鈴木鎮一像 平成20年10月25日

鈴木鎮一 すずき・しんいち

明治31年(1898年)10月17日〜平成10年(1998年)1月26日

長野県松本市・「鈴木鎮一記念館」でお会いしました。


「スズキ・メソード」創始者。
明治31年(1898年)、日本で初めてバイオリンの製作を始めた鈴木政吉(安政5年〜昭和22年)の二男として、愛知県名古屋市に生まれた。
家業のバイオリン工場の経営を継ぐことをにらんで、明治43年(1910年)に市立名古屋商業学校(現・市立名古屋商業高校)へと進む。
大正5年(1916年)、商業高校を卒業して父の経営するバイオリン工場を手伝い始めたが、まもなく体を壊し療養を余儀なくされる。
転地療養に向かったのは興津(現・静岡市)。
ここで北海道根室の実業家である柳田一郎と知り合う。
療養を終え名古屋へ帰ってしばらく後に柳田から徳川義親一行の北千島・占守島探検旅行同行の誘いの手紙を受け取る。
早速上京し、徳川侯爵を訪ね、同行を許される。
一行は総勢13名。
ほとんどが徳川生物研究所のメンバー。
鎮一は持参したバイオリンを奏でる毎日を過ごしたが、この時、徳川侯爵から音楽の勉強をしたらどうかと勧められる。
しかし、本人は職業音楽家になる気はまったくなかった。
ただ「芸術とは何か」という疑問を解決しようと、我流で弾いていただけだったのである。
21歳。東京の徳川邸に居候して、バイオリニストの安藤幸に師事。
東京音楽学校の受験を目指し音楽を学び始めるが、受験を突然やめてしまう。
理由は、卒業生たちの演奏を聴いていて「たとえ入学しても卒業の時にこの程度では・・・」と落胆したためだという。

東京へ出て1年半がたったころ、徳川侯爵から世界一周旅行の計画を持ちかけられる。
徳川侯爵から「ベルリンまで同行して、そこに居ついてしまえばいい。金があるだけ留まってバイオリンを勉強すればいい」と勧められ、大正10年(1921年)10月27日、徳川侯爵に同行して旅に出る。
約1ヶ月後で欧州に入り、マルセイユに着くと徳川候一行と別れてベルリンへ向う。
ベルリンでは当時最も人気の高かったバイオリニストのカール・クリングラーの唯一の内弟子となる。
また、懇意にしているドイツ人医師の紹介で、アルバート・アインシュタインとも知り合う。
ベルリンに滞在して3年もたつと、あちこちで開かれるホームパーティーで演奏を依頼される。
そいういパーティーで、当時17歳だったワルトラウト・プランゲというドイツ人女性と知り合い、5年の交際の後、昭和3年(1928年)2月8日、結婚。
このころ、鎮一は日本に帰る気はなく、スイスに住むつもりでいたが、母親の危篤の報を受け妻を連れて帰国する。

