藤堂高虎公像 平成19年11月10日

藤堂高虎 とうどう・たかとら

弘治2年(1556年)〜寛永7年10月5日(1630年11月9日)

愛媛県今治市・今治城でお会いしました。


はじめは浅井長政に属し、のちに豊臣秀長・秀吉に仕えました。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、その戦功により伊予今治20万石に封じられました。
1606年、津に転封し、伊賀・伊勢両国を領有。
大阪夏の陣で、真田幸村のため危機に陥った徳川家康を救った功績で、1617年(元和3年)には32万3950石を領しました。


藤堂高虎公像



藤堂高虎公像

(愛媛県今治市・今治城





(平成19年11月10日)

碑文

藤堂高虎公は 弘治2年(1556)近江の国に生まれた
羽柴秀長 豊臣秀吉などに仕えて宇和島・大洲8万石の大名となり 慶長5年(1600)には関ヶ原の戦功によって 徳川家康から今治12万石を加増され 伊予半国20万3千石の領主となった
今治城は 高虎公により慶長9年(1604)に竣工を見た 三重の堀に海水を引き入れ 舟入りを持つ日本有数の海城である
五層の天守は層塔式で白漆喰が映え 近世城郭のモデルとされた
築城に合わせて城下に町割りを行い 地名を今張から今治に改め 現代の今治市の原型がつくられた
築城の名人と称された高虎公は 多くの天下普請の城を築き 慶長13年(1608)伊勢・伊賀に転封された
そして大坂の陣のあと 朝廷と幕府間の斡旋役を務めるなど徳川幕藩体制の基礎固めに大きく貢献し 寛永7年(1630)75年の波乱の生涯を閉じた
築城4百年に当たり この像を建て 高虎公の業績を子々孫々まで伝えるものである
像の制作は 文化功労者・日本芸術院会員の中村晋也先生 題字は 文化勲章受章者 村上三島先生の揮毫による

平成16年9月吉日
今治城築城・開町400年祭実行委員会
今治市

藤堂高虎銅像 平成16年2月7日

三重県津市 津城の本丸跡でお会いしました。

藤堂高虎銅像



藤堂高虎公銅像
(三重県津市 津城




(平成16年2月7日)

藤堂高虎公

弘治2(1556)年、近江国犬上郡藤堂村(のち在士村、現滋賀県甲良町)に生まれた。
15歳の時、浅井氏に仕え、姉川合戦で初陣を飾って以来各地を転戦し、天正4(1576)年21才で長浜城主木下秀長(豊臣秀長)に3百石で召し抱えられ、天正13(1585)年には紀州粉川(和歌山県粉河町)ではじめて1万石の大名となった。
その後豊臣秀吉の下で伊予宇和島(愛媛県宇和島市)7万石となり、2度の朝鮮出兵にも参加した。
秀吉の死後は徳川家康と親しくし、関ヶ原の戦いの時には家康に味方して勝利をおさめ、伊予今治(愛媛県今治市)20万石の大名となった。
そして慶長13(1608)年いまだ大きな勢力を誇る豊臣家を包囲する重要な地の伊勢・伊賀に22万4千石で移され、大坂の役の後に加増され32万3千余石の大大名となった。
また高虎は、築城の第一人者としても名高く自身の居城として築城した板島城(宇和島城)・今治城津城伊賀上野城の修築、城下町形成はもちろんのこと、幕府の命で修築を行った聚楽第・膳所城伏見城江戸城・篠山城・丹波亀山城・大坂城二条城と数多く手がけている。
このように高虎の生涯は、戦乱に明け暮れ、また各地を奔走し席の暖まる暇もないものであったが、武将らしさとともに領民への気配りや人の和を大切にした人物であったと伝えられている。

この像は、社団法人津青年会議所創立35周年事業として発案され、藤堂高虎公銅像建立市民会議を組織し、多くの市民の方々の浄財によって津市制施行100周年の年に建立されました。

平成10年10月吉日
津中央ライオンズクラブ 寄贈

(説明板より)

