阿波丸事件殉難者之碑


阿波丸事件殉難者之碑 平成18年2月22日

碑文

阿波丸は第二次世界大戦も終りに近い昭和20年4月1日夜半台湾海峡で米國潜水艦クイン・フィッシュ号に不法撃沈された。
同船は連合國側の要請に應じ日本軍占領の南方諸地域に抑留されている捕虜および民間人に對する救恤品の輸送に當っていた。
國際法でその安全が保障されていたにもかゝわらず、この悪魔のような所業により遭難者の数は2千有餘名、世界史上最大の海難事故となった。
加害者に對する責任の追求や賠償交渉も進まないうち、同年8月わが國は無條件降伏し、軍政下の日本政府はなぜか事件の眞相を究明せず、米國に對する賠償請求権を國會の決議として放棄した。
いまや平和の時代となり、經濟は復興したが戰争の悲惨と虚しさは私たちの胸を去らず、歸らぬ人のことを思ひ續け悲しみを抱いて三十餘年、事件の謎は今なほ解けず、船體の引揚げ遺骨の拾集も實行に移されないまゝである。
三十三回忌に當り、悲憂を文に記し世に訴へるとともに、法要の心とするものである。

昭和52年4月1日
阿波丸事件犠牲者 遺族一同

阿波丸事件殉難者之碑



「阿波丸事件殉難者之碑」裏面
(東京都港区芝公園4丁目・増上寺)





(平成18年2月22日)

副碑・碑文

この慰霊碑は犠牲者の遺族をはじめ、故人がもと所属していた団体及先輩友人、知己並びに親戚等の、多大の協力を仰ぎ、完成したものである。

副碑・碑文

犠牲者等の遺骨は中国の手により引揚げられ、日本政府派遣の遺骨受領訪中団に引渡された。
阿波丸遺族会代表はこれに参加し、かつ分骨をうけ、納骨供養を営んだ。
遺骨の拾集は遺族の35年の永きに渉る悲願であり、これが実現に盡力された中國の関係者に対し、衷心より感謝をおくる。

昭和54年7月5日 納骨
昭和55年4月1日 納骨
昭和56年5月29日 納骨

阿波丸遺族会


【阿波丸事件】

日本赤十字社とアメリカ赤十字社とはかねてより、双方に抑留されている民間人や外交官及び捕虜(日本側は原則として日本軍人の捕虜の存在は認めていなかった)に対し、救援・慰問物資の相互発送をジュネーブの国際赤十字を通じて検討しており、ようやく昭和19年(1944年)10月末日をもって、救援・慰問物資の発送が実施されることになった。
日本赤十字社からは当時アメリカやカナダに隔離抑留されている日本人に対し、書籍や郵便物、嗜好品、日本特有の食料品などを、アメリカ赤十字社からは日本や満州を含めアジア各地の収容所に収容されている連合軍捕虜に対し、対象当事各国から集まった医薬品、衣類、靴、書籍、郵便物、食料品が送られることになった。
アメリカ赤十字社から送り込まれる救援物資は2025トンに達し、10月中旬にはソ連の貨物船タシケントにより、これらの物資はサンフランシスコからナホトカに到着していた。
日本側から送り込まれる救援物資は100トンそこそこであった。
昭和19年(1944年)10月28日、輸送任務の特命を受けた白山丸は新潟港を出港し、30日にナホトカに到着。
直ちに白山丸とタシケントは接舷し、双方の物資を直接船同士で積み替えた。
アメリカ側の2025トンの救援物資を積みこんだ白山丸は、途中で羅津港に寄港し、満州国内の収容所に収容されている連合軍捕虜向けの救援物資150トンを荷揚げした。
11月11日、白山丸は神戸港に帰着。
残りの1875トンの救援物資を荷揚げし使命を果たした。

日本に荷揚げされた救援物資の中の275トンは中国各地の収容所に収容されている連合軍捕虜向けとして特別に船を仕立てて送り込まれることになった。
そして、800トンがメレー、ビルマ、インドネシア方面の収容所に収容されているアメリカ・オランダ・イギリス軍捕虜と抑留民間人向けとなった。
この800トンの救援物資の輸送の任務に当たったのが日本郵船の大型貨客船「阿波丸」(1万1249総トン)であった。
昭和20年(1945年)2月17日、阿波丸は制海権と制空権が完全に敵側にある海域を航行するため、航行の安全の保証を得てシンガポール、ジャカルタへ向かった。
800トンの援助物資輸送の任務を終えて帰途についた阿波丸は、4月1日の深夜に台湾海峡で米潜水艦クイーンフィッシュの雷撃で撃沈された。
1名の生存者が潜水艦に救助された以外は乗組員と日本までの便乗者合計2045名すべてが海底に消えた。

(参考:大内健二著 『戦う民間船』 光人社NF文庫 2006年発行)

(平成23年5月29日追記)


【阿波丸事件の補償】

緑十字船「阿波丸」は航海の安全が保障されていたにもかかわらず、米潜水艦「クィーンフィッシュ」に攻撃されて沈没した。
夜間、灯火をつけて航行する緑十字船を撃ったことはアメリカ側の言い訳できない国際法違反行為だった。
アメリカ政府も、国際法に照らしてただちに賠償責任があると認めた。
ところが4ヵ月後に日本が降伏すると、アメリカの議会は敗戦国になぜ賠償金を払うのか、有色人種相手に約束を守ってやる必要はない、と猛反対が起きた。
それで困った対日理事会の米国代表ウィリアム・シーボルトが、何とかいい方法はないかと考えた。
当時のアメリカは、欧州諸国に対するマーシャル・プランと同じようなガリオア・エロア(占領地復興基金)を日本向けにつくった。
それで日本には、脱脂粉乳や牛の飼料のような食糧が供与されていた。
マッカーサーは、それを有償にすることを日本政府に通告し、その返済金の一部を阿波丸の2000人の犠牲者の補償金にさせた。
アメリカは1銭も払わないで、阿波丸の補償を日本にやらせ、余ったカネはマッカーサーが懐に入れてしまった。

(参考:高山正之 著 『「官僚は犯罪者」は世界の常識』 PHP研究所 2010年第1版)

(平成27年12月10日・追記)


【乗船者は高級官僚ばかり】

阿波丸の乗船名簿を見ると、国外にいた官吏がわれ先に本土へ逃げ帰るために乗船していたことが分かる。
官吏優先で、民間人は二の次だった。

(参考:高山正之 著 『「官僚は犯罪者」は世界の常識』 PHP研究所 2010年第1版)

(平成27年12月10日・追記)




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