帰国してまもなく母が亡くなり、世界恐慌で父親のバイオリン工場が倒産、父親は全財産を失う。
これをきっかけに名古屋から東京へ居を移す。
鎮一の呼びかけで名古屋で結成し、ステージやラジオなどで演奏活動を始めていた鈴木カルテットも活動拠点を東京へ移し、時に日本ツアー公演などを行った。
当時、国内には室内楽を専門とする団体はほとんどなかった。
演奏活動のかたわら帝国音楽学校と国立音楽学院(現・国立音大)で、後進の指導を始めるが、このころから自宅にもバイオリンを習うために小さな子どもたちが出入りするようになる。
最初の生徒は、当時4歳の江藤俊哉(のちの桐朋学園大学院学長)。
「日本の子供たちばかりでなく、世界中の子供たちが実はみな、よい頭脳の持主であるのだ。むずかしい高度な母国語を楽々と話すようになる頭脳・・・・それはすぐれた頭脳でなければできないはずじゃあないか」
「天才という生まれつきの才能はない。そのように育てられた人間に対する尊称なんだ」
鎮一は、自分の考えを証明するために、いっそう幼児のバイオリン教育に力を入れた。
この時自ら作ったガリ版刷りの教材が、後に世界中で親しまれる「バイオリン指導曲集」全10巻となる。
太平洋戦争後、松本で文化人らが中心となり音楽学校を作ろうという話が持ち上がり、これに参画する。
昭和21年(1946年)、音楽院の初代院長に就任し、以後松本に60年間を過ごすことになる。
音楽院を拠点に、才能教育研究会の前身となる全国幼児教育同志会を設立し、才能教育運動の第一歩踏み出す。
2年も経つと県内に次々と支部ができ、名称も「才能教育研究会」に改称。
自費出版した本を携え、精力的に公演活動を展開し、鎮一が歩いた地には、次々と才能教育の支部が設立された。
「能力は生まれつきではない」という鎮一の考え方は、非行に走った子供についても例外としなかった。
昭和25年8月には、幼い生徒たち10人余りを伴い、松本少年刑務所を訪れて演奏を聴かせ、すべての人間が有能だと説いた。
この少年刑務所への慰問は、その後もずっと続けることになる。
この頃、教え子の豊田耕兒(のち才能教育研究会会長)はパリへ留学、のちにベルリン放送交響楽団(現ベルリン・ドイツ響)の第1コンサートマスターの地位に就く。
また、江藤俊哉は全米デビューを果たしてカーティス音楽院の教授に就任。
同じく教え子の小林武史・健次兄弟はそれぞれ欧米の第一線で活躍。
鈴木秀太郎はカナダのケベック交響楽団でコンサートマスターとなっている。
教え子たちは世界の楽壇で花咲きつつあった。

「能力は生まれつきではない」
「どの子も育つ。育て方ひとつ」
「人は環境の子なり」
鎮一の考え方は次第に浸透し、昭和24年(1949年)には首都圏と中部地方で35教室、生徒は1500人を数えるまでになる。
昭和26年、才能教育研究会は社団法人化を果たす。
昭和30年に東京体育館で第1回全国大会が開催され、1200人の子供による大合奏が大きな反響を呼んだ。
早期幼児教育への必要性は音楽に留まらず、鎮一が唱えた九九を使った能力開発の方法は松本市内の小学校で実践され、その大きな効果が裏付けられた。
しかし、いわゆる「天才」や英才教育を否定し「すべての子供が等しく能力を持つ」とする鎮一の考え方には教育界からの反発も大きく、「能力には遺伝的な要素が関係している」と主張する遺伝の権威の大学教授と公開討論の場で「対決」させられている。

昭和27年、松本に来演した名ピアニストのアルフレッド・コルトーは、見事にバイオリンを弾く子供たちに目を丸くした。
昭和28年には現代フランスの文学者であり文芸批評家でもあるジョルジュ・デュアメル、昭和35年にはウィーン・アカデミー合唱団、昭和36年にはチェロの巨匠パブロ・カザルスらが鎮一の教え子の演奏を聴き、感嘆の声を上げた。
この独特の音楽教育法が起こした「奇跡」の噂は、やがてヨーロッパにも伝わっていった。

昭和33年、米国オハイオ州で開かれた弦楽教育者会議で、才能教育研究会第1回全国大会で行われた1200人の子供たちによる大合奏の記録映画が紹介され、出席者を驚かせた。
昭和39年、66歳の鎮一は、5歳から12歳までの10人の子供たちとともに初のアメリカ演奏旅行を行う。
国連本部やフィラデルフィアでの世界音楽教育者会議など3週間で26公演を行った。
バイオリン教育の世界的権威である、ジュリアード音楽院のイヴァン・ガラミアン教授が「これは驚異だ」と評するなど、全米各地で「スズキ・インパクト」と称される大きな反響を巻き起こした。
「私たちにとって、音楽家を育てることが第一の目的ではない。よい市民を、立派な人間を育てたい。もし子供たちが、生まれた時から立派な音楽を聴き、自分で演奏することを学ぶなら、彼らは優れた感受性や忍耐力などを能力として持つとともに、美しい心のひととなるでしょう」と初訪米の際、鎮一は「ニューズウィーク」のインタビューに答えている。
昭和40年代以降、才能教育の国際化はさらに進み、海外の支部も増えた。
海外でのメソードへの評価も高まり、ドイツ政府からの受章や欧米の大学からの名誉博士号の贈呈も相次いだ。
しかし、鎮一は1日に何人もの子供たちおレッスンし、講演に飛び回るという生活を変えようとはしなかった。

