久安4年(1148年)〜嘉永元年6月10日(1225年7月16日)
大江匡房の孫・維光の子といわれるが、一説には藤原光能の子ともいう。
中原広季の養子となり中原姓を名乗るが、のち大江姓を称する。
少外記として局務にたずさわり、その後安芸権介となる。
源頼朝に招かれ下向。
幕府の中枢にあって頼朝の側近として重用された。
頼朝の右筆ゆうひつを勤め、公文所・政所の初代別当となって実務をとり、朝廷・幕府間の交渉に当たる。
京下り官人としての彼の見識は、草創期の幕府の基礎固めに大きな役割を果たし、頼朝の死後も北条氏の信任を得て幕政に重きをなした。
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大江広元の墓 (神奈川県鎌倉市西御門2−5・山の斜面) (平成18年9月24日) |
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やぐら 大江広元の墓(右) 毛利季光(大江季光)の墓(右) ”やぐら”とは山や丘の岩肌に掘られた横穴式の墳墓のことです。 (平成18年9月24日) |
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墓所入口 (神奈川県鎌倉市西御門2−5) (平成18年9月24日) |
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