藤堂高虎銅像 平成16年2月7日

三重県津市 国道23号線丸之内商店街(歴史散歩道)でお会いしました。

藤堂高虎像 藤堂高虎像

津藩初代藩主
藤堂高虎公

甲良こうら(滋賀県)に生まれた高虎は、戦いのない時代を創るべく東奔西走し、慶長13(1608)年に伊賀・伊勢安濃津いせあのづ32万3千石の大大名となりました。
高虎は、津に入ると荒廃した町の再興に努めました。
城を改築し、政治の要としての丸之内や武家屋敷・町屋・商屋・寺町等を配し、町の発展を図るなど津のまちづくりを行い、現在の津の町の礎をつくりました。
また全国各地のまちづくりにも手がけ、まちづくりの名手として有名になりました。
商売繁盛・開運の祖として、今も市民に敬愛されています。

(説明銘板より)


藤堂高虎の兜 平成16年2月8日

三重県上野市 伊賀上野城天守閣内に展示されている藤堂高虎の兜

三重県指定文化財
黒漆塗唐冠形兜くろうるしぬりとうかんなりかぶと 面頬付

三重 上野市蔵
伊賀上野城保管

伝・豊臣秀吉より藤堂高虎拝領。
後、高虎より一族の藤堂良重が拝領し、大坂夏の陣に着用して参戦、慶長20年(1615)5月6日の若江の戦で豊臣方の木村重成軍と戦い討死した。
高虎は、これを「手柄の討死」と賛え、良重の弟、久蔵良次に五千石の知行を継がせた。
以後、同家は代々伊賀上野城下にあって藤堂家の重臣として明治維新に至り、遺品の兜は、同家の重宝として大切に保存されてきたが、近年、同家から上野市へ寄贈され、伊賀上野城に収蔵されている。
なお、兜の付属品として「今度於大坂若井(江)表、藤堂玄蕃(良重)手柄之討死仕候ニ付、跡式無相違宛行訖、本知五千石全可令領知者也、元和元年八月廿二日和泉(藤堂高虎)御判、藤堂九蔵(良次)殿」という「大坂御陣討死之御感状」写が伝存している。

(説明板より)


【藤堂高虎】

藤堂高虎は、初陣としてのぞんだ姉川の戦いで主家の浅井家が敗れたために浪人して以来、一生に七度も主君を替えるという数奇な生涯を送った。
武将としてもあまり傑出しているとはいえず、文禄・慶長の役の時などは、水軍の大将に任じられながら、朝鮮の水師提督・李舜臣に翻弄され、連戦連敗という有様だった。

しかし、築城家としての腕は確かで、当代の第一人者と謳われた。
武将としての名を失墜させた文禄・慶長の役の時も、朝鮮や明の城を実見して、その技術を学ぶことは忘れず、彼の築城術はその後一段と向上したといわれる。

高虎は、はじめ豊臣氏と親しく、郡山こおりやま藩の豊臣秀保(豊臣秀長の嗣子)が没した時は、高虎の実子に跡を継がせたらいいという声が出たほど信頼も厚かった。
しかし、高虎は秀吉の死後、ただちに豊臣家を見限り、徳川家に鞍替えする。
『寛政重修諸家譜かんせいちょうしゅうしょかふ』によれば、家康を除こうとする石田三成らの策謀を最初に家康に告げたのは高虎だったという。
それからというもの家康はすっかり高虎を重用し、合戦の場合は高虎を一番手にせよ、とわざわざ遺言するほどだった。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月10日 追記)


【築城名人:藤堂高虎】

藤堂高虎の縄張の特徴は、朝鮮や明みんの城から学んだ正方形の本丸を主体とし、輪郭式に二の丸、三の丸を設け、出入口の曲輪くるわや濠に独特の工夫を凝らす点にあるといわれ、その成果が最初に実現されたのは、豊臣秀吉の隠居城として構想された伏見城であった。

これに先立ち、高虎は自分の居城として宇和島城を築いたが、その縄張がすこぶる複雑だったため、後年、潜入した幕府の隠密おんみつがどうしてもその構成を見抜くことができず、歯ぎしりして悔しがったというエピソードが伝わっている。

高虎は、生涯に少なくとも12の城を築き上げた。
このうち、5つは自分の居城用であるが、残りは幕府が諸大名に命じた手伝い普請を宰領したものである。
江戸城を将軍の城にふさわしく大拡張したときも、その縄張を委ねられたのは高虎であり、工事完成まで長年月、高虎は終始奉行として指導、監督に奔命した。
だが、その間の慶長11年、高虎は徳川家康に対し、縄張は方位その他に練達した軍法者に命じてほしい、と申し出ている。

(参考:百瀬明治 著 『日本名城秘話』 徳間文庫 1995年1月初刷)

