島津忠久 しまず・ただひさ

治承3年12月30日(1180年1月28日)〜安貞元年6月18日(1227年8月1日)


島津氏の祖。
源頼朝の子で惟宗これむね広言の養子との説があるが、近衛家の家司けいし惟宗氏の出身とする説が有力。
秦氏の流れを汲む惟宗忠言の子とされる。
母は比企能員の妹・丹後局。妻は畠山重忠の娘。
頼朝に仕え、文治2年(1186年)薩摩国島津荘地頭となる。
建久8年(1197年)薩摩・大隅両国の守護となり、日向国守護も兼ねる。
建仁3年(1203年)比企氏の乱に連座し所職を失うが、のちに薩摩国については回復。
承久3年(1221年)には越前国守護に任じられた。


島津忠久の墓



島津忠久の墓
(神奈川県鎌倉市西御門2−5・山の斜面)





(平成18年9月24日)
やぐらへ向かう石段



”やぐら”へ向かう石段

(神奈川県鎌倉市西御門2−5・山の斜面)

”やぐら”とは山や丘の岩肌に掘られた横穴式の墳墓のことです。

ここには大江広元の墓、毛利(大江)季光の墓が並んで建っています。





(平成18年9月24日)

【源頼朝の御落胤?】

島津家初代で紛れもなく歴史上実在した惟宗忠久について、母が源頼朝の乳母、比企尼の娘・丹後内侍であったことは多くの人が認めるのだが、父親は源頼朝ではなく惟宗広言ひろこと(あるいは忠康ただやす)であるとするのが「中央の歴史」である。
そうではなく、惟宗氏との婚姻以前に頼朝との間に忠久(通称:三郎)が生まれており、惟宗家では養われたに過ぎないとするのが「島津家の歴史」である。
中央がなんと言おうと「島津家の歴史」では、「島津家初代忠久公は鎌倉幕府の創始者で初代将軍源頼朝の御落胤であって、わが島津家は武士の家柄の中では名門中の名門である」が歴史的事実であったということだ。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月11日 追記)


【島津を名乗る】

なぜ忠久が惟宗から島津と名乗るようになったか。
ちなみに惟宗は姓(本姓)で、島津はあくまで苗字みょうじ(通称)である。

島津の苗字の由来となった日向、大隅、薩摩の3ヵ国にわたる日本最大級の荘園(個人所有の田畑)島津荘は、もともと近衛関白家の持ち物であった。
荘園とは、日本の土地(田畑)はすべて公有、つまり天皇家の領地であるとする朝廷の律令制度を、有名無実化するために藤原氏が考えたシステムだった。
天皇家の所有であったものが、この荘園というシステムによって藤原氏によって私物化されてしまった。
その藤原氏のトップに立つのが近衛関白家である。

一方で、武士がいくら汗水たらして新規に農地を開墾しようとも、その私有すら認められなかった。
この極めて大きな不公平を解消し、武士も正式な土地の所有者(地頭)になれる国にしようという「マニフェスト」を掲げたのが源頼朝であった。
鎌倉時代から次の室町時代にかけては、武士が貴族の特権を奪おうと暗躍した時代であったとも言える。
簡単にいえば武士たちは武力に物言わせて貴族たちの荘園を横領していったのである。
その鎌倉時代の初期に、本来は近衛関白領であった島津荘を預かる形になった忠久も、そうした野望を当然抱いていたということになるわけで、忠久が姓の惟宗から苗字として島津を名乗るようになったのにはこんな事情があった。

(参考:井沢元彦 著 『英傑の日本史 西郷隆盛・維新編』 平成29年8月 初版発行 角川文庫)

(令和元年9月11日 追記)


島津家



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