まさかの脱輪!

(マリコ村・サラクサク峠慰霊碑)


 平成24年(2012年)4月26日 (2日目)

「イムガン」から先の山道は、昔とさほど変わっていなかった。
それでも、初めてここを通った13年ほど前から比べたら、かなり良くはなっている。
あの当時は、ジプニーというジープを改造した乗り合い自動車でなければ通れなかったのである。
しかも、車幅ギリギリの道幅の部分があって、下を見下ろすと崖・・・
奈落の底に落ちそうで肝を冷やしながら向かったものである。

今回は乗用車・・・・
道が以前よりは良くなったとは聞いていたが、乗用車で大丈夫なのだろうか?
一応、山の中を走るから四輪駆動の車を手配してくれるよう頼んでおいたのだが・・・
一抹の不安がよぎる・・・(汗)

途中、小さな小川が横切っている場所がある。
毎回、ここを通るたびに見ている景色・・・
山肌から水が流れ出して道を横切るので川のようになっているのである。
で・・・ドライバーが車を止めて「ここから先には行けない」と言う。
「行けない」では困るんだよねぇ~
この先の村に行かねばならんのだから・・・・
「行けるって!大丈夫だって!」(苦笑)
“ステラさん”も「大丈夫なんですか?駄目じゃないんですか?」と言う。
彼女は、ここには2回しかきたことがなく、10年ぶりぐらいだという。
だから何もわからないという。
う~ん・・・それじゃガイドにならないだろ!
車を降りて、私が小川の深さを確認して車を誘導する。
本来は、私は“客”のはずなのだが・・・
なんでこうなるの?
「おい!来い!大丈夫だ!」
水の中を乗用車を走らせる。(笑)

ガタゴト、ガタゴトと山道を走り続けるが・・・・
途中で石ころだらけの坂道に出遭う・・・・
と・・・この乗用車・・・・
この坂が登れないのである!
オイ、オイ、嘘だろう・・・・
そのうちズルズルと車はバックする。
バックして坂の下から勢い付けて登ろうという魂胆なのかな?
と・・・思っていたが、車の角度がおかしい・・・
後部座席の私が後ろを振り返ったら、山の斜面が迫っている!
「ストップ!ストップ!ストップ!」
大声をあげたが・・・時既に遅し・・・・ガシャン!
あ~あ~やっちゃったぁ~

車から外に出て見たら・・・・唖然!
山の斜面にぶつかったのではない。
道の側溝に落ちたのである!
しかも、その側溝が・・・・深い!
万事休すである。(涙)

脱輪!!
(道の向こうに見える人物が、石を探しに行く運転手です!)

ドライバーに「この車は4WDじゃないのか?」と尋ねたら、4WDじゃないという。
会社から、この車を使えと預けられたのだという。(唖然)
ガイドの“ステラさん”も車種の確認をしていなかったというのだから呆れたものである。

もう笑うしかないなぁ~こうなると・・・
仕方がないので、石を集めて側溝に投げ込みなんとかしようとしたが・・・
いくら石を投げ入れても“焼け石に水”とは、このことぞ・・・
全然側溝が埋まらないのである!(涙)
しかも車の“腹”が完全に道路に接しているんだから・・・こりゃどうしようもないだろう・・・

田舎の村に向かう1本道・・・・
誰も通る人はいない・・・
あ~あ~どうすんの?これ・・・
“ステラさん”は携帯が通じる場所を探しに行くといって一人で出かけていった。
私とドライバーは石探し・・・
まもなく、“ステラさん”が戻って来て「電波が通じません!駄目です!」と言う。
そりゃそうだよねぇ~ここは山奥なんだから・・・

仕方がないので、“ステラさん”と私の二人で徒歩で村まで行き、助けを求めることにして歩き出す。
と・・・遠くからオートバイのエンジンの音が・・・
村人がオートバイに乗って通りかかったのである!
いやぁ~なんという幸運か!
村へ行って助けを求めてくれと頼む。

が・・・村にレッカー車なんてあったかな?(苦笑)
日本ならJAFを頼めばいいけど・・・こっちにはそんなものあったかな?
再び山道を歩き始めて間もなく、オートバイに2人乗り、3人乗りして村の青年たちがやって来た。
おお!対応が早い!
が・・・総勢で6名ほどである。
すれ違いザマに「その先に車があるから頼むぞ!」と手で合図を送る。
あれ?・・・人間しか来ないけど・・・大丈夫なのかね?
やっぱり、村にはレッカー車のようなものは・・・ない・・・のである。(苦笑)
「田舎の人は力持ちだから6人で車を持ち上げられますよ」と“ステラさん”
恐るべき見解である。(汗)