(令和2年7月6日 追記)


閑々亭 閑々亭
(東京都台東区 上野動物園内)

閑々亭

寛永3年(1626)伊勢国安濃津藩主(三重県津市)和泉守高虎は上野の私邸内に東照宮を建て前後して そのとなりに寒松院という寺を建て 客をもてなすため立派な家をつくりました。
翌4年東照宮の移しかえの祭りのおり徳川秀忠・家光があいついで東照宮を参拝し その帰りに寒松院にたちよって いろいろもてなしをうけました。
閑々亭の名はそのとき将軍家光が「武士も風流をたしなむほど世の中が閑ひまになったので閑々亭と名づけるがよかろう」といったことによるといわれています。
寒松院は明治元年(1868)彰義隊の戦いで焼けましたが明治11年(1878)5月寒松院の庭になっていたこの場所に閑々亭だけが復旧され その後度々補修されて今日に至っています。
明治35年6月 明治41年6月 2回にわたって皇后陛下がおこしになり昭和4年11月昭和天皇陛下がおみえのおりは照宮内親王殿下がお休みになったのもこの建物です。

(説明板より)


上野東照宮



上野東照宮
(東京都台東区上野公園9−88)





(平成19年4月28日)

上野東照宮とうしょうぐう (国指定重要文化財)

台東区上野公園9番

藤堂高虎は上野山内の屋敷の中に、徳川家康を追慕し、家康を祭神とする宮祠を造った。
これが上野東照宮の創建といわれている。
あるいは、寛永4年(1627)、宮祠を造営したのが創建ともいう。
正保3年(1646)、朝廷は家康に「東照宮」の宮号を贈り、それ以後、家康を祭る御宮を東照宮と呼ぶようになったのである。
現在の社殿は、慶安4年(1651)、三代将軍家光が大規模に造り変えたもの。
その後数回、修理を加え、現在に至る。
社殿の構造は、手前から拝殿はいでん・幣殿へいでん(石いしの間ともいう)・本殿からなり、その様式を権現造ごんげんづくりという。
華麗荘厳を極め、金色堂とも呼ぶ。
本殿・拝殿・幣殿は、唐門からもん・透塀すかしべいとともに構造・様式がすぐれ、貴重であるので、国の重要文化財に指定されている。
参道入口の石造明神みょうじん鳥居、唐門前に並ぶ銅燈籠50基も国指定の重要文化財である。

平成8年7月
台東区教育委員会

(説明板より)

銅燈籠



銅燈籠
(上野東照宮)





(平成19年4月28日)

銅燈籠どうとうろう

台東区上野公園9番

東照宮社殿唐門からもん前と参道に、50基の銅燈籠が並んでいる。
燈籠は神事しんじ・法会ほうえを執行するときの浄火を目的とするもの。
照明用具ではない。
浄火は神事・仏事に使う清めた火。
燈籠は上部から、宝珠ほうじゅ・笠・火袋ひぶくろ・中台ちゅうだい・竿さお・基壇で構成されている。
火袋は、八角・六角・四角などの形式に分かれ、各面には火口・円窓という窓を設けている。
火袋下部の長い部分を竿といい、ここに銘文を刻むことが多い。
これら銅燈籠は、諸国の大名が東照大権現とうしょうだいごんげん霊前に奉納したもの。
竿の部分には、寄進した大名の姓名と官職名・奉納年月日等が刻字されている。
それによると、伊勢国(現三重県)津藩主藤堂高虎奉献の寛永5年(1628)銘1基をはじめ、慶安4年(1651)正月17日奉献2基、同年4月17日奉献45基、同5年孟夏もうか17日奉献2基となっている。
慶安4年4月17日は東照宮社殿落慶の日。
その日の奉献数が最も多い。
これら銅燈籠は、東照宮社殿とともに一括して、国の重要文化財に指定されている。

平成8年7月
台東区教育委員会

(説明板より)

唐門



唐門
(上野東照宮)





(平成19年4月28日)

唐門(唐破風造り四脚門)

日本には一つしかない金箔の唐門である。
扉には梅に亀甲の透彫、門柱には左甚五郎作昇竜(右)降竜の高彫、門の側面左右上部の松竹梅に錦鶏鳥の透彫など非常に精巧を極めたものである。
明治40年に国宝に指定された。

(説明板より)

本殿・金色堂



本殿・金色堂
(上野東照宮)





(平成19年4月28日)



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