平成10年(1998年)1月26日朝、99歳でこの世を去る。
米国のニューヨーク・タイムズ紙は、日本国内の新聞よりもはるかに広い紙面を割いて、鎮一の大きな写真と業績とともに、その訃報を伝えた。

(参考:冊子『凛として』〜産経新聞掲載記事集〜)


スズキメソード発祥の地
鈴木鎮一記念館
松本市名誉市民 鈴木鎮一先生
1898年  名古屋市に生まれる。
1916年  名古屋商業学校卒業。
1921年  ドイツ留学。
1928年  ドイツより帰国。
1931年  ロシアのバイオリニスト、アレキサンダー・モギレフスキー教授らとともに、帝国音楽学校を設立。
教授に就任。
その後、校長に就任。
1946年  松本において才能教育運動を開始。
1951年  第2回中日文化賞を受賞。
1961年  第7回信毎文化賞を受賞。
1966年  米国ボストンのニューイングランド大学から名誉音楽博士の学位を授与される。
1967年  米国ケンタッキーのルイビル大学から名誉音楽博士の学位を授与される。
1969年  ベルギー国ユージン・イザイ財団からイザイ賞を授与される。
1970年  勲三等瑞宝章を授与される。
1972年  米国ニューヨークのロチェスター大学から名誉音楽博士の学位を授与される。
1973年  人間能力開発機構スペクトラ賞を授与される。
1976年  第6回モービル音楽賞を授与される。
1978年  米国ジョージア州アトランタ市の名誉市民となる。
また、鈴木チルドレンのコンサートの行われた4月14日はアトランタ市の「鈴木の日」となる。
1979年  松本市の名誉市民となる。
1982年  ソロプチミスト日本財団から第1回千嘉代子賞を受賞。
フランス国から教育功労勲章を授与される。
米国イリノイ州が10月3日を「鈴木の日」と制定。
米国ミシガン州モンロー市の名誉市民となる。
ノースイースト・ルイジアナ大学から名誉博士号を授与される。
1983年  国際交流基金賞受賞。
1984年  米国オハイオ州オベリン大学から名誉音楽博士号を授与される。
1985年  ドイツ連邦共和国功労勲章一等功労十字章を授与される。
イタリア国ベネチア賞協会からベネチア賞を受賞。
1990年  米国クリーブランド音楽大学から名誉音楽博士号を授与される。
1992年  米国ニューヨーク州イサカ大学から名誉音楽博士号を授与される。
1993年  米国メリーランド州立大学から名誉博士号を授与される。
1996年  松本市に鈴木鎮一記念館が開館。
1998年  1月26日永眠。
99歳。

(鈴木鎮一記念館リーフレットより)

「どの子も育つ、育て方ひとつ」の碑


「どの子も育つ 育て方ひとつ」の碑
(長野県松本市・鈴木鎮一記念館)

制作者 日展会友委嘱 洞澤今朝夫
施工  株式会社山口石材



(平成20年10月25日)

鈴木メソード発祥の地

鈴木鎮一記念館は、松本市名誉市民、鈴木鎮一先生が、昭和26年から平成6年まで住まわれた邸宅で、スズキメソード発祥の地です。
邸宅には、カザルスやロストロポービチなど、世界の巨匠たちもたびたび訪れており、そのたたずまいを今に残しております。
記念館は、鈴木先生が、世界的な視野でご活躍された業績を称える数多くの資料を公開展示、スズキメソードの真髄を知ることができます。

(鈴木鎮一記念館リーフレットより)

鈴木鎮一記念館

開館時間:午前9時〜午後5時
休館日:毎週月曜日(ただし祝日の時は開館し、翌日休館)
     年末年始(12月29日〜1月3日)
入場料:無料



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