小牧山城 こまきやまじょう

愛知県小牧市小牧町


小牧山城遠景 平成22年4月5日

【小牧山城

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦で今川義元を倒した織田信長は、美濃斎藤氏との対抗上、小牧山に築城。
永禄6年(1563年)、ここに移り、次第に斎藤氏を圧迫して、稲葉山城を攻略して移り、小牧山城は廃城となった。
天正10年(1582年)、信長の死後、急激に増大した豊臣秀吉の勢力を、信長の二男・信雄は黙し得ず、ついに両者は決裂。
天正12年(1584年)、秀吉は12万5千の大軍を率いて美濃に入り、犬山城を占拠。
信雄は徳川家康に応援を依頼。
信雄は家康と連合して4万の兵を従え、小牧山に陣する。
家康は小牧山の城址を本陣として秀吉に対抗した。
この時に小牧山城址は修築しており、山を5段に分けて郭とし、山麓に三重の堀と、西方に総構えを設けた。
家康はかなりの防御を施したようである。
長久手で戦いはあったが、両軍は和睦し、小牧山城は再び廃城となるが、江戸時代は入山が禁じられていた。

(参考:大類 伸 監修 『日本城郭辞典』 秋田書店 昭和58年 第8版)
(参考:別冊歴史読本 『新・日本の名城図鑑』 2001年発行 新人物往来社)


堀と土塁



堀と土塁





(平成22年4月5日)

小牧・長久手の合戦の堀・土塁

江戸時代初期に描かれた春日井郡小牧村古城絵図によれば、このあたりの小牧山の南東麓は、二重の土塁の間に堀が配置されて、外敵の進入を防ぐようになっていました。
現在右側に見える堤防のような土の盛り上がりが土塁で、堀を掘った土を積み上げたもので、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦のときに徳川家康の軍勢が築いたものです。
正面の低い部分が堀ですが、堀は左側の県道の下まで伸びていて、幅12m程だったものと推定しています。
堀の底は平坦で、道のようになっていました。
内側の土塁との比高は5mを超えますが、整備にあたっては、排水の関係上、本来より1m程浅くしています。
堀は水を貯めない空堀でした。
堀のさらに左側には、内側の土塁よりも低い外側の土塁がありましたが、これは江戸時代のうちに削られてなくなりました。
底が平坦で幅の広い堀に外側の土塁があることにより、堀を通路のように使用して多数の軍勢を移動させることができたのではないかとも言われています。

(説明板より)

土塁



土塁





(平成22年4月5日)

小牧・長久手の合戦の土塁

城跡というと石垣を思い浮かべますが、小牧山城で石垣が見られるのは山頂の西側のごく限られた部分だけです。
石垣は敵の進入を防ぐため城の外郭などにめぐらす防御施設ですが、石垣の城が一般化するのは江戸時代になってからで、小牧山城が築かれた時代には、土塁と呼ばれる土で築いた堤防のような施設で敵の進入を防ぐのが一般的でした。
攻城側の兵が堀を越えて土塁を登ろうとすると城兵が土塁上から弓・長槍・鉄砲などで防御するのです。
土塁は堀を掘った土を積み上げて築き、堀と土塁でセットになっているのが普通です。
小牧山城の土塁は、堀の底からの高さが5m以上に及び外側が急傾斜になっていて登りにくい構造をしています。
一方、内側の傾斜は緩やかで、城兵が土塁上に登りやすくしていました。
目の前の土塁は、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦の際、徳川軍が築いたものです。
なお、この出入り口部分は、土塁が切れていますが、旧小牧中学校が昭和22年に建設された際に土塁を削って出入り口としたもので、城当時の出入口ではありません。

(説明板より)

屋外展示模型



屋外展示模型





(平成22年4月5日)