山道のカーブを曲がり・・・・周囲を見たら・・・あれれ?
何か記憶にある山の斜面・・・・





日本軍の陣地跡
(マリコ村)




(平成24年4月26日)

う~ん・・・このススキの葉のような植物・・・・
7年前にも見たんだよなぁ~
日本軍の「サル陣地」の裾野あたりに生えていたような・・・
ということは・・・もしかしたら、もう村の入口ではあるまいか?
丘の上を見たら・・・あっ!
慰霊碑がチラリと見えた!
やっぱり、ここは日本軍の陣地跡の裾野だ!





黄色い道標
(マリコ村)




(平成24年4月26日)

まもなく、黄色の道標が見えてきた。
“ステラさん”が「さっき、ここまで来たんですけど携帯の電波が入らなくて、ここで引き返したんですよ」と言う。
「はぁ?ここはもう村の入口ですよ」と私・・・
「ええっ、じゃぁ、村の入口まで来て引き返したわけ?」
「そうなりますねぇ~」

この道標には「KM 232 MAL 0」と記されている。
その意味は「KM 232」は「マニラから232km地点」、「MAL 0」の“MAL”はマリコ村の略で、「マリコ村まで0km地点」という意味なのである。
どうやら“ステラさん”は、マリコ村まで0kmの表示を見落としていたらしい。(唖然)
どうして“外国人”の私のほうが詳しいんだよぉ~(大笑)
2人で大笑いしながら村へ向かう。

 サラクサク峠

まもなく、道の反対側に見慣れた「サラクサク峠」の山々が見えてきた!
7年前、あの山に登って降りてきて・・・この道を歩いて村に戻ってきたのだ。
それで記憶に残っていたのである!
私は方向音痴に加え記憶力があまり良くないのだが、なぜか、こういう記憶力はいいようである。
村の入口の直ぐ近くで脱輪とは、不幸中の幸いだが、いや、いや、これは戦死した日本兵の英霊のお導きに違いない・・・・
「少しは歩け!」ということなのだろう。
「車に乗って楽して来るな!」ということなのだろう。
はい、おっしゃるとおりにいたします!
なぜかワクワク!
足取りも軽く・・・村に向かう・・・・
英霊に感謝、感謝である。

我が乗用車が脱輪した場所から歩いて約10分程度で「マリコ村」の入口に辿り着いた。
時刻は午後4時過ぎである。
村の入口に豚が繋がれていた・・・
あらら・・(笑)
以前来たときには豚なんか見かけなかったのだが・・・
この村は以前より少しは裕福になったのだろうか?





豚さん




(平成24年4月26日)

以前来たときは、何もない、ただの荒地が大農場に生まれ変わっていた!
これには驚いたが・・・・
そこ・・・日本軍の陣地があったかもしれない場所ではなかろうか?
あらら・・・平らになっちゃっている!(大汗)
もっと早い時期に戦跡調査をしておくべきだった・・・

 農場

遠くに見える山が「ハル」陣地があった場所。
ここには大きく「ハル」「ナツ」「アキ」「フユ」と名付けられた広域の陣地があり、その中に鳥や動物、植物の名前を付けた小さな陣地があった。

暫く歩くと、今晩泊めてもらう“オマリオさん”の家に辿り着く。
多分、我々の車が脱輪したという話が届いていたのだろう、奥さんが家の外に立って我々を待っていた。
いやぁ~7年ぶりの再開である!(大喜)

