歩兵第39連隊

(通称号:鉄5446部隊)

編成地 編成時期 終戦時の上級部隊 終戦時の所在地
姫路 明治31年 第10師団 フィリピン・ルソン島


日露戦争時、遼陽、奉天の各会戦で奮戦。
沙河の戦闘では連隊の軍旗が敵弾に斃れた2人の旗手の血で染まったことから「血染めの軍旗」と言われるようになった。

昭和7年から約2年間、北満の警備に就く。
昭和15年8月からはソ連国境の佳木斯チャムスに常駐。
その後、台湾に転進し、台湾警備の任に就き、第14方面軍(司令官・山下奉文大将)の隷下に入り、第10師団の先遣隊としてマニラに向かう。
マニラ上陸後にレイテ島レイテ島への逆上陸の命令を受けたが、後に中止となりバターン半島へ転進。
昭和20年1月9日、米軍のリンガエン湾上陸が開始され、連隊主力の永吉支隊は南下してくる敵に対し、2週間にもわたる激戦を展開する。
2月7日からの米軍の攻撃で連隊(永吉支隊)は敵に囲まれた状態となり、約10倍の敵を相手に死闘を展開。
2月下旬、ついにナチブ山への転進を決意。
崩壊寸前の北守備隊が北から、中守備隊が南から、それぞれ約1ヵ月かけてナチブ山に集結し、ここで終戦を迎える。
8月24日、軍旗奉焼命令が出されたが、永吉支隊には届かず。
協議の結果、軍旗を持ち帰ることを決め、山中で訣別式を挙げた後、軍旗を解体。
姫路に持ち帰り見星寺に安置した。





「兵ども乃 あゝ三九 庭の跡」碑

(兵庫県姫路市元町の公園)

姫路市長 吉田豊信 書



(平成25年12月16日)

碑文

歩兵第三十九聯隊は日清戦争後姫路に創設せられ第二次大戦の終わるまで姫路城内に屯し文武両道を練磨すること五十有余年
平時は國家の中堅となり出でては北満より南洋に至るまで勇躍國難に当たり赫々たる偉勲を樹つ
我等戦友は関連諸部隊と相計り往年の面影を偲び茲元営内跡に記念碑を建て血染の軍旗の一部を地下に浄めて永へに顕彰せんとす

昭和五十一年十一月
   姫路 三九会

歩兵第39連隊跡





「名古山 英霊奉安之碑」

(兵庫県姫路市名古山・名古山霊苑)




(平成25年12月16日)

碑文

この地は明治時代から元第10師団戦歿将兵の英霊を祀る陸軍墓地でしたが昭和26年から当霊苑造成工事に際して墓地を改修し中央に納骨堂を建立 英霊芳名簿と遺骨の奉納に併せて自衛隊殉職者を合祀し11万1千5百余柱の御霊を奉安する霊地です

平成8年11月12日 建之
社団法人 日本郷友連盟兵庫県支部

名古山霊苑(旧陸軍墓地)



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