小牧山城と小牧城下町

小牧山は、永禄6年(1563)、織田信長によって初めて城が築かれました。
小牧山の南斜面を中心に曲輪くるわを配置し、東麓には武家屋敷群も配置したとみられます。
信長は清須城から居城を移すとともに、小牧山城の南に、南北1.5km、東西1kmの範囲を城下町として整備しました。
城下町には、清須から武士や商工業者が移住しました。
この当時の信長は、桶狭間の戦いで今川義元を破り、三河の家康と同盟を結んで、尾張国内を統一し、たびたび美濃攻めを行っていた時期にあたります。
永禄10年に美濃の稲葉山城を攻略して、岐阜へ移るまでの4年間が信長の時代です。
永禄10年に信長が岐阜へ移ると、小牧山城は廃城となり、後に小牧村庄屋を勤める江崎氏が小牧山守として管理にあたりました。
城下町は規模を縮小しましたが、町場として存続していました。
天正10年(1582)に信長が本能寺に倒れてから、後継者をめぐる争いが起こります。
そのころ尾張は、天正10年から信長の子の織田信雄のぶかつが領主で、清須城を大改修し、尾張を支配していましたが、豊臣秀吉と対立し、小牧・長久手の合戦が起こります。
信雄から援軍を頼まれた徳川家康は、小牧山に主陣地を構え、南下しようとする秀吉軍と対峙しました。
このとき、徳川軍は、小牧山の信長の城跡に、山麓をめぐる土塁や堀を新たに築くなど、大規模な改修を施し、強固な陣城じんじろとしました。
現在、小牧山に残る城郭遺構は、この小牧・長久手の合戦のときのものです。
小牧・長久手の合戦が和議に終わると、再び、小牧山城は廃城となりました。
江戸時代に入り、小牧山を尾張藩が領有するようになると、「御勝利御開運の御陣跡」として、一般の入山を禁止するなどして大切に保存し、現在まで城郭遺構が良好に残ることになりました。
また、信長の城下町の名残の町場は上うわ(木曽)街道の整備に伴い宿駅しゅくえきとして小牧山の東方へ移転し、現在の小牧市街地の基礎となりました。

(小牧山城・小牧城下町模型)
この模型は、古城絵図や村絵図、地籍図などを参考に復元した小牧山城と小牧城下町です。
城下町は商工業者が集住した町屋部分だけを表現しています。
縮尺は1:1000ですが、高さは1.5倍になっています。

(説明板より)

小牧山マップ (説明板より)

史跡 小牧山
昭和2年10月26日 国指定

市街地の西に位置し、標高85.9b、総面積約21fの小牧山は、尾張平野の中に孤高する眺望の地である。
永禄6年(1563)、小牧山に初めて城を築いた織田信長は、清須から居城を移し、南麓に計画的な城下町を計画した。
しかし、永禄10年に美濃の斎藤氏を攻略した信長は、稲葉山城(岐阜城)へ移ったため、小牧山城は在城わずか4年で廃城となった。
その後本能寺の変で没した信長の後継者争いに起因する小牧・長久手の合戦では、羽柴秀吉軍に対する織田信雄・徳川家康連合軍の主陣地が置かれ、信長の城跡に大規模な改修を加え、陣城とした。
江戸時代には、尾張徳川家の管理下で一般の入山禁止など保護がなされたため、遺構の保存状態は良好で、昭和2年には国の史跡に指定された。
東麓にあった小牧中学校の移転に伴い、平成10年から発掘調査が始められ、織田信長の城であった当時は、堀で区画された武家屋敷が立ち並んでいたこと、小牧・長久手の合戦時には、これらの屋敷跡を一部踏襲して堀や二重の土塁で囲まれた帯曲輪を築造したほか、深い堀を配した虎口(こぐち)を設けるなど、厳重な防御がなされていたことが明らかになった。
これらの成果をもとに、平成13年から遺構復元等の史跡整備が進められ、平成16年4月から史跡公園として公開されている。

平成17年3月
小牧市教育委員会

(説明板より)

小牧山さくらまつりゲート 桜の馬場
大手道



大手道





(平成22年4月5日)

大手道

城の正面から主郭へ至る道で、現在は小牧市歴史館(小牧城)へ至る園路となっています。

昭和61年3月
小牧市教育委員会

(標柱の説明文)

