富士重本 ふじ・しげもと

文政9年(1826年)~明治30年(1897年)4月9日






「駿州赤心隊之碑」

蘇峰菅正敬書
(富士山本宮浅間大社)



(平成25年12月14日)
赤心隊員
 富士亦八郎   稲川内膳  村岡彦九郎
 森 齋宮  廰守真四郎  槙松伊織
 鈴木楯雄  先光五十連  鎰是主膳
 山田玄蕃  富士武丸  内藤浪江
 山宮■次郎  東流保之助  筑地帯刀
 新宮靭負  小杉鯛次郎  中村鋗次郎
 田中良吉  鈴木銑三郎  豊積主膳
 新谷右京  中村内記  中村静馬
 中村市郎  宮城島藤三  富士宮内
 富士内匠  富士信綱  鎰是内記
 鎰是 登  宮崎春長  宮崎清長
 錦織伊豫  井手左次馬  前島平内
 鈴木右京  藤林共吉  坂口伊三郎
 南 茂作  谷 雄三  井手鎌太郎
 前島數馬  池田真平  鹿園數馬
 旭 國三  金子宮内  竹内伯耆
 長坂主税  窪田伊賀  鈴木外記
 惣社宮内  太田健太郎  八幡主殿
 大井求馬  森太郎左衛門  
     

(銘板より)

駿州赤心隊

富士亦八郎重本 文政9年(1826年)~明治30年(1897年)は駿州赤心隊を結成、勤皇に献身した。
富士山本宮浅間大社の大宮司家に生まれ15歳で江戸に出て、漢学・武術を学ぶ。
20歳で帰郷第44代大宮司家を継ぐかたわら塾を開き、国学、漢学、兵学を教える。
東征軍に参加、駿州赤心隊を率いて幕軍と戦う。
その後、西南戦争に従軍、現靖国神社の前身、東京招魂社の社司となり祭祀を司り最後は東京麹町区長。
この石碑は明治維新の激動の時代を勤皇の志士として、国家に尽くした駿州赤心隊顕彰の碑である。

(説明板より)

富士山本宮浅間大社
(静岡県富士宮市宮町1-1)

御祭神
主神 木花之佐久夜毘売命このはなのさくやひめのみこと
配祀 瓊々杵尊ににぎのみこと
    大山祇神おおやまづみのかみ

御由緒
人皇第7代孝霊天皇の御代、富士山が噴火し、人民が離散し国内が荒れ果てたので、第11代垂仁天皇は、富士の神霊を山足やまあし(山麓)の地に鎮祭した。
これが浅間大社の創祀である。
第12代景行天皇の皇子日本武尊が東征の際、浅間大神の神助を畏み、山宮の地(現在地の北方6キロ)に篤く大神を祀られた。
その後、平城天皇の大同元年(806)坂上田村麿が勅命に依り、神霊を山宮より大宮(現在地)遷し奉った。
以来実に1千2百余年、全国1千3百余社に及ぶ浅間神社の総本宮として、全国的に篤い崇敬をあつめている東海最古の名社である。
古来、朝廷の崇敬極めて篤く、延喜の制では名神大社に列し、駿河国の一宮として崇められた。
武家時代に入ってからは、源頼朝をはじめ北条義時、武田信玄、同勝頼、等の各武将は、それぞれ神領や神宝を献納して篤く崇敬した。
特に徳川家康は、天下を平定した奉賽のため、慶長9年(1604)に本殿以下の諸社殿を奉献し、更に富士山八合目以上を社地として寄進した。
本殿は二層の楼閣をなし、浅間造と称し重要文化財に指定されている。

(※ 以下略)

(説明板より)



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