奥平内蔵允


奥平内蔵允の墓



右:奥平内蔵允の墓
(栃木県宇都宮市・興禅寺)





(平成20年7月19日)

奥平内蔵允の墓と歴史

寛文8年(1668)2月19日宇都宮城主奥平美作守忠昌が逝去し、その二七日忌が3月2日興禅寺において営まれし際 家老奥平内蔵允正輝(39才)と同奥平隼人守雄(34才)が口論から刃傷となり 内蔵允は手傷を受け4月22日憤死した
その子源八正武(11才)は暇を貰い芳賀郡深沢村に隠れ住み 一族42名と共に日夜苦心を重ね父の仇の奥平隼人を狙うこと4ヶ年 遂に寛文12年2月3日早朝 江戸牛込浄瑠璃坂で奥平隼人等仇20数人を討取り 父の恨みを晴らした
この歴史は 江戸時代の三大仇討として全国に流布され 30年後に赤穂浪士が討入りの参考にしたとされ誠に著名である
墓は向かって右が奥平内蔵允 左は内蔵允の母である
内蔵允三百年遠忌に当り墓を整備し碑を建立す
尚源八正武の墓は滋賀県彦根市の井伊家菩提寺弘徳山龍潭護國禅寺に有る

昭和53年11月
河北禅林興禅寺第廿世元海代
下野歴学会会長 徳田浩淳 撰文
深沢法幢寺住職 松山良準 謹書
奥平内蔵允子孫 高山悌二 建立

(側碑・碑文より)

興禅寺



興禅寺
(栃木県宇都宮市今泉3−5−13)





(平成20年7月19日)



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