大手道
大手道 大手道
発掘調査写真 発掘調査写真

史跡小牧山主郭地区〜織田信長が築いた小牧山城〜
永禄期大手道の石積

大手道から頂上の主郭(曲輪001)に至る主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16〜19年度にわたり4次の試掘調査を実施しました。
大手道の調査では、山側(この説明板の後ろ)の土塁が、小牧・長久手の合戦(天正期)の折に城の防御を固めるため、徳川家康によって新たに築かれたものであることを確認しました。
また、現在の大手道の下からは、織田信長築城時(永禄期)の大手道が見つかり、天正期の土塁築造に合わせて約1.6m盛土し、整地されたことがわかりました。
永禄期の大手道は、当時の通行によるためか踏み固められており、中央に溝(排水溝)が掘られ、幅約5mを測る道の両側に人頭大の自然石を約3段積んだ石積が配されて大手道の両端を画していました。
この永禄期の石積は腰巻状の低垣で、防御施設として築かれたものではなく、盛土整地部の天端を安定させるために設けられた土留め擁壁の機能を持たせたものであると思われます。
永禄6年(1563)織田信長によって築かれた小牧山城は、美濃攻めのために築かれた一時的な城砦だとする説もありましたが、この調査成果からも長期間の在城を前提として築かれた本格的な城であったことがうかがわれます。

小牧市教育委員会

(説明板より)

虎口
虎口 虎口
発掘調査写真 発掘調査写真

史跡小牧山主郭地区〜織田信長が築いた小牧山城〜
守りの要衝 虎口a

大手道から頂上の主郭(曲輪001)に至る主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16〜19年度にわたり4次の試掘調査を実施しました。
平成18年度の第3次試掘調査では、主郭地区と西側曲輪地区を隔てる堀 I (説明板の南側の堀)、その東側に位置する土塁A、西側の土塁E及び北側の土橋(この付近)の状況を把握すべく、ここ虎口aの調査を実施しました。
堀 I は、土橋によりここが北端部となっており、幅は約6.5mを測ります。
堀底は平坦で、堀底からの高さは、土橋までは2.5m〜3m、土塁Aまでは約6.5m、土塁Eまでは約2.3mあり、堀の法面は40〜50度に作られ、ここが土塁と堀で堅固に防御された守りの要衝であることがわかりました。
小牧・長久手の合戦(天正期)には、土橋が封鎖されました。
江戸時代に作られた小牧山模型を見ると、高い土塁が曲輪の北側まで続くように表現されています。
現在、曲輪003(土橋を上がった所の平坦地)の縁にある土塁Aは、わずかな高まりを残す程度ですが、これは、明治時代に小牧山が一時期県立公園となり、曲輪003に「創垂館」を建設するために土塁Aを削平し、現在の園路も通されたと考えられます。
削平された土が曲輪内に敷均され、土橋、堀 I 、土塁Eにも押し出されたようで堀 I では2.6mの厚さで土砂の堆積がみられたどころがありました。

小牧市教育委員会

(説明板より)

巨石石垣の露頭
巨石石垣の露頭 巨石石垣の露頭
発掘調査写真 発掘調査写真

史跡小牧山主郭地区〜織田信長が築いた小牧山城〜
巨石石垣の露頭

大手道から頂上の主郭(曲輪001)に至る主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16〜21年度にわたり試掘調査及び発掘調査を実施しました。
以前から、曲輪001の北西法面の一部に石垣の巨石群が露頭していることは知られていましたが、この露頭する石垣の両側で実施した法面の調査により、曲輪001の西法面から北西法面、さらに北東法面の一部にかけて、石垣が連続して残ることがわかりました。
これまでに確認した曲輪001法面に残る石垣のうちでは、ここの西法面で使われた石が最も大きく、縦約1.3m、横約1.9mの石が3つ続けて並べられています。
大きな石が使われているためか、西法面から北西法面の露頭石垣までは、他に比べて石垣はよく残っています。
露頭石垣から北側では、所々で積み石が抜け落ちている状況が見られました。
曲輪001の法面の石垣は、その屈折具合や築かれた面の傾斜具合から、山の地形に合わせて築かれた塁線である印象を与えています。

小牧市教育委員会

(説明板より)