 オマリオさん宅

家の後ろの山が「イムガン山」・・・「ハル」陣地の一部である。

コーヒーをいただきながら、近況の「報告会」・・・・
オマリオさんのご主人は病気治療のため別のところにいるらしい。
話によると、1週間に3回、血を綺麗にするというのだから、どうも人工透析をしているらしい。
そうなると、この山奥にいては無理なので、治療のため家を離れているのだそうだ。
息子の“ジェイソン君”は、大学を中退して結婚をし、子供が2人もいるという!
うそぉ~!(大笑)
7年前は・・・彼は21歳で、まだ大学生・・・・
彼が17才の時、初めて会ったのだが、それからずっと山を登る私の先導役を務めてくれていた。
その彼がねぇ~結婚して子供までいるのぉ~(驚)
こっちは当時と全く変わらず・・・独身のままだっていうのに・・・
無理もないかぁ~7年も経っちゃっているから・・・・
ここで“オマリオ夫人”から「陳情」・・・・(笑)
この息子が無職なので、私の会社で雇ってくれないかというのである。
あらら・・・
私は、すでに会社を廃業していることを伝えたら、何とか日本で働けるよう協力してはくれまいかという。
日本でも就職難だからなぁ~
フィリピン人を雇う会社があるだろうか?
“ステラさん”が無下に断るわけにもいかないでしょうから、検討するということにしてはどうかと助け舟を出してくれた。
まぁ~そのように言うほかはないよなぁ~
“ジェイソン君”は、家を出て、ここから遠く離れた「バギオ」に妻と子供2人と住んでいるという。
「え?無職で?・・・どうやって生活してるの?」と尋ねたら・・・
お母さんである“オマリオ夫人”が仕送りをしているという。
うそぉ~!(苦笑)
私も親の脛を齧って生きてきた男ですから(大笑)、あまり他人のことをとやかくは言えないが・・・(大笑)
結婚して、子供を2人ももうけて・・・それで親の脛を齧っているの?
“オマリオ夫人”が呆れ顔で、困っちゃうのよねぇ~のジェスチャー・・・
どこの国でも親は大変である。
息子の就職の陳情を私にしたくなる気持ちもわからないでもないなぁ~

“オマリオ夫人”は、この村の小学校の先生である。
もう一人、同じ学校の同僚の女性教師が同席していたのだが・・・
この女性教師から恐るべき話を聞かされた・・・
「サンタフェ」の町に日本人が一人住みついているそうなのだが、その日本人の男が、この周辺に住んでいる20代から30代の女性を日本へ連れて行くために募集しているというのである。
この男・・・日本で木を植える仕事があるので、それで女性達を集めていると言っているらしい。
で・・・この先生・・・
そういう仕事が本当に日本にはあるのかと言うのである。
唖然・・・である。
そんなバカな話を聞いたことはない。
だいたい、日本で木を植えるのに、わざわざフィリピンから人を雇うわけがない。
しかも、20代から30代の女性だけに限るって、どういうこと?
男を雇うって言うならわかるけど・・・女性だけっていうのは怪しいでしょ。
日本で木を植えるために外国人を雇うという話を私は聞いたことはない・・・
若い女性だけに限っているのは、女性を売り飛ばすためかもしれないから、特に学校の先生から勧められたなどということになったら、とんでもないことになる・・・と説明し・・・
この話は絶対怪しいから、この話に乗ってはいけないと忠告する。
それにしても、とんでもねぇことをやろうとしている日本人が住みついているとは驚きである。

現地人の反日・侮日感情は、戦時中の日本軍に対してというより、こういう戦後の日本人に対しての方が多いのではあるまいか?

“オマリオ夫人”から、もう一つの驚くべき話が・・・
(よく驚かせてくれるもんだ~)(笑)
昨日、ここから北のほうの山の中で政府軍と共産ゲリラの戦闘があったという。
で・・・政府軍兵士が11名戦死し、民間人1名が巻き添えをくって死亡したという。
ゲゲッ!
「どうします?予定通りに山に入りますか?」と尋ねられたが、もちろん「YES!」である。(笑)
一応、政府軍には日本人が一人、明日、山の中へ入ることを伝えてあるとの事。
まぁ~ゲリラと間違われて撃たれては堪りませんから・・・それは助かる。
で・・・山に入る案内人は一人でいいかと言う。
山のことをよく知っている老人だそうである。
私は祖父の陣地跡には何度も行っているので、一人でも行けないことはないのだが、いつも念のため「案内人」を同行させることにしている。
万が一怪我をした場合や、山の中でバッタリ村人に会った時の対応のためである。
トラブルは出来るだけ避けねばならない。
いいですよ~と返事をしたのだが・・・・
「その人、英語が話せないんだけどいいですか?」と言う。
あ・の・ね・・・・(苦笑)
英語が通じないのでは、どうやって意志の疎通を図るの?
驚かせてくれたついでに笑わせてもくれる。(大笑)
ということで、英語の話せる人を付けてもらい、3人で山に入ることにした。
「2人になるけど、いいですか?」と“オマリオ夫人”・・・
案内人への謝礼金は私が払うので、2人では高くなると気にしてのことだろう。
全然問題はない・・・私は経済観念がないのである!(大笑)
一応、明日一緒に山に入る村人に来てもらい挨拶をする。

