徳川義親像 平成22年4月5日

徳川義親 とくがわ・よしちか

明治19年(1886年)10月5日〜昭和51年(1976年)9月6日 (9月5日?)

愛知県小牧市・小牧山城でお会いしました。


元越前藩主・松平慶永よしなが(春嶽)の末子(五男)。
尾張徳川家・徳川義禮の養子となる。
尾張徳川家第19代当主(侯爵)
東大卒
3月事件(昭和6年の陸軍中堅幹部によるクーデター未遂事件)では資金を提供した。
太平洋戦争中、軍政顧問としてシンガポールに赴任。
徳川生物学研究所・徳川林政史研究所を設立。


徳川義親像


尾張徳川家十九代
徳川義親氏之像
(愛知県小牧市・小牧山城



(平成22年4月5日)

碑文

小牧山は、昭和5年10月尾張徳川家19代徳川義親氏により小牧市に贈られて以来、自然公園として広く一般市民に親しまれ愛されてきました。
小牧山が贈られて満55年、しかも市制施行30周年の意義深い機会をとらえ、徳川義親氏のご厚志に報い、そのご遺徳を永く後世に伝えるため、広く市民の浄財を得て同氏の銅像をここに建立しました。

昭和60年10月吉日
徳川義親氏顕彰会


【徳川義親】

“最後の殿様”といわれた徳川義親は、戦前の国家主義団体・大化会の清水行之助や、国家主義者の大川周明、2・26事件に連座して銃殺刑に処せられた北一輝などと親交があり、三月事件の資金を提供したことでも知られている。

(参考:佐野眞一 著 『阿片王 満州の夜と霧』 2005年発行 新潮社)

(平成27年10月13日追記)


【義親の50万円】

昭和6年3月18日(「三月事件」決行2日前)、河本大作(張作霖爆死事件の張本人)という風雲児が、突然、小磯国昭を訪ねた。
河本は、宇垣一成が「三月事件」を断念しても大川周明一派(ことに大行社の清水行之助は、すでに擬砲弾300発を手に入れ、着々と決行に向かっていた)は単独実行しようとしている、と小磯に告げた。
小磯はびっくりして、河本が徳川義親侯を知っているというので、義親侯によって大川周明を断念させてくれと依頼した。
義親侯は、大川一派に50万円の活動資金を提供していた。
いろいろ、いきさつもあったが、結局、義親侯の断によって大川一派も、このクーデターを中止したのであった。

なお、義親侯が提供した50万円は、戦後、清水行之助から義親侯に返済され、それがまた社会党創立の資金になっている。
事実は小説よりも奇なりであるが、右翼と左翼とは実際紙一重で、松平春嶽の二男であった血の気の多い義親侯の面目躍如たるものがある。

(参考:岡田益吉 著 『危ない日本史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月第1刷)

(令和元年10月8日 追記)




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