弘法大師像 平成18年10月19日

空海 くうかい (弘法大師こうぼうだいし

宝亀5年6月15日(774年7月27日)〜承和2年3月21日(835年4月22日)

埼玉県深谷市・雷電寺でお会いしました。


弘法大師ともいう。
平安前期の真言宗開祖。
讃岐国多度郡屏風浦びょうぶがうらの佐伯直田公さえきのあたいたきみの子。
上京して大学などで経史・文章を学んだが、まもなく仏教に開眼。
阿波国大滝山・土佐国室戸岬などで修業するうち「大日経」に出会って密教を奉ずるに至る。
得度受戒後、延暦23年(804年)遣唐使に従い入唐し、翌年帰国。
以後、おもに高雄山寺に住し、最澄とも交流したがのちに決別。
弘仁7年(816年)高野山開創に着手。
東大寺南院に灌頂かんじょう道場を設立。
東寺を賜り真言密教専修の寺とした。
この頃から多くの公的修法を行う。
天長元年(824年)少僧都そうずになり、3年後大僧都になる。
天長9年(832年)頃からは高野山に隠棲しつつ、後七日御修法ごしちにちのみしほ・真言宗年分度者を創設させ、真言宗の基盤をほぼ完成させた。
漢詩文にも優れ、書道では三筆の一人とされた。


弘法大師修業像



弘法大師修行像
(埼玉県深谷市戸森150−1・雷電寺)





(平成18年10月19日)

【空海】

日本の真言宗の開祖となる空海は、讃岐国に生まれ、延暦23年(804年)に遣唐使の一員として渡唐するが、その直前に東大寺戒檀院にて出家した。
延暦24年(805年)5月、唐・長安の青龍寺の密教第七祖の恵果に入門し、密教の奥義を修め、大同元年(806年)8月に帰国した。
大同5年、平城太上天皇の変(薬子の乱)では、嵯峨天皇方として調伏祈祷を催す。
天皇のさらなる信頼を得て、弘仁7年(816年)には高野山を、弘仁14年(823年)には京都に東寺を賜り、それぞれを真言密教の拠点としている。
こうして、真言宗は朝廷の権威のもとに、全国的に広まる基盤が出来た。

(参考:『特別展 常陸南北朝史〜そして、動乱の中世へ〜』 茨城県立歴史館 平成26年2月発行)

(令和2年9月30日 追記)


大楠



大楠

(名古屋市・熱田神宮)





(平成19年4月2日)

大楠

境内には楠の木が多く、特に大きな楠7本を七本楠と呼び古くから有名である。
この楠は弘法大師お手植えとも言われ樹齢は千年以上と伝えられている。

(説明板より)

熱田神宮



熱田神宮

(愛知県名古屋市熱田区神宮1−1−1)





(平成19年4月2日)

熱田神宮

【祭神】 熱田大神あつたのおおかみ
相殿 天照大神あまてらすおおかみ、素盞鳴尊すさのおのみこと、日本武尊やまとたけるのみこと、宮簀媛命みやすひめのみこと、建稲種命たけいなだねのみこと

【由緒】
熱田神宮の創始は、三種の神器の一つ草薙神剣くさなぎのみつるぎの御鎮座により始まります。
第12代景行天皇の御代、日本武尊は御東征の後神剣を尊のお妃である宮簀媛命のお手許(緑区大高町氷上)に留め置かれたまま亀山市能褒野でなくなられました。
後に宮簀媛命は、社地を熱田にお定めになり、神剣を奉斎されました。
以来伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ、国家鎮護の神宮として特別のお取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」とも呼ばれ親しまれてきました。

(パンフレットより)

弘法大師像 平成20年4月14日

京都府長岡京市・勝龍寺でお会いしました。

修行大師像


修行大師像

(京都府長岡京市・勝龍寺)

弘法大師空海が全国行脚した時のお姿
(説明板より)



(平成20年4月14日)
勝龍寺



真言宗 恵解山 勝龍寺
(京都府長岡京市勝竜寺19−25)





(平成20年4月14日)

勝龍寺しょうりゅうじ

真言三宝宗の末寺。
洛西観音霊場第14番札所。
本尊は十一面観音で、鎌倉時代作の重要文化財である。
また、同時代作の十一面観音像、聖しょう観音像、持國天じこくてん像、多聞天たもんてん像は市指定文化財となっている。
寺伝によれば、大同元年(806)に帰朝した空海が唐長安で学んだ青龍寺の名をとって開基。
応和2年(962)大干ばつ、大飢饉の際、千観和上せんかんわじょうの雨ごいの効験によって勝龍寺と改名したと言う。
また、元応元年(1319)に鋳造された鐘が大阪府能勢町の真如寺に残り、大阪府のの指定文化財となっている。
同寺は、この鐘が鋳造された17年後の延元元年(1336)6月と、山崎の合戦の天正10年(1582)の2度の兵火によって焼け落ちたと言う。
なお、現在ある鐘は3度目に鋳造されたものである。

長岡京市観光協会
(社)京都府観光連盟

(説明板より)


穴倉



穴倉

(愛知県田原市・龍泉寺)





(平成20年4月5日)

穴倉の由来
愛知県史跡指定(前方後円墳と言う)