今回の訪問には、祖父の陣地跡に行くことと、もう一つ、慰霊碑の碑文の修復を目的としている。
1時間ほどおしゃべりをして、「案内人」2人を連れて慰霊碑に行く。





慰霊碑が建っている丘

オマリオ氏の家の目の前にある。



(平成24年4月26日)




サラクサク峠の慰霊碑

後ろの山がサラクサク第1峠と第2峠のある山々



(平成24年4月26日)

この慰霊碑は「サル陣地」という日本軍の陣地跡に建てられている・・・と言われている。
が・・・どうしても、ここが「サル陣地」とは私には思えないのである。
どこかの誰かが「ここはサル陣地である!」と言ったので、そういうことになったらしいのだが・・・
“声のデカイ奴が勝つ”というのは世の常である。
が・・・反面、そういう“声のデカイ奴”の言うことが間違っているというのも、よくあることである。(苦笑)

当時、陣地構築を担当した工兵隊長が陣地名を付けていた。
その陣地配置の略図には「サル陣地」というのは載っていない。
これほど大きな丘に陣地名を付けないわけがない。
陣地配置図は、おおまかな地図なので、なんともわかりづらい。
敢えて言えば、祖父が戦闘末期に陣を張った「スズメ陣地」か、その北にあった「シシ陣地」ではないかという気がするのだが・・・
何度来ても、わからない。
どうしても確信がもてない・・・・
生還者に尋ねても、ハッキリしないのである。
「サル陣地ではないことだけは確かだが、何と言う名前かは知らない」と言う人もいるし、「あれはスズメ陣地だと思うんだけどなぁ~」と言う人もいる。
“声のデカイ奴”に遠慮してなのか、どうもハッキリとは答えてはくれないのである。
正直言って、戦後、遺骨収集団や巡拝慰霊団の一員として現地に来ても、自分の陣地を探すのにも一苦労するくらい、記憶があいまいになっているのだそうである。
だから、自信をもって答えられないと言う。
“声のデカイ奴”とも喧嘩したくないから・・・ということもあるのだろう。
が・・・そういう“証言者”が次々と他界してしまい・・・今では尋ねる相手がいなくなってしまった。
間違った話が後世に伝えられたのでは、英霊は浮かばれまいと思うが・・・仕方がないことなのか・・・

慰霊碑から見た景色

写真右奥の山が「ハル」陣地
麓に見える赤い屋根の家が“オマリオさん”宅
慰霊碑から見た景色

写真右側の方角に「ハル」陣地がある。
写真中央奥の山が「ナツ」陣地。
麓に見える細長い屋根は小学校の校舎の屋根である。
写真左端にチラリと「アキ」陣地がある山が見える。
慰霊碑から見た景色


写真奥の山・・・
右端のコブのような山が「アキ」陣地の「成田山」
成田軍曹が指揮を執っていた山なので「成田山」と名付けられた。
その左の頂上が平らな山が「アキ」陣地の「天王山」
日米で取ったり取られたりの激戦があった山である。
その左の窪んでいるところが「サラクサク第2峠」
その左の小高い三角の山が「高田山」
戦車第10連隊の高田さんが陣を敷いていたので「高田山」と名付けられた。
ここに我が祖父の連隊本部もあった。

手前の道路が、さっき私が歩いていた道である。
道路の左側の小高い丘が、もしかしたら「スズメ陣地」なのかもしれない。
写真奥から、こちらに向かって米軍が進攻してきたので、ここに陣地を構築するはずだ。
慰霊碑から見た景色

写真奥の中央のL字形に大きく削られている場所が「スズメ陣地」という話もある。
山の形状から、米軍の砲爆撃で大きく削られたのだろう。
ということは、日本軍の陣地があったということになる。
「スズメ陣地」は2~3個の丘を含めた、かなり広い区域を指していたようだ。
このL字型に削られた丘から写真手前右端の丘までが「スズメ陣地」だったかも。
戦線の推移に伴い「東スズメ」とか、更に細かく陣地名が分かれた記述がある。
おかげでさらに複雑になり、このあたりの陣地名が特定できない。

写真手前左端の斜面は、この慰霊碑のある丘とつながった小山の斜面。
写真中央の推定、初期の「スズメ陣地」から、こちらを見ると動物が横たわっているように見える。
私ならば、この地形から、ここを「シシ陣地」と名付けるが・・・
この慰霊碑がある丘は「シシ陣地」ではないかという気がするのも、そのせいなのである。

