平成17年9月30日

スクリバ Julius Karl Scriba

1848年6月5日〜1905年1月3日

東京大学医学部付属病院の向側でお会いしました。


ハイデルベルク大学・ベルリン大学で医学を学び、明治14年(1881年)東京大学医学部の外科教師として来日。
外科の他に皮膚科、梅毒の講座を担当。
内科のベルツと並んで東京大学医学部初期の名外科医として知られ、1901年に退職した後は聖路加病院外科主任となる。


スクリバ像とベルツ像


右:スクリバ像
左:ベルツ
(東京大学敷地内)




(平成17年9月30日)

東京大學名譽教師ベルツ先生(在職1876〜1902)同スクリバ先生(在職1881〜1901)は本學部創始のころ20年以上にわたってそれぞれ内科學外科學を教授指導しわが國近代医學の眞の基礎を築いた恩人である
この碑は両先生の功績を記念するため明治40年4月4日(1907)建設せられたがこのたび医學部總合中央館の新築にともなって昭和38年11月3日(1961)原位置の北方約60メートルのこの地点に移した

東京大學医學部

(説明碑文より)

加州大聖寺藩江戸上屋敷址



加州大聖寺藩江戸上屋敷址
(東京大学構内のスクリバ像・ベルツ像の脇)




(平成17年9月30日)

大聖寺藩由来記

寛永16年(1639)6月20日加賀藩3代藩主前田利常公は47歳の若さで小松に隠居し、嫡子光高に加賀藩80万石を、二男利次に富山藩10万石を、三男利治に大聖寺藩7万石を与え分封した。
大聖寺藩領は江沼郡全域(133ヶ村)と那谷村及び能美郡6ヶ村を加えたものであった。
9代藩主利之の文政4年(1821)新田1万石、加賀藩から現米2万俵を受け加賀藩からの願出により幕府から10万石の待遇を公認された。
以降14代利■まで10万石として明治4年(1871)廃藩置県により、大聖寺県となるまで続いた。
久谷焼は初代藩主利治が後藤才次郎に命じ、領内久谷村に窯を築き産出したと伝えられており、その窯跡は国指定史跡「久谷磁器窯跡」として残されている。
この地大聖寺藩江戸藩邸(5,997歩)跡を史実の証として石碑を設立し、後世に伝えるものである。


平成10年1月

(説明碑文より)

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