主郭の段築状石垣
主郭の段築状石垣 発掘調査写真 
発掘調査写真

史跡小牧山主郭地区〜織田信長が築いた小牧山城〜
主郭の段築状石垣

大手道から頂上の主郭(曲輪001)に至る主郭地区の史跡整備に向けて、遺構の遺存状況を確認するため、平成16〜19年度にわたり4次の試掘調査を実施しました。
曲輪001の南西法面にあたるこの場所の調査では、織田信長の築城時(永禄期)の石垣を確認しました。
積み石は、斜面に露頭する巨石を一部に遺すのみでしたが、土中からは割石状の裏込石が大量に出土し、積み石の背後に裏込層を備えた本格的な石垣が築かれていたことがわかりました。
織豊期城郭として石垣を採用する初現となる小牧山城では、築造技術がまだ未成熟であったのか、石垣使用が常用化する近世城郭の高石垣と異なり、自然石の巨石を2〜3個積上げた低い石垣を段築状に築いた石垣であったことがうかがえます。
初期の石垣であり、防御施設としては決して堅固なものではありませんが、後に織田信長が天下人の威厳を示すために築いた安土城天主のように、小牧山の頂にそびえるように見えた石垣は、南麓の城下町に住んだ家臣団や領民の度肝を抜いたかもしれません。

小牧市教育委員会

(説明板より)

天守閣(歴史館) 天守閣(歴史館)
天守閣(歴史館)

国指定史跡 小牧山と歴史館のご案内

小牧山
標高85.9m、 面積約21万平方メートル(約6万3千5百坪)
小牧山は、本市のほぼ中央、市街地の西側にあって、濃尾平野に孤立する小さな山で、昭和2年一般に公開、この年国より史跡の指定を受け、その後徳川家から小牧町(当時)へ寄付されました。
この山は古くから桜の名所として親しまれ、今日では4月上旬に「小牧山さくらまつり」が催され、たくさんの見物客でにぎわいます。
歴史館(小牧城)は昭和43年、平松茂翁(故人)が私財を投じて建設し小牧市に寄付されたもので、鉄筋コンクリート三層四階建て、高さ19.3メートル、秀吉が京都聚楽第に建てた飛雲閣(現西本願寺内)をモデルにして名古屋工業大学城戸久教授(故人)の設計によって建てられました。
館内は市指定文化財の銅鐸、銅鏡をはじめ考古・民族・歴史資料や小牧・長久手合戦のパノラマなどが展示されて小牧市の歴史を知ることができます。
永禄6年(1563)織田信長が美濃(岐阜)に進出する大志のもとに、地の利を得たこの山に目を付け、清須(洲)城から移ると共に山全体を要塞にするため、山頂から麓まで五段の塁濠を作り、山頂に屋敷、南側に大手道、北側に搦手道をつくりました。
中腹には馬場をつくったり、井戸を掘ったり、また要所に重臣の邸宅を置きました。
当時は、北側は池沼で自然の要害であったため工事は省かれましたが、南側は原野であったため大工事であって、あちこちに堀をつくりましたが、それらは今なお山中にみられます。
その後信長は美濃に攻め入って岐阜稲葉城に移り住んだので、この山は自然廃城となりました。
そして小牧・長久手の戦で再び歴史の舞台に登場してきます。

天正小牧山合戦
天正10年(1582)の本能寺の変の後、信長の後継者問題で二男信雄と秀吉が対立、秀吉は信雄を懐柔しようとしますが、これに応じずかえって反逆したため北伊勢の居城を攻撃します。
信雄は驚き家康に援助を求めたところ、信長に恩のある家康はこれを引き受け、自ら大軍を率いて清須(洲)城に入り、地の利第一の小牧山に軍を進めました。
一方秀吉は大坂(阪)城を出て犬山に入り、市内の岩崎山を中心にこの付近各地に巾広く砦を築いて、小牧山の家康。信雄軍と対峙しました。
この時の両軍の兵力は十万余と言われます。
しかし、戦いは小ぜり合いを繰り返し、長く膠着状態が続きました。
秀吉は、部下池田輝信の再三の進言によって、家康の居城である岡崎城を攻撃すれば一挙に解決するものと考え、軍の一部を密かに移動させますが家康軍に気付かれ、家康自ら秀吉軍を急進撃します。
これが長久手を舞台に繰り広げられた長久手の戦いで、家康軍の完勝となりました。

小牧市

(説明板より)

天守閣から見た景色
天守閣から見た景色 天守閣から見た景色
御野立聖蹟碑


御野立聖蹟

参謀総長陸軍大将 鈴木荘六 書



(平成22年4月5日)
徳川義親像



尾張徳川家十九代
徳川義親氏之像



(平成22年4月5日)
遊歩道 遊歩道
忠魂碑



忠魂碑





(平成22年4月5日)

