三吉慎蔵 みよし・しんぞう

天保2年10月11日(1831年11月14日)~明治34年(1901年)2月16日


【三吉慎蔵】

長門国長府の長府藩士・小坂土佐久郎こさかとさくろう(時伴ときとも)の二男として生まれる。
天保8年(1837年)に田辺惣左衛門たなべそうざえもんの養子となり、さらに安政4年(1857年)に三吉十蔵じゅうぞうの養子となった。
この間、長府藩の藩校・敬業館けいぎょうかん、ついで本藩である長州藩の藩校・明倫館めいりんかんに入学。
特に宝蔵院流槍術に才を発揮し、長州藩師範・小幡源右衛門おばたげんえもんから免許を得る。
安政5年、藩主毛利元周もとちかに随行して江戸へ出府。
文久元年(1861年)には伊勢大神宮へ代参した。
文久3年の下関における攘夷戦では藩の軍議に与あずかり、大砲鋳造取締方を勤める。
八月十八日の政変では、京都の政情を藩主に報じ、精兵隊せいへいたい肝煎きもいり・取締向を命じられる。
慶応2年(1866年)正月、坂本龍馬と出会う。
この月、藩から坂本龍馬に同行して情勢探索に当たるべき内命を受け、龍馬と共に上京した。
龍馬らの仲介により薩長同盟の成立した直後、伏見の寺田屋で龍馬と共に幕吏の襲撃を受け、得意の槍でその危機を救った。
帰藩して復命した際、このときの行動を藩から「武門の嗜たしなみ宜よろしく、奇特の至」と賞され、禄高を加増された。
またこの一件で、慎蔵は龍馬の厚い信頼を得たようで、翌慶応3年5月には、龍馬は慎蔵宛ての書状で自分に関して「万一の御報知」のあった場合の、妻おりょうのことを託している。
11月に龍馬が暗殺されると、慎蔵はこの遺書ともいうべき書状に従い、おりょうと妹の君枝きみえを一時保護した。
明治初年には宮内省などに勤めたが、明治23年(1890年)辞職。
長府に帰郷し、同地で病死する。
享年71歳。

(参考:『歴史読本 2004年7月号』より)


寺田屋



寺田屋
(京都市伏見区南浜町)





(平成19年9月2日)
坂本竜馬先生の部屋



坂本龍馬先生の部屋
(寺田屋・梅ノ間)





(平成19年9月2日)

坂本龍馬先生は薩摩藩の紹介で寺田屋を京の宿として利用されました。
この梅ノ間はその当時、龍馬先生が愛用された部屋で、慶応2年(1866)1月23日幕吏の襲撃を受けた時もこの部屋に泊まっておられました。
この時は負傷しながらも脱出に成功し薩摩藩に保護されたと伝えられています。
また、梅ノ間に掛る龍馬先生の掛軸は、幕末の風雲急を告げ薩長連合に東奔西走する龍馬の身に忍びよる殺気を感じた女将お登勢が嫌がる龍馬先生に奨めて街の画家に描かせた龍馬先生遭難直前の生彩えきえきたる絵像です。
計らずもこれが絶後のものとなり京都円山公園の銅像のモデルとなりました。

(リーフレットより)






従六位三吉慎蔵墓
(山口県下関市・功山寺)




(平成23年9月14日)

龍馬の大親友
長府藩士:三吉慎蔵墓所


龍馬の盟友である長府藩士三吉慎蔵の墓所。
龍馬から生きて本懐を遂げることを教わった慎蔵は、維新後その死の直前まで長府毛利家に仕えました。
明治34年(1901年)、慎蔵が亡くなると、長府藩14代藩主毛利元敏もととし公は、慎蔵の死を悼み、毛利家墓所に近いこの地を下賜し、慎蔵の墓を建てるよう命じたといいます。

(説明板より)





山門

(山口県下関市・功山寺)




(平成23年9月14日)