 慰霊碑碑文(修復後)

この慰霊碑の建立に関わった人達は既に他界してしまっていて、建立した団体は消滅してしまっている。
当時の団体の長は、我が戦車第2師団の戦友会の初代会長なので、戦車第2師団戦友会の事務局長である私が無断で(笑)、修復作業をしても構わないだろうと・・・勝手に碑文の修復をすることにした。
7年前に来た時にかなり文字が消えかかっていたので気になって仕方がなかったのである。
修復と言っても、これといった正しい方法は知らないので・・・
ある意味、無責任かもしれないが・・・油性マジックで彫られた文字に“墨を入れる”方法とした。
碑文は、日本語、英語、フィリピン語の三ヶ国語で刻まれている。
特に文字が消えかかっていたのが、日本語とフィリピン語。
というわけで、日本語と、フィリピン語の碑文の修復を行う。
同行してきた「案内人」は、私が何をし始めたのかと唖然としていたが・・・(笑)
フィリピン語は、彼らに碑文を読み上げさせながら私が“墨を入れる”・・・
白い石版を彫った碑文なので、“墨が入って”いないと、一見、真っ白なだけで、指でなぞらなければわからない。
“L”なのか”I”なのか、“T”なのか“I”なのか・・・私には良くわからないのである。
修復中・・・
「どうだ!これなら読み易いだろう?」と言ったら、彼らも笑いながら頷く。
「こうしないと、良く見えないから、君達はこの文章を読まないだろう?」と言うとウンウンと頷く。(笑)
持参したマジック6本は、あっというまに芯の部分が磨り減ってしまい使い物にならなくなった。
が・・・無事、全ての文字の修復が完了した。
よし!
「これをよく読んで、勉強しなさい!」と私は偉そうなことを言い・・・(大笑)
今回の目的の一つは完了した。
あ~気持ちがいい!

フィリピン語の碑文(修復中) フィリピン語の碑文(修復後)

時刻はもう午後6時・・・・
そのうち・・・・ドド~ン、ドド~ンと遠くで砲撃のような音がする。
ん?まさかの砲撃?
いくら私の頭の中が昭和20年だとしても・・・そんなことはありえまい?
“空耳”?・・・幻聴か?
それとも、どこかで爆破工事でもしているのか?
と・・・どんよりと黒い雲が空を覆い出した・・・
ありゃ、もしかしたら、あれは雷鳴か?

急いで丘を降り、オマリオさんの家に戻る。
と・・・まもなく・・・・雷雨!
遠くの山に稲妻が光るのが見える。
いやぁ~危機一髪だったぁ~

この時期にこういう雷雨というのは珍しいような気がする。
過去に何度もこの時期にここに来ているが、雷雨に遭ったのは初めてである。
今は乾季なのに今年は何故か雨の日が多いと“オマリオ夫人”が言う。
異常気象なのだろうか?

まもなく車が無事に戻ってきた。
6人がかりで側溝から引き上げたそうである。
ドライバーが「ジャッキを使って持ち上げた」と言う。
石を運んで側溝に入れるのが大変だった、クタクタに疲れたと、やたらと言う。
更には、日本では運転手というのは給料はいくらくらいもらえるのか?
自分の会社は給料が少ないので生活するのが大変だ・・・
と、カネの話ばかりをする。
で・・・話は最初に戻って、石運びが大変だった・・・と、話がクドイ・・・
これだけ苦労したんだからそれなりのチップを弾んでもらいたいということらしい。
さすがに頭にきた!

私は普段は英語が話せないのだが・・・
不思議なことに頭に血が上ると話せるようになるのである。(笑)
「あんたは、プロのドライバーだよね?側溝に車を落としたのは、あんたの責任だよね?俺の責任じゃないよね?」
ドライバーは渋々頷いた。
「あんたはドライバーなんだから、責任を取るのは当然でしょ!俺があんたにカネを払う必要はないよね?」(怒)

車とドライバーの手配は、現地旅行社から下請けの配車会社に丸投げされる。
この不況で経営が苦しいのか、かなりケチってくれたようである。
山岳地帯に行くというのに、4WDではない車を押し付けたのは会社のせいかもしれないが、側溝に脱輪したのはドライバーの腕が悪いからである!
車がオンボロ・・・は、言い訳に過ぎない。

