原田宗輔 はらだ・むねすけ (原田甲斐)

元和5年(1619年)~寛文11年3月27日(1671年5月6日)


江戸前期の仙台藩の奉行(家老)。
仙台藩伊達家の宿老の家に生まれ、評定役を務める。
のちに奉行となり、藩主一門の伊達兵部宗勝と結んで藩政を主導。
寛文11年(1671年)、いわゆる「伊達騒動」の当事者の一人として、幕府大老・酒井忠清邸に召喚されるが、その場で対立する伊達安芸宗重を斬殺し、甲斐自身も殺害された。


荘厳寺山門
(宮城県仙台市・荘厳寺)

(平成24年6月3日)

仙台市指定有形文化財(昭和61年12月20日指定)
荘厳寺山門

三間一戸の薬医門やくいもんで切妻造本瓦葺きりづまづくりほんかわらぶきの堂々たる門である。
江戸時代初期の上級武家門として数少ない遺構である。
寛文かんぶん事件で知られる仙台藩奉行(家老)原田甲斐かい宗輔むねすけの片平丁にあった屋敷門を移築したものと伝えられ、逆臣の門ということで、「逆さ門」とも呼ばれていた。
老朽化のため、平成5年と6年の2ヵ年にわたり解体修理工事を行った。
その際、柱材の上下を逆さに、左右の位置を交換して建て直した「門」であることが判明、「逆さ門」のいわれが明らかとなった。

平成10年7月 仙台市教育委員会

(説明板より)

原田甲斐邸薬医門(俗称「逆門」)の由来

万治3年(1660)伊達家騒動により綱宗が隠居したが、その後甲斐一門一族の処刑がなされた。
勿論、六親九族七世に及んだ処刑によって事件に関係のない幼い子供も無実の罪を背負いながら死んで行った。
そして甲斐ゆかりの全てのものは完全に破壊されたが、最後に一番堅牢な薬医門が唯一つだけ残った。
巨木をはめ込みに組み立てた薬医門取り壊しにかかったが、解体作業の人夫は不慮の事故で怪我をしたり又は夭死するものさえ出たと伝えている。
このため解体をとり止め焼却される事になったが、その晩から夜毎に子供の泣き声が聞こえてきたという。
恐らくは楔をはずしたために軋む音が聞こえたのかもしれない。
当時、荘厳寺の住職は名僧知識として世に誉れ高く伊達家の厚い信任を得ていた。
この聖人はひそかに原田甲斐一門の迷える霊を供養して、唯一の名残である四脚門を功徳山・荘厳寺に「悪を善に転じて」移建することを推進して許されてから逆さに移建した。
そのため世に「逆門」として言い伝えられ、現在に至った原田甲斐一族の唯一の名残である。

(説明石碑の碑文より)

逆門の謂れある山門の史蹟

寛文事件と云われた伊達騒動、怨親二つに裂けた敵味方の争憂の中で、当代の家老職に在った原田甲斐の守は一切の責めを負うて死んだ。
其の怨親二つに裂けた多くの犠牲者を弔う意が深く秘められているのがこの山門であると思う。
当代荘厳寺の住職は伊達藩の信望も深く許しを得て、悪を逆にして善であると云うその意を以って原田甲斐邸の屋敷の門を荘厳寺に逆に移建しその霊を弔ったと云う。
其の門の側に石地蔵尊三体の立つ姿に気付く者は少ない。
此の地蔵さん門を弔う形に座っているのである。
当時原田甲斐邸より此の逆門を潜って脱出し生還を企った者の幾人かは助かったが、多くはこの山門の所で斬殺されたと云う。
赤児の死体のみでも門のまわりに17遺体を数えたと云うから其の死体は累々と重なり山をなしたことであったろうかと想像する。
其の犠牲者を弔った面影残る地蔵さんである。

第28世住職  聖誉一阿哲園謹書

(説明石碑の碑文より)





荘厳寺
(宮城県仙台市青葉区新坂町12-1)




(平成24年6月3日)

伊達騒動

【主君を押し込め!】
万治3年(1660)、伊達綱宗の3代藩主就任からわずか2年後、綱宗は突如幕府から隠居を命じられます。
理由は綱宗の不行跡ふぎょうせき
酒色にふける綱宗に、藩の重臣や親戚大名の立花忠茂らがたびたび注意を加えます。
しかし改善されず、藩の行く末を危惧した一門(藩主家と血縁関係がある重臣)や奉行(家老)らが綱宗の隠居願いを幕府に提出したのです。
当時の武家の間では、主君としての器量に欠ける藩主を隠居に追いやり、藩や大名の御家おいえを守る「主君押し込め」という慣行が広まりつつありました。
伊達の御家存続に不相応な藩主として家臣に見切りをつけられた綱宗は、以後、長い隠居生活をおくります。
仙台藩では2歳の亀千代(のちの綱村)を4代藩主に、伊達兵部と田村右京を後見人に据えた新体制が始まります。

【揺れる藩内】
幕府は、幼少の藩主を抱えた仙台藩を監察するため、国目付くにめつけという役人を仙台藩へ派遣しました。
しかし、後見人同士の不和、奉行奥山大学と後見人兵部との対立、兵部に重用された藩の目付(藩士の職務を監察する役)の実権拡大、それに対する批判の高まりなど、混乱が続きます。
さらに奉行の一人原田甲斐が次第に兵部と接近し、目付とも意を通じていきます。
そんな中、ともに一門の伊達安芸と伊達式部の間で領地の境界争いが起きます。
事態は長期化し、検地役人の境界裁定に異議を唱えた安芸が、役人の不正と後見人下の藩政の混乱を国目付に訴え、ついに幕府での審議となりました。