下関市指定文化財(建造物)
功山寺山門

指定年月日 昭和45年3月4日

この壮大な二重櫓造り功山寺山門は、安永2年(1773)長府藩主 十代 毛利匡芳の命により建立(再建)されたものです。
山門(三門)とは、本堂へ入るのに通らねばならない門、三解脱門さんげだつもん(空くう・無相むそう・無作むさ)にたとえ、その略からといわれています。
禅宗の門にみられる三間三戸さんけんさんこ二重門。
二階楼上に釈迦・十六羅漢を置くのが普通ですが、この櫓の中には市指定文化財(彫刻)の二十八部衆立像が、国宝の仏殿の中から移されて安置されています。
建築様式の特色として、土間に自然石の礎石(礎盤)を並べ、本柱4本と控柱8本で支えられた重厚な門、入母屋造り、本瓦で葺かれた屋根は見事な反りを見せています。
また櫓を支えている太い12本の柱は全て円柱で柱の上部を僅かに円く削り込み、その下部先端は急に細めた、粽ちまき型となっています。
山門の建築資材は、これまでに度々修理が施されていますが、その箇所を除いて、すべて欅けやきの素木を用いて建てられています。
木鼻きばな等の彫刻物、および組物を含め簡素な中にも重厚さを秘めた功山寺の山門は、この時代の禅宗様式を今に伝える貴重な文化財です。

下関市教育委員会

(説明板より)





仏殿
(山口県下関市・功山寺)




(平成23年9月14日)

国宝(建造物)
功山寺仏殿

桁行三間けたゆきさんけん 梁間三間はりまさんけん 一重ひとえもこし入母屋造いりもやづくり 檜皮葺ひわだぶき
指定年月日 昭和28年11月14日

鎌倉時代末期の唐様からよう(禅宗様)建築様式の典型的な建造物です。
床は四半瓦敷しはんかわらしき、礎石と柱の間に木製の礎盤を入れ柱は上下部分が細く粽ちまき型になっています。
見事な曲線美を見せる檜皮葺、入母屋造りの屋根を支えている化粧棰けしょうたるきは天井中央より放射状に配置され、扇棰おうぎたるきとも呼ばれています。
また、二重屋根の内部の組み上がり高さが異なった箇所を補うために海老虹梁えびこうりょう(梁はりと同意)が用いられています。
さらに前面両角には釣鐘つりがね型の特徴をもった花頭窓かとうまどを有するなど、わが国最古の禅寺様式がよく残されており、鎌倉の円覚寺えんかくじ舎利殿しゃりでん同様、寺院建築史上、貴重な建造物です。
この仏殿は、内陣ないじん柱上部に「此堂元應げんおう二年卯月五日柱立」の墨書があることから、西暦1320年に建てられたものとみられています。
功山寺はもと臨済宗・長福寺と呼ばれていましたが、毛利秀元により曹洞宗・笑山寺と改称、さらに慶安3年(1650)秀元の没後、戒名(功山玄誉大居士)をもって功山寺と改称しています。

平成5年7月

山口県教育委員会
下関市教育委員会

(説明板より)





功山寺
(山口県下関市長府川端1-2-3)




(平成23年9月14日)

功山寺(長府川端)

曹洞宗。
嘉暦2年(1327)の創建。
当初は臨済宗で金山長福寺と称し、足利氏、厚東氏、大内氏など武門の尊敬あつく隆盛を誇ったが、弘治3年(1557)大内義長がここに自刃、この戦乱によって一時堂宇の荒廃をみた。
その後、慶長7年(1602)長府藩祖毛利秀元が修営、旧観に復し、曹洞宗に転宗した。
2代藩主光広が、秀元公の霊位をこの寺に安置して以来、長府毛利家の菩提寺となり、秀元の法号、智門寺殿功山玄誉大居士にちなんで功山寺と改称した。
現在の仏殿は、元応2年(1320)の建立で典型的な鎌倉禅宗様式として国宝に指定、10代藩主匡芳の時、当地工匠の作による山門は市指定文化財となっている。
その他境内には、県文化財の木造地蔵菩薩半跏像をはじめ、大内義長の墓と伝えられる宝篋印塔、五卿西下潜居の間、高杉晋作挙兵の処など数々の史跡や文化遺産が残されており、境内地(付、伝大内義長の墓)も記念物として市文化財に指定されている。

(説明板より)




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