飛行第81戦隊


慰霊碑



『慰霊碑』

(京都市東山区・霊山観音)




(平成16年4月2日)

碑文

飛行第81戦隊及び飛行第8戦隊第1中隊(昭和19年合併)は大東亜(太平洋)戦争勃発以来東南アジア全域に亘り転戦、常時高性能を誇る100式司令部偵察機を駆って重要航空捜索任務を強行完遂しこの偉業によって3回の部隊感状が授与された。
後期飛行第15戦隊をも併合し、次期作戦準備中、終戦を迎えた。
この燦然たる部隊功績の陰では、開戦以来空中勤務者を主とする105柱の戦友を失っている。
誠に痛恨の極みであり、今も当時の勇姿を忘れることができない。
我等生存者、茲に慰霊碑を建て、諸霊の安らかに眠らんことを祈る。

昭和60年4月吉日
飛行第81戦隊・飛行第8戦隊第1中隊 つばさ会 戦友遺族一同


【飛行戦隊】

日華事変中の昭和13年8月、制度を改めて従来の飛行連隊や飛行大隊は飛行戦隊と改称し、陸軍航空兵力の基礎単位となった。
戦隊長は少佐である。
主として内容は同一機種である。
1個飛行戦隊は3個飛行中隊からなる。
爆撃機なら1個中隊(9機)×3=27機、戦闘機なら1個中隊(12機)×3=36機というわけだが、予備機や欠員も多く、必ずしも一概には言い切れない。
飛行戦隊は独立した飛行場大隊の世話になった。
飛行戦隊は時には兵力の3分の1=1個中隊を本隊と分離し、別の方面に貸与してやる場合も多い。
太平洋戦争終了までに100以上の飛行戦隊があった。

偵察機は少数機で忍者のように行動するから、飛行戦隊よりも独立飛行中隊(8〜12機)として行動したものが多い。
もちろん偵察機の飛行戦隊もあったし、偵察機と構造のよく似ている軽爆(あるいは地上襲撃機)の中隊とコンビを組んで1個飛行戦隊を編成するケースもあった。
同じ部品を使っていると整備が容易だからであろう。

(参考:木俣滋郎 著 『陸軍航空隊全史』 朝日ソノラマ 文庫版航空戦史シリーズ90 1994年7月 第6刷発行)

(平成31年1月4日 追記)


【飛行第81戦隊】

通称号:高第2380
飛行分科:司偵
編成時期:昭和16年9月20日
編成地:彰徳(中国)
使用機種:九七式司令部偵察機、一〇〇式偵察機、キ102
終戦時の所在地:レグー(ビルマ)

独立飛行第16中隊を改編(2個中隊)。
昭和16年11月、プノンペンに進出して開戦前の隠密捜索(偵察)を行う。
開戦後はマレー、シンガポール、ボルネオ、ジャワに飛び捜索を実施。
パレンバン空挺降下作戦では挺進隊将校を司偵に同乗させて地形を視察したり、天候通報、降下後の状況偵察を実施した。
昭和17年7月、ビルマに展開。
インド、雲南、昆明の捜索に長期間従事した。
この間、3個中隊に拡大されたが、1個中隊をニューギニアに派遣・分離した。
昭和18年4月、飛行第8戦隊司偵中隊を編入して規模の拡大を図る。
さらに一〇〇式司偵V型に改変するなど戦力を増強。
しかし、連合軍の新鋭レーダーの装備や戦闘機のスピードアップにより、戦隊の捜索活動での犠牲者が増え始める。
昭和20年4月、カンボジアのクラコールに後退し、フィリピンで苦闘の末に解散した飛行第15戦隊の人員・器材を収容中に終戦を迎える。
戦死者は105名だが、そのうち95名が空中勤務者で、75名が将校。
陸士54期16名、陸士55期21名、陸士56期11名で、赴任者56名に対して86%の戦死率。

(参考:『別冊歴史読本 零戦と日本航空戦史』 新人物往来社 1996年11月発行)

(令和元年11月25日 追記)


飛行第81戦隊

昭和16年9月、彰徳(中国)で独立飛行第16中隊を中核に2個中隊で編成。(のちに3個中隊に編成)
ビルマを主作戦に、一部をニューギニアに派遣して作戦に従事。

飛行第8戦隊

原隊は屏東(台湾)。
昭和16年末、飛行第2戦隊から司令部偵察機中隊を受け入れ、軽爆撃機中隊と共にフィリピン、ビルマの作戦に従事。

飛行第15戦隊

原隊は新京(満洲)。
ノモンハン事変、フィリピン防衛作戦(後期)に従事。
南方進出以来消耗激しく、戦力回復のため大阪にへ帰国。
残余の部隊は昭和19年10月17日、スピック湾北方のサンマリセリネへ移動し、地上戦闘の訓練に入る。
まもなく本隊の戦力も回復し(人員・飛行機)、レイテ島の捜索に従事。
昭和20年1月5日、師団命令により倉地第2中隊長(陸士54期)以下19名はサイゴン派遣隊となり、残余の司偵3機、双練1機に分乗し、南方総軍の指揮下に入るべく、ボルネオ・シンガポールを経由し、サイゴンに移動。
昭和20年5月27日、飛行第81戦隊に吸収される。

(平成16年6月10日追記)
(平成19年8月5日改訂)


【司令部偵察機】

陸軍飛行隊は創立から敵状偵察が主任務であった。
だから地上軍の司令官(師団長)の命令を受けて行動する。
これが古典的な軍偵察機(いわゆる軍偵)である。
太平洋戦争の末期まで使われた九九式軍偵や小型の九八式直協機がこれである。

ところが航空兵力が巨大化すると、航空部隊の司令官が敵飛行場の状況や敵後方の補給状況を知るため、長距離飛行できる大型偵察機が必要となった。
これが司令部付偵察機(いわゆる司偵)である。
日華事変で現れた九七式司偵(東京〜ロンドンを往復した朝日新聞社の神風号と同型)や高速を誇る双発の100式司偵(新司偵)がこれに入る。

(参考:木俣滋郎 著 『陸軍航空隊全史』 朝日ソノラマ 文庫版航空戦史シリーズ90 1994年7月 第6刷発行)

(平成31年1月4日 追記)


百式司令部偵察機(キ46)

一型:34機、ニ型:1093機、三型:611機、四型:4機、合計1742機が生産されました。

ニ型
エンジン:1080馬力×2
最大速度:604km/時
実用上昇限度:10,720m
上昇力:8,000mまで11分58秒
航続距離:2,474km
三型
エンジン:1500馬力×2
最大速度:630km/時
実用上昇限度:1,0500m
上昇力:8,000mまで20分15秒
航続距離:4,000キロメートル

設計者は三菱飛行機の久保富夫氏です。戦後、三菱自工の社長に就任されています。

(平成16年6月10日記)


新司偵〜キ46技術開発と戦歴〜
碇 義朗著 光人社NF文庫 1997年発行 定価629円+税

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