松本重太郎 まつもと・じゅうたろう

天保15年10月5日(1844年11月14日)〜大正2年(1913年)6月20日


幼名は松岡亀蔵。
京都、大坂の繊維問屋に奉公後、独立して洋反物・雑貨商店『丹重』を開業。
松本重太郎に改名。
洋物で巨利を得、実業界に進出。
明治11年(1878年)に第百三十国立銀行を設立したのを始め、大阪紡績、山陽鉄道、明治生命保険、大阪麦酒など多数の企業に関与した。


松本重太郎翁墓



南海電鉄創業者 松本重太郎翁墓
(和歌山県伊都郡高野町・高野山奥の院)




(平成21年4月9日)

関西私鉄王 松本重太郎翁墓

ここに眠る松本重太郎翁は、難波と高野山を結ぶ南海電気鉄道の前身、阪堺鉄道の創業者であり、初代社長をつとめたのをはじめ、銀行家、企業経営者として、明治中期の傑出した財界人である。
翁は弘化元年(1844)、京都府下は丹後の国竹野郡間人たいざ村に生まれた。
生家は半農半漁、幼時から利発で早くも10歳にして京都へ上り、商家に奉公3年、安政3年(1856)には宿願の大阪へ出て、天満の木綿商の大店、綿屋利八の丁稚となった。
ここで精励10年余を過ごし、上方商法を身につけた。
しかも仕事の余暇には町の儒家・小田奠陽てんようについて漢籍の勉学にいそしんだ。
23歳で独立、折しも明治維新、文明開化の社会変革に際会し、堺に神戸にと木綿をはじめ洋品雑貨の商売に明け暮れる。
さらに明治7年の台湾出兵、同10年の西南の役には政府の御用商人として活躍、巨利を得た。
時流を見抜く眼は単に物品販売商人として満足せず、明治11年に第百三十銀行を創立、同15年には大阪紡績の創業に参画、その初代社長となった。
街の一商人から銀行化へ、さらに近代日本の産業の基礎をつくった紡績事業へ、いわば産業家として見事な大変身を遂げたのである。
そして明治18年には、わが国私鉄のさきがけとなる「阪堺鉄道」(南海電鉄の前身)創業の先頭に立ち、以来20年間その社長職の重責を全うした。
かたわら九州鉄道、阪鶴、讃岐、豊川、七尾等の各私鉄の建設にも参加して「関西の私鉄王」」の名をほしいままにした。
ほかにも朝日麦酒、日本精糖その他40余を超える事業に直接、間接に関与して、五代友厚なきあと明治中期の大阪財界最高の指導者の一人であった。
門閥なく、藩閥なく、裸一貫から身を起こし、近代産業興起に大きな役割を果たした人物として、その功績は偉大である。
大正2年(1913)没。

昭和59年3月
南海電気鉄道株式会社

(説明板より)


【松本重太郎】

10歳のとき、「大商人になる」という志を抱いて京都の呉服商へ丁稚奉公に出て、3年ほど勤める。
安政3年(1856年)、「病気療養のため帰郷する」と偽って店を辞め、兄を頼って大坂の呉服商に移る。
慶応年間(1865年〜68年)ごろに独立したようで、堺に行って木綿を仕入れ、大坂に戻って売り歩くという商いを細々としていた。
そのうちに神戸で洋物雑貨を仕入れ、大坂で売るようになった。
この頃、神戸で岩崎弥太郎から声をかけられ、西洋ロウソクを買い入れたという逸話も伝わっている。
明治3年(1870年)、大和屋やまとやという大商人などが大金を貸してくれ、船場せんばに「丹重たんじゅう」(丹後出身の重太郎の意味)という店を構える。
船場の「丹重」は洋物反物たんものと雑貨を扱い、商いを伸ばす。
明治10年(1877年)、西南戦争で、軍服を作るためのラシャを大量に仕入れて売りさばき、巨額の利益をあげた。

この男の面白いところは、千載一遇のチャンスを掴んで大成功を収めたときに「これはまぐれだ」と本当に思ったところだという。
大商人になるという夢が達せられた後、「自分の利益ではなく、国家、公の利益を求めたい」と今後の商いを考えたという。

明治12年(1879年)、資本金25万円で第百三十銀行を設立し、取締役兼支配人となり、翌年には頭取に就任する。
明治15年(1882年)、関西実業界の大物・藤田伝三郎らと共に、初めての民営紡績工場となる大阪紡績(現在の東洋紡)を立ち上げる。
ほかに、大阪麦酒(現在のアサヒビール)、大阪毎日新聞(現在の毎日新聞)など多数の企業に関与した。

特筆すべきは鉄道事業で、あわせて9社の私鉄に関わり、社長を務める会社の営業距離の長さから「日本の私鉄王」と呼ばれたほどだった。
明治17年(1884年)、阪堺はんかい鉄道を設立、翌年、自ら社長となり創業する。
国鉄は東海道線といった基幹路線に集中していて、地域の鉄道まで手が回らない。
それならば、民間の手で整備すればいいと、大阪と堺を結ぶ路線を作った。
まさに国家、公の利益を目指した事業だった。

明治21年(1888年)、神戸から下関を結ぶ山陽鉄道(現在のJR山陽本線)設立の発起人に名を連ねる。
しかし、明治25年(1892年)に資金難で鉄道建設が滞り、初代社長が辞任。
重太郎が後を受けて社長となり、明治27年(1894年)、神戸から広島までの路線を完成させた。
おりしも日清戦争が始まるという時で、山陽鉄道は兵員や物資の輸送に多大な貢献を果たした。

明治28年(1895年)、大阪の難波から和歌山や高野山への路線を持つ南海電気鉄道の前身である南海鉄道が誕生。
初代社長に就任し、阪堺鉄道の事業をこの新会社が譲り受けた。
南海鉄道は明治39年(1906年)に、日本の私鉄で初めて食堂車の営業を開始する。

明治20年代から30年代にかけて、大阪の実業界における重太郎の存在は絶大だった。
義侠心に厚く「頼られる男」だったためと思われるが、それは反面、銀行家としての欠陥となり、明治37年(1904年)に第百三十銀行が破綻する。
すでに日露戦争が始まっており、金融不安の拡大を避けるため、政府は切れ者の銀行家・安田善次郎に第百三十銀行の再建を懇願。
渋っていた安田がようやく引き受け、大阪に乗り込んできた時に、重太郎は資産をそっくり差し出して実業界を去り、ついていた役職はすべて辞任した。
堂島にあった1000平方メートルの屋敷は人手に渡り、借家住まいとなる。
この時、重太郎、61歳。
のちに旧知の棟梁の斡旋で、空堀という地にある貸家に腰を落ち着け、大正2年(1913年)6月まで隠棲し、70歳で永眠した。
本葬では棺の後に従って歩く人の列が2〜3kmに及んだという。

(参考:『歴史街道 2012年9月号』)

(平成25年9月23日 追記)




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