平成21年11月7日

瀬川正三郎 せがわ・しょうざぶろう

明治23年(1890年)2月14日〜昭和47年(1972年)12月15日

岩手県盛岡市・盛岡城(岩手公園)でお会いしました。


瀬川正三郎像



瀬川正三郎像

(岩手県盛岡市・盛岡城・岩手公園毘沙門橋際)





(平成21年11月7日)

碑文

瀬川正三郎先生のご遺徳を偲び郷土盛岡に後進一同之を建立す
昭和50年11月23日
胸像建設委員会 代表 藤田喜平
胸像制作者 舟越保武


大正6年(1917年)岩手師範学校教諭心得。
大正15年(1926年)盛岡中学校教諭。
昭和6年(1931年)退任。
その後、盛岡市消防団長、盛岡市体育協会会長等を務める。

盛岡中学の柔道教師を辞めたのち、市内加賀野の自宅で柔道整復師を業とし、骨折した人々の治療にあたった。
治療に当たっては、困っている人や小学生・中学生からはお金をとらなかったことで知られている。
昭和14年(1939年)4月1日に、盛岡市警防団副団長に就任したのが、社会公共に携わった始まりで、翌年6月1日には警防団長に就任。
終戦後、盛岡市消防団長に就任し、長期間にわたる。
この間に、国家消防本部長より消防功労賞を受賞。
昭和45年(1970年)、岩手国体に際し、既に消防団長を退いて80歳となっていたにも拘らず、団長就任の懇請に応じ、「さわやか国体」の期間を中心に、消防団長としての重責を全うした。
昭和46年(1971年)12月27日、消防団長を辞任し、その1年後に逝去された。
また、自宅から川留稲荷までの200m、左右400mにわたり雪除けしたことも有名。
昭和50年(1975年)11月23日、瀬川正三郎先生を敬慕する盛岡中学の教え子、また消防関係者等の醵金きょきんにより、岩手公園の毘沙門橋際に胸像が建てられた。
講道館の「精力善用、自他共栄」を文字通り実践された人である。

(参考:盛岡市先人記念館発行 『盛岡の先人たち』 平成20年第2刷増刷)



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