)、大庭御厨おおばみくりや(伊勢神宮領)に相模の武士を率いて乱入、「俺の家来になれば許す」と脅した。

義朝は武蔵の武士団と対立関係にあったことが窺える。
当時、武蔵最大の武士団である秩父ちちぶ氏は、義朝の弟・義賢よしかたを婿にしていた。
後に義朝は長男・義平に命じて彼らを討たせている。
この時に落ち延びた義賢の子が木曽義仲である。

【京都で活躍】

義朝がいつ京都に帰ってきたかは不明。
久安きゅうあん3年(1147年)に三男の頼朝が生まれているので、この頃には京都に戻っていたと思われる。
頼朝の母は、熱田大宮司職と従四位の位階を有する中流貴族・藤原季範ふじわらのすけのりの娘。
義朝はその後、東国の強固な基盤を背景に、鳥羽上皇や藤原忠通ただみちに仕え、仁平にんぴょう3年(1153年)、従五位下・下野守しもつけのかみという国司に任じられた。

【保元の乱】

保元元年(1156)に起きた保元の乱において、義朝は後白河天皇方に、父・為義や弟たちは崇徳すとく上皇方につき、対立した。
義朝は後白河天皇を後継者に選んだ鳥羽上皇と信頼関係を築いており、情勢からみて後白河方に属するのが順当。
対する崇徳上皇には院政を行う資格がなく、また、崇徳方の有力者・藤原頼長よりながは貴族からの反発が多く、政治的に追い詰められていた。
父・為義は、劣勢の崇徳方に与くみし、一発逆転の賭けに出たのではないかと思われる。

『保元物語』によると、義朝は夜襲による先制攻撃を進言。
崇徳方が抵抗を見せると、敵の屋敷に火を放ち、これにより崇徳方を敗勢に陥れたという。
『保元物語』の記述には信用できない部分もあるが、義朝が夜襲と放火を進言したというのは、いかにもありそうな話である。
乱後、義朝は自分の功績に代えて、崇徳方についた一族の助命を嘆願するが許されず、父と弟達を処刑しなければならなくなった。

【平治の乱】

平治の乱(1159年)は、義朝が保元の乱の論功行賞で平清盛を妬んで起こしたとされることがあるが、この説は学会で否定されている。
保元の乱後、藤原信頼のぶよりら後白河上皇の近臣と二条天皇の側近が、権勢を誇る藤原信西しんぜいの排除を目的にクーデターを起こしたのが平治の乱である。
平治の乱はクーデターであったため、義朝は勢力基盤である関東から隠密裏に少数の軍勢を呼び寄せただけ。
藤原信西の排除には成功したが、熊野詣くまのもうでに向かっていた平清盛が畿内の兵力を揃えて帰京すると、状況が一転。
敗因は兵力差。
その後、六条河原で敗退した義朝は、関東を目指して落ち延びる途中、尾張知多半島で家臣の裏切りにあって討たれてしまった。

長男・義平は後に捕らえられて処刑。
二男・朝長は義朝と落ち延びる途中で死亡。
三男・頼朝と九男・義経らは清盛から助命された。

(参考:『歴史街道 2012年5月号』)

(平成24年10月5日追記)


血池


血池
(愛知県知多郡美浜町・野間大坊)

長田忠致親子により討たれた義朝公の御首を洗った池。
国家に一大事があると池の水が赤くなると言い伝えられている。



(平成18年4月3日)
源義朝公御廟



源義朝公御廟

(愛知県知多郡美浜町・野間大坊)





(平成18年4月3日)

源義朝公御廟由来

源氏の総帥佐馬頭源義朝公は京都六波羅合戦に平家に破れ東国に向われる途中此の地の東方野間田上の御湯殿で家臣長田忠致ただむねのために御入浴中謀殺なされしその時我れに木太刀の一本なりともあればと悲痛な一言を残されて最期を遂げられましたのでその慰霊のために木太刀を献ずるならわしが出来て山のように積まれています。
木太刀ご奉納の方はすべての願いが叶うといわれています。

(説明板より)

大御堂寺本堂



大御堂寺本堂

(愛知県知多郡美浜町・野間大坊)

現在の建物は3度の火災等にあり宝暦4年(1754)に鎌倉様式にのっとり再建された。



(平成18年4月3日)

寺院沿革

正式には鶴林山大御堂寺おおみどうじ(通称:野間大坊のまだいぼう)といいます。
その歴史は古く天武天皇(673〜86)の時代に始まり聖武天皇(723〜49)の時、行基菩薩が中興します。
後に弘法大師が諸国行脚の際留錫し、一千座の護摩を焚き、庶民の幸福を祈りました。
承暦年間(1077〜81)に白河天皇の勅願寺として、大御堂寺と称せられました。
後に源頼朝公が亡父義朝公の菩提を弔うために建久元年(1190)に開運延命地蔵尊と不動明王・毘沙門天を奉安され、七堂伽藍を造営します。
そして秀吉公、家康公の庇護を受けて発展。
現在尾張地方随一の祈祷寺として信仰を集めています。

(リーフレットより)


保元の乱



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