昔は渥美の地形は今とは異なっており現在の低地は海であった。
磯石の大石で岩窟洞を作りその中に首長の遺体を葬ったと言われている。
この中には大日如来が祀ってある。
弘法大師37才の時江ノ島から西国への帰途この岩窟洞の中で護摩の修行をしてこの土地の人々と結縁、弁財天を信仰せられました。
これがこのお寺の始まりとなりました。

(説明板より)

弁天堂



弁天堂
(愛知県田原市・龍泉寺)





(平成20年4月5日)

辨財尊天ご縁起

そもそも、この弁天堂御戸張内に安置し奉る霊像は、弘法大師直作、仏法守護、貧転為福、技芸上達の弁財天である。
その由来を尋ねると 平安時代、弘仁元年寅年、弘法大師37歳奥州下向の途中 鎌倉江ノ島にご逗留 仏法弘道のため、諸人結縁、その後3年 西国への帰途 当田原で 衆生結縁のため 当山内業窟中で、千日の護摩大行に修し、満行の暁、その灰土でこの弁財尊天と十六童子を練り固め製作された霊像である。
その後、突然和尚という大徳、この霊像に福徳壽命を祈り 忽ち、霊験感應があったと言われている。
又、應永3年中に 幸徳という沙門ここに来て小庵を造立幸徳寺と号し、仏法弘道の道場とした。
60余年後、應仁元年夏■誉上人(浄土宗)下総千葉家より出で、東都三縁山増上寺聡誉上人の法燈を継ぎ 当山中興の開基となって念佛の法燈を掲げた。
その後、永禄7年(1564)家康公 この洞中に身を隠し、この霊像の守護により危難を遁れ、武運長久、萬民安楽の為祈念料70石を寄進、英城鎮護のためなればと、この時 寺号を弁天山城寶寺と下附された。
旧代々の田原城主の信仰篤く 現在の堂宇は 三宅城主の寄進建立で、巳年毎に開扉法要は城主と一般領民の奉納で勤修されて来た。
合掌

平成6年1月

(説明板より)

弘法大師像 平成20年4月12日

福井県敦賀市・金前寺でお会いしました。

弘法大師像


弘法大師像
(福井県敦賀市・金前寺)


弘法大師御入定1150年御遺忌記念



(平成20年4月12日)
弘法大師御舊跡碑



弘法大師御舊跡碑
(福井県敦賀市・金前寺)





(平成20年4月12日)
金前寺



金前寺
(福井県敦賀市金ヶ崎町1−4)





(平成20年4月12日)

高野山真言宗 金前寺こんぜんじ々歴

天平8年(736)45代聖武天皇の勅により泰澄大師が十一面観世音菩薩の座像を刻み、本尊として開創(現在金ヶ崎宮の地)
弘仁2年(811)弘法大師(空海)ご留錫あり、その頃は十二坊を有し壮麗であった。
南北朝の延元元年〜2年(1337)にわたる一大血戦の本営となり、足利尊氏の軍に敗れた新田義貞は敗走し、後醍醐天皇の第二皇子尊良親王及び新田義顕は当山観音堂にて自害される。(落城3月6日)
元亀元年(1570)織田信長の天筒山攻めの兵火により堂宇全焼。
寛文2年(1662)現在地に観音堂を再建。
元禄2年(1689)俳聖芭蕉来遊し延元の戦いと沈鐘の物語を聞き
   月いづこ鐘は沈るうみのそこ  はせを  と詠む。
宝暦11年(1761)芭蕉滅後68年目に鐘塚建立。(境内に在り)
昭和20年7月12日(1945)米空軍の爆撃により堂宇寺宝の一切灰塵と化せり。
昭和32年10月 高浜虚子、星野立子ら鐘塚を訪れ
   句碑を訪うおりから月もなかりけり  虚子  と詠む。
昭和63年10月(1988)檀信徒の浄財により、本堂再建す。

本尊 十一面観世音菩薩
脇仏 不動明王  毘沙門天

平成元年3月
掲額

(説明板より)

弘法大師像 平成20年10月5日

福島県双葉郡浪江町・大聖寺でお会いしました。

南無大師遍照金剛



南無大師遍照金剛
(福島県双葉郡浪江町・大聖寺)





(平成20年10月5日)
大聖寺



大聖寺
(福島県双葉郡浪江町大字北幾世橋字北原6)





(平成20年10月5日)

別格二十霊場八番・十夜ヶ橋とよがはしの伝説

弘法大師が四国を巡った時、愛媛県の大洲地方を訪れました。
大師は一夜の宿を頼みますが、汚い恰好の大師に村人は誰も親切な対応をしません。
大師は人々の不親切さを悲しみ、持っていた杖でトンと地面を突くと、今までたわわに稲が実っていた田圃がたちまちのうちに荒地に変わってしまいました。
不思議なことに川を挟んだ向こうは豊かな田圃のままでした。
大師は、空腹のまま小川に架かる土橋の下で夜を明かしました。
その夜はひどく冷え込み、わずか一夜のことでしたが、夜明けまで十夜の長さを感じた大師は「行きなやむ浮世の人の渡さずば一夜も十夜の橋と思ふ」という歌を作ったといいます。

別の伝説では、大師が杖を突くと水があふれ出して大洪水になり、以来、十夜ヶ橋の近くは水害に悩まされるようになったと言われます。

参考:土井中 照著『大洲歴史探訪』

(平成21年5月14日追記)


 (関連商品のご紹介)

空海  弘法大師



 トップページに戻る   銅像のリストに戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送