1.戦没者のご遺族をご案内・・・


そもそもの経緯・・・・

北部ルソンで戦死された方の孫娘さんからメールを頂いた。
母(戦没者の娘さん)を連れて、北部ルソンのエチアゲに慰霊に行きたいのだが、現地の様子を教えて欲しいというものだった。
何軒かの大手旅行社に相談したらしいが、エチアゲなどという町がどこにあるのか知らないと言われたらしい。
ツアーもマニラの観光地ならあるが、北部ルソンの山のほうに行くものはないとのことだったらしい。
だいたい、町の場所もよくわからないくらいだから、個人旅行の手配もできないらしく、いい返事がもらえなかったようである。

で・・・私にメールを下さったのだが・・・
残念ながら私はエチアゲまで行ったことがない。
私がいつも訪れる場所より、更に北にある町だということは知ってはいたが・・・
女性の二人旅になるので、一番気にしているのが現地の治安である。
現地の治安状況を尋ねられても、行ったことがないのでわからない。(笑)

私がいつも使う旅行社を通して、運転手付きの車とガイドを手配してあげますよ・・・という話をしたのだが・・・
「ドライバーはフィリピン人の男性なんですよね?」と問われてしまい困った・・・
う〜ん・・・フィリピンだから・・・フィリピン人の男性だと思いますが・・・(笑)
多分、大丈夫だと思うんだけどなぁ〜
初めてのフィリピン旅行なので不安なのだろう・・・無理もない話しである。

結局、私がフィリピンへ行く時に同行させてもらえないか・・・と言われたのだが・・・
それは無理である。(笑)
私がよく行く、祖父の戦場、サラクサク峠には幹線道路から横道に入って、更に山奥に向う・・・
そこに一緒に行ってもねぇ〜(笑)
余計な時間がかかって時間がもったいないのではなかろうか?
というわけで・・・このお二人のためだけにガイド役として一緒に行く事にした。(笑)

ちなみに、私は添乗員としての資格は持っていない・・・
だから、「ガイド」というわけにはいかない。
あくまでも「アドバイザー」「コーディネイター」として同行するのである。
というわけで、同じ旅行者として参加するので、旅費は私の分は私が出す。
金銭の謝礼もお断りする。(これは私の“仕事”ではない。あくまでもボランティアなんだから・・・)
ただし・・・現地でのコーヒーは「お礼」としてご馳走していただけたら嬉しい・・・というのが私の条件。(笑)

現地のどこで慰霊をすればいいのか・・・・実は、これが一番頭の痛いところである。
事前に、ご遺族から資料をお送りいただき、私も防衛研究所図書館に調べにも行ったが・・・・
ここ!・・・という場所がない。
戦死公報に「エチアゲにて戦死」としか記されていない。
エチアゲのどこで慰霊をしようか・・・・

戦死された方は、第103師団独立歩兵第179大隊(一瀬大隊)の小隊長だったそうである。
ならば部隊の動きを掴めばわかるかも・・・と思ったが、玉砕した部隊の記録は、そうそう詳細に残っているものではない。
ご遺族からは戦後、同じ部隊にいた戦友から送られた「手紙」のコピーをお送りいただいた。
それによれば、小隊長と最後まで行動を共にしていたという“唯一の生還者”が、この手紙の主に語った話が書かれているのだが・・・
それにしては、小隊長の最期の様子が詳しくない・・・・
小隊の行動についても、大雑把な書き方である。
この“唯一の生還者”は、あまり積極的には話したがらなかったと、手紙には書いてある。
こうなると話の内容を全て信じていいものやら・・・・

私の知っている生還者の中で、似たような方がおられた。
撤退途中に部隊から離れて単独行動を取り、一人、生還された方である。
山の中で自分の部隊が近くにいるのを知っても合流しようとせず、単独行動を取っていた方で、その後、部隊は消滅(玉砕?)・・・・
この方だけが生きて帰って来た。
単独行動を取っていたから生き残れたのかもしれない・・・
この方は、当時の様子について多少は語ってくれるが、肝心の自分の部隊のことや、他の戦友に関しては口が重い。
「手紙」を読んでいて、ふと、この方のことが頭に浮かんだ。
なんとなく似ている・・・・

「手紙」を書かれた方は、小隊長の遺族が最期の様子を知りたがっているので・・・ということで尋ねたらしいが、その結果がこの曖昧な内容では首を傾げざるを得ない。
最期まで行動を共にしていたというなら、直接、遺族に会って最期の様子を話さねば・・・と思うのが普通ではあるまいか?
それとも、本人は詳細に語っているが、間に入ったこの「手紙」の主が、あまり正直に伝えるのを憚って、適当に省略してしまったのだろうか?
私の直感だが、あまりこの「手紙」に書かれていることを鵜呑みにしないほうが良さそうである。
この「手紙」は、かなり昔に親族の一人に宛てたものらしく、いつ頃書かれたものか、どこに住んでいる方が書いたのかもハッキリしない・・・・
いまさら、手紙の主に確認のしようもないし、“唯一の生還者”を探し出すのも不可能である。

各種資料はあくまでも参考ということにして・・・・
実際に現地に行って、現地の地形等をこの目で確認してみないと何とも言えまい。
現地に行ってから、どこで慰霊をするかを決めるしかない・・・・
行き当たりバッタリ・・・となるが、今となってはピンポイントで戦没地を探し当てるのは不可能なのだから仕方があるまい。
少しでも近い場所で・・・とするしかない。

慰霊巡拝の団体旅行では、行程の関係で、とんでもないところで慰霊をさせられる遺族がいることを私は知っている。
例えて言えば、大阪で戦死したのに、このあとは奈良に向いますので・・・と、京都から大阪のほうを向いて慰霊をし、奈良に観光に向うような慰霊の仕方をする。
遺族も良くわかっていないから、大阪のほうに向って「お父さ〜ん!」と京都で叫ぶ・・・・
で・・・後になってから、「本当にあの場所が父の戦死した場所なんでしょうか?」と相談をかけられ、答えようがなかった経験がある。
だから私は、団体の(特に某団体の)慰霊巡拝への参加はお勧めしないのである。
個人旅行で行って、できるだけお亡くなりなった方の近くで、時間も気にすることなく、思う存分に慰霊をしていただきたいと思うのである。

 平成22年(2010年)3月18日

成田空港近くのホテルに前泊。
ホテルで、ご遺族お二人にお会いしてご挨拶・・・
メールを下さった戦没者の孫娘さんである佐藤さんとはメールだけの打ち合わせで、この旅行を実施することになった。
その間、一度もお会いしていないのである。
友人から「その人達は、フィリピンのゲリラを心配するより、一緒に旅行するお前のほうを心配すべきじゃないのか?」(大笑)とからかわれて、初めて気が付いた・・・
そういえば、会ったこともないメールで知り合っただけの男の案内で旅行をするなんて、不安ではないのだろうか?(汗)
その事を戦没者の娘さんである“お母さん”に尋ねたら「自腹を切ってまで私たちを案内してくれるとは、奇特な人もいたもんだと思ってましたけど、全然、心配じゃなかったですよ」と笑われた。
怪しい人間ではないかと思われなくて安心した。(笑)

お二人とは初対面なのだが、どうもそういう気がしないのが不思議である。
“お母さん”は久々に会った親戚の叔母さんという感じだし・・・・
娘さんの佐藤さんは従姉妹という感じなのだ・・・
初めて感じる不思議な感覚である。(笑)
こういうのを“縁”というのだろうか?



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