【刃傷事件】
寛文11(1671)、伊達安芸と藩の奉行原田甲斐・柴田外記・古内志摩、境界裁定に関わった検地役人らの審議が江戸幕府で始まります。
審議が大詰めを迎えた3月27日、事態は急転します。
大老酒井雅楽頭うたのかみ邸での審議中、甲斐が突如安芸を斬りつける騒ぎとなり、安芸はその場で絶命し、混乱の中で酒井家家臣によって甲斐だけでなく、外記も斬られて死亡したのです。
仙台藩の取りつぶしを恐れて、藩内には緊張が走りました。
事件の責任を問われた兵部は高知に配流はいる、右京は閉門、原田家は断絶となり、本来の審議対象だった検地役人や目付も処分されました。
4代藩主綱基つなもと(のちの綱村)は幼少のため許され、御家安泰となって事件は一応の終結となります。
その後、兵部は配流先の高知で死去するなど、それぞれに事件の「その後」をめぐるドラマがありました。

【「その後」の仙台藩】
後見人の廃止と仙台藩への国目付派遣の停止により、綱村は藩主として、自立の道を歩み出します。
藩主親政に燃える綱村は、藩の職制改革や、中級家臣からの人材登用。寺社の造成、儒学の興隆などを積極的に行います。
一方で偏った人材登用や厳しい処罰、藩財政の悪化に対する批判が高まり、藩内では一門らを中心に綱村への諫言書かんげんしょが出されます。
親戚大名も苦言を呈しますが改善されず、元禄16年(1703)、綱村もまた3代藩主綱宗と同様に、幕府や親戚大名、家臣らの圧力によって半ば強制的に隠居を余儀なくされました。
寛文事件以後、藩政改革や藩主の言動に対して、一門衆が結託して異論を唱えることが幾度も行なわれました。

【語り、演じる メディアが語った伊達騒動】
世間を騒がせた仙台藩の御家騒動は、その後脚色を加えた物語や歌舞伎・人形浄瑠璃にんぎょうじょうるりなどを通じて人々の間に広まりました。
そうした文芸で示された、忠臣・悪臣の対立から御家安泰へという単純化された事件の評価は、その後史実としての寛文事件の評価にも大きな影響を与えたのです。

寛文事件関係年表
元号 西暦 内容
万治元 1658 伊達綱宗、3代藩主に就任
万治2 1659 綱宗の長男亀千代(のちの4代藩主綱村)誕生
万治3 1660 一門・奉行・宿老ら、綱宗の隠居願いを幕府に提出
幕府、綱村の隠居と2歳の亀千代の4代藩主就任を命ずる
伊達兵部・田村右京に後見を命じる
寛文元 1661 茂庭周防、奉行職辞職
寛文2 1662 奉行奥山大学が後見人の領地支配に関して後見人を糾弾
寛文3 1663 小姓頭里見十左衛門が奉行奥山大学の専横を諫言
奥山大学、奉行を解任される
茂庭周防、奉行職再任
この頃、原田甲斐が奉行に就任
寛文5 1665 伊達安芸と伊達式部の間で領地の境界争いがおこる
寛文6 1666 里見十左衛門が伊達兵部の独断的な藩政運営を批判
寛文7 1667 仙台城での席次を巡り、伊東七十郎らが奉行を批判
寛文8 1668 伊達兵部暗殺を計画した伊東一族が処罰される
寛文9 1669 伊達安芸と伊達式部が両後見人の裁定案を受け入れ、領地の検地が行われる
亀千代が元服し、綱基つなもとと名乗る(11歳)
寛文10 1670 伊達安芸が検地の不正や後見人による藩政の混乱を幕府に訴える
寛文11 1671 幕府大老酒井雅楽頭うたのかみ邸にて審問中に、原田甲斐が刃傷にんじょう事件を起こし、
伊達安芸・原田甲斐・柴田外記が死亡

伊達兵部は高知に配流、田村右京は閉門、原田家は断絶、藩主綱基は幼少のため赦免
寛文12 1672 田村右京の閉門が赦免される
延宝元 1673 奉行古内志摩死去
延宝3 1675 伊達綱基、仙台初入国
延宝5 1677 伊達綱基、綱村と名乗る(19歳)
伊達綱村、老中稲葉正則の息女仙姫と結婚
延宝6 1678 田村右京、江戸で死去
延宝7 1679 伊達兵部、高知で病没
貞享3 1686 一門らが伊達綱村の政治について諫言し、綱村側近の古内主膳重直しげなおを罷免
元禄6 1693 再び一門らが伊達綱村に諫言
元禄10 1697 伊達綱村の強制隠居勧告が未遂に終わる
元禄16 1703 伊達綱村が隠居し、伊達吉村が5代藩主となる
享保2 1717 実録『伊達大盛兵甲記だてたいせいへいこうき』成立
明和7 1770 この頃、実録『全書仙台萩』成立
安永6 1777 芝居「伽羅先代萩」、大坂で初演
安永7 1778 江戸中村座で芝居「伊達競阿国戯場だてくらべおくにかぶき」が上演される
天明5 1785 江戸結城座で人形浄瑠璃「伽羅先代萩」が上演される(現在の舞台のもと)
嘉永2 1849 斎藤竹堂、『尽忠録』を著す
明治14 1881 『尽忠録』、活版本で出版
明治34 1901 山路愛山『伊達騒動記』出版
明治42 1909 大槻文彦『伊達騒動実記』出版
大正10 1921 田辺実明『先代萩の真相』出版
昭和33 1958 山本周五郎『樅もみノ木は残った』出版
昭和45 1970 NHK大河ドラマ『樅ノ木は残った』放送

(企画展のリーフレットより)




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