(重要文化財)(現:あがたの森文化会館)
長野県松本市県3−1−1
平成20年10月26日
旧制松本高等学校
旧制高等学校は、明治27年の高等学校令によってそれまでの高等中学校から高等学校に改称し明治41年までに一高から八高までのいわゆるナンバースクールが開校となった。
大正時代に入ると、明治末期から成長した中流階級の高等教育への要求に応えるため、大正7年の新高等学校令により松本、新潟、山口、松山を始めとする地名を冠した高等学校が全国各地に開校された。
松本では、明治32年から20年の歳月をかけて高等学校の誘致活動を展開し、大正7年設置が決定となり、敷地2万坪、現金10万円、工事費10万円を寄付した。
敷地は、旧城下町の市街地から少し東に離れた場所が選ばれ、松本駅から校舎に向かう道は拡幅された。
大正8年9月今の史跡松本城の二の丸にあった松本中学校東校舎を仮校舎として開校し、翌9年8月に本館、11年8月に講堂が県の地に誕生した。
松本高等学校は、戦後の学制改革により廃止になるまで多くの人材を輩出し、唐木順三、臼井吉見、北杜夫、辻邦生らのなじみ深い文学者もこの学び舎で青春を謳歌していた。
昭和25年3月の卒業式を最後に松本高等学校は、新制大学(現信州大学)に生まれかわり31年の歴史に終止符がうたれたが、この間約5000人の卒業生を送り出している。
校舎は、昭和25年から信州大学の文理学部・人文学部校舎として昭和48年まで使用されたことにより、全国的に旧制高等学校の遺構が少なくなっている中で、当時の状況が最も良好に保存されている唯一のものといわれている。
このため信州大学が旭町キャンパスへ移転した後、市民や同窓会の強い願いによってヒマラヤ杉の並木とともに保存された校舎は、大正時代の代表的木造洋風建築で、学校建築史上貴重な建造物として、平成19年6月18日重要文化財に指定された。
大正デモクラシーの思想を反映した本館と講堂は、現在図書館も併設されたあがたの森文化会館として、隣接の旧制高等学校記念館とともに広く市民に親しまれている。
またかつてのキャンパスは「あがたの森公園」として市民の憩いの場となっている。
(リーフレットより)
本館内部 | |
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校長室 | |
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復元された校長室
校長室の広さは、4間×4間の16坪であり、小さな会議が開けるようなゆとりがある。
旧制高等学校の校長は、文部省によって選任され、かなりの権限を有していたが、その教育は、文部省つまり国家の意向とは異なり、校長や教師そして生徒の自覚によって、自治と自由を重んじる先進的なもので、いわば自由・平等・友愛の理念が息づく学園であった。
松本高等学校は、大正8年9月に開校し、校長室のある本館が完成したのは、大正9年8月であった。
初代校長茨木清次郎は、在任期間2年6ヶ月中この校長室での執務は、1年2ヶ月に過ぎない。
大正10年9月に特別教室棟が、大正11年8月に講堂が完成し、落成祝賀式を行ったのは、第2代校長大渡忠太郎であった。
ヒマラヤ杉(現在59本)の植樹など、植物学者としての才覚を活かした造園に取り組んで高原の学び舎という環境を造成し、自由闊達な校風の創成に力を注いだ大渡校長の功績は大きい。
4代校長のあたりから、のびのびとした松高にも激動の時代を反映した左翼思想事件などの様々な事件も起き、校長にとっての苦悩の時代に入るのであるが、校長室の椅子に座ってかつての松高時代を偲び、何かを感じ、そして学び取るようにしたい。
(リーフレットより)
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復元した門柱 (平成20年10月26日) |
復元した門柱について
旧制松本高等学校には大正8年開校以来、出入口の門は5個所ありましたが、戦後の学制改革により正門を除き解体撤去され講堂北側に野積みされていました。
校舎保存整備委員会の復元したらという意見を基に、ここ中庭の出入口に設置しました。
往年のものに近い仕上がりになっています。
対処の昔を偲んでいただけたらと思います。
あがたの森文化会館
松本高等学校同窓会
(説明板より)
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中庭 (平成20年10月26日) |
信州大学文理学部跡
戦後の学制改革により1949年文理学部は旧制松本高等学校を母体としてこの地に誕生しました。
爾来22年間で1300名の卒業生と医学部、農学部、工学部の教養課程の学び舎としても使用されてきました。
文理学部の改組により人文学部、理学部、経済学部が旭町キャンパスに新築移転され、その歴史を閉じました。
しかし主要な校舎は、先輩諸氏の献身的な保存運動と、市当局をはじめ関係各位の温かいご理解により文化財として保存され、市民の文化活動に活用されると共に憩いの場として愛されております。
開学五十周年にあたり、この地で過ごした青春のありし日の己を象徴した青年像「蒼穹」を記念碑として中庭に建立しました。
1999年10月
信州大学文理学部同窓会
(説明板より)
講堂 | |
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明治32年 | 第7高等学校として長野県誘致を文部省に請願 |
40年 | 松本市制施行 |
43年 | 第9高等学校として長野県誘致の内定をみたが内閣更迭で沙汰止み |
大正 6年 | 三たび高等学校の長野誘致を文部省に請願、内定する |
7年 | 松本市に高等学校設置決定 松本市は、敷地2万坪、現金10万円、工事費10万円寄付 |
8年 | 松本高等学校設立(4月) 9月11日松本中学校校舎を仮校舎として開校 文科甲乙、理科甲乙、計4組1学年定員160名 |
9年 | 県町に校舎(本館)落成 |
11年 | 講堂が建てられ全校舎落成 |
昭和 6年 | 満州事変おこる |
12年 | 日中戦争おこる |
16年 | 太平洋戦争おこる |
19年 | 通年学徒動員で授業全面停止 |
20年 | 8月15日終戦 |
22年 | 教育基本法、学校教育法公布 6・3・3・4制施行 |
24年 | 国立学校設置法により国立新制大学発足 長野県下の高等学校、専門学校7校を統合して信州大学設立 松高校舎は信州大学文理学部となる |
25年 | 3月第29回生卒業 松本高等学校閉校 31年間の卒業生は、約5000人 |
42年 | 信州大学の学部再編により文理学部が理学部と人文学部に分かれる 旧松高校舎は、人文学部校舎となる |
48年 | 4月人文学部は、旭町キャンパスに移り校舎は、閉鎖される この頃から保存運動おこる |
52年 | 3月松本市は、建物及び敷地の一部を約7億円で国から買い取る 文化財として保存と活用をきめ、以後施設の補修等実施 |
54年 | 10月1日『あがたの森文化会館』として開館 「あがたの森公民館」「あがたの森図書館」を併設 |
56年 | 2月2日、本館、講堂とも長野県宝に指定される 7月1日「旧制松本高等学校記念館」開設 校舎内で松高時代の資料を公開 |
58年 | 3月、松高時代から60年余の歴史をもつ信大思誠寮が移転となり、取り壊される |
平成 5年 | 7月「旧制高等学校記念館」が本館東側に新設開館 |
10年 | 講堂ならびに本館の大修復工事に着手 |
13年 | 3月、講堂修復工事完了(工期平成10年度〜平成12年度) |
17年 | 8月、本館修復工事完了(工期平成14年度〜平成17年度) |
19年 | 6月18日、本館及び講堂は重要文化財に指定される |
(リーフレットより)
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