車の引き揚げてくれた村の青年達に謝礼金を渡す。
彼らはもちろん“オマリオ夫人”の教え子たちである。
私がカネを払うことなのか?・・・・という気がしないでもないが・・・
誰かが謝礼をせねばならないとなると、やっぱり私しかいないか?(苦笑)
一人当たり、いくらくらい欲しいかを尋ねて謝礼を支払ったが・・・
法外な謝礼金を要求してこなかったから良かったが、もしかしたらかなり遠慮した金額を提示したのかもしれないと後で思った。
悪いことをしたかな?
あれほど迅速に対応して重労働をしてくれたのだから、少し奮発してあげるべきだったか?





夕食
(オマリオ家)




(平成24年4月26日)

夕食は、持参した野菜等を使って、“ステラさん”と“オマリオさん”のところのメイドさんが作ってくれた。
“ステラさん”に同行してもらい大助かりである。
ご飯は、日本のご飯・・・・
これは日本の慰霊団が持ってきて余ったものを“ステラさん”が頂いたらしい。
それを“ステラさん”が持って来てくれたので・・・この日本のご飯を頂く。
ドライバーは私が何でも食べるので驚いたようで、“ステラさん”に何か尋ねたらしい・・・
この人は、フィリピンの食べ物は何でも食べられるから大丈夫だと言っておきましたと言う。(大笑)
普通の(?)日本人は、なかなかフィリピンの食べ物は食べられないそうで、食事には気を遣うという。
私は“雑食”なのだろうか?(笑)
食事に注文をつけないから私と一緒に行動しても楽だと“ステラさん”は言う。
ご飯も、フィリピンの少しパサパサして、少し黄ばんだような“蒸した”ご飯でも平気で食べられるのだが、普通の(?)日本人は駄目だそうである。
というわけで・・・慰霊団の人たちなどは、こういう日本のご飯を持参してくるのだそうだ。
へぇ~である。
私は腹が満たされればなんでもいいんですけど・・・・(大笑)
餓死した兵隊さんのことを思えば、多少のものは食べられるんですけど・・・

食後、テラスでコーヒーを飲みながら雑談・・・・
と・・・見知らぬ現地人が・・・(笑)
“オマリオさん”の家は、以前からそうなのだが、一体誰なのかわからない人が住み着いて(?)いたり、出入りしたりするのである。(笑)
こちらのほうでは、それが普通なのだろう。
特別、自己紹介も何もない・・・
家族ではない人だというのは間違いないが・・・この人・・・誰?(苦笑)
コーヒーカップを持って、”ステラさん”と私のところにやってきて、ス~ッと話に加わるのである。(大笑)
この人・・・顔かたち、肌の色からして山岳民族出身である。
とにかく不思議な人なのだ。
昔からの知り合いのような態度で接してくるのである。
身なりは日本の“ホームレス”のような格好をしているが、英語もキチンとした綺麗な英語を話すし、知識もある。
知識をひけらかすというより、知識に裏付けられた的確な質問をしてくる。
一体何者なのだろうと、ついつい彼の顔をマジマジと見てしまった。

太平洋戦争、特にフィリピン戦についての質問は的確である。
日本人でも、これほど的確な質問をしてくる人は滅多にないだろう。
簡単な会話は英語で受け答えして、難しい話はフィリピン語でやってもらい、“ステラさん”を通訳にして会話をする。
いやぁ~“ステラさん”に同行してもらい大助かりである。
以前は、日本語の話せないガイドと一緒だったので、通訳してくれる人がいなかった。
貧弱な英語を駆使して会話をせねばならず苦労をしたが、今回は楽チンである。(笑)

笑ってしまったのは・・・ゲリラの話・・・
彼の質問・・・「日本の共産党にはフィリピンの共産党のように軍事組織はないのか?」
「日本の共産党はフィリピンのように政府に対して武力闘争をしないのか?」
彼らからすれば、共産党には軍事組織があるのが当然で、共産ゲリラが政府軍と戦うのは当然だという認識らしい。
「日本の共産党には軍事組織はないよ」
「何で無いんだ?」
「え~と・・・根性が無いから・・・」(笑)
お~そうなのかぁ~と冗談話で大笑い!

そんなこんなの話をしているうち夜が深ける・・・
山村の人は寝るのが早い・・・
じゃぁ・・・ということで、私もゲストルームに戻り寝る。


  


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