忠魂碑の由来

この碑には、
日清戦争1894(明治27)〜95年
日露戦争1904(明治38)〜05年
満洲事変1931(昭和6)年
日中戦争1937(昭和12)〜太平洋戦争1941(昭和16)〜45(昭和20)年
における幾多の戦役に対し、国難に殉じた市内出身の戦没者1380余名の尊い御霊が祭祀されています。
碑の建立は1919(大正8)年旧自治体が諸団体の協賛を得て1922(大正11)年3月8日に創建されました。
設計は京都帝国大学工学士 穂積善三郎氏。
青銅の碑は、大阪砲兵工廠にて鋳造。
碑前の、タブの木は1921(大正10)年12月 閑院宮・梨本宮両殿下のお手植。
碑文字の揮毫は、陸軍大将伯爵 奥 保鞏氏。
創建以来、招魂祭は自治体の主催で毎年4月行なわれていたが、1945(昭和20)年太平洋戦争に敗れた我が国は、独立までの6年間アメリカなど進駐軍の占領下にあり、その政策で、自治体による護持祭典の関与が禁止されてしまいました。
爾来、58年間放任された境内地は荒廃が進み、碑の現状と将来を危惧した遺族会は、2004(平成16)年、浄財を募り、碑の修理や境内の整備修復を行ない、市内出身の全戦没者を再調査の上、新たに合祀し、御霊のご遺徳の顕彰とご冥福を祈り、併せて恒久平和を祈念しているものです。

2007(平成19)年4月
小牧市遺族会建之

(由来碑・碑文)

徳川宗睦の墓


亞相二品天祥院殿?譽峻徳源明公 尊儀

尾張藩第9世藩主・徳川宗睦公の墓



(平成22年4月5日)

墓誌

尾張藩第9世藩主 徳川宗睦公
父・徳川宗勝 母・一色嘉代の次男
享保18年9月20日生
寛政11年12月20日薨
昭和27年 名古屋建中寺より移遷

権大納言従二位源明公墓誌

維 権大納言従二位尾張侯徳川源明公之墓也 公諱宗睦字子和幼名熊五郎父 権中納言従三位戴公母一色氏 戴公為支封高須侯以享保十八年癸丑九月二十日生 公於江戸四谷高須侯邸及 戴公継宗國 公亦従為世子寛保二年壬戌十二月四日加元服稱右兵衛督延享元年申子十二月朔叙従三位任左近衛中将寶暦三年癸酉十二月朔任参議中将如故十一年辛巳六月二十二日 戴公逝八月五日襲封十二月朔任権中納言天明元年辛丑三月十五日任権大納言叙従二位褒其久持國政也 公天資温厳修文講武仁愛弸中政教彪外初寶暦中 公娶 准三后近衛藤原家久公女先逝追號 轉陵ユ生二子皆先逝謚 孝世子 ■世子以 公無嗣養姪高須侯為嗣逝謚 白世子世子有子又逝謚 懐世孫重養弟従四位下少将勝長朝臣子為嗣夭追號 教令院於是養
征夷大将軍源公第三子為嗣亦夭追號 瑞巌院終養 左近衛権中将従三位徳川源治國卿長子為嗣 仝侯従三位左近衛権中将齊朝■也寛政十一年巳未十二月二十日 公病逝於市谷邸春秋六十有七謚曰明越翌年庚申正月十六日發引霊轜経東海道十日而歸尾張至建中寺二十七日以禮安■其兆域乃叙事刻石蓋慮異時陵谷變遷云

尾張儒臣須賀安貞頓首謹識

(墓誌碑・碑文)

搦手口



搦手口





(平成22年4月5日)

小牧山城縄張図 (説明板より)

史跡小牧山
昭和2年10月26日 国指定史跡

小牧山は、標高85.9m、面積約21haを測る。
平野の中央に孤立する小山で、山頂からは濃尾平野を一望することができる。
永禄6年(1563)、織田信長によって小牧山城が築かれ、天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦の舞台となり、歴史にその名を残している。
信長は、永禄6年、美濃攻略のため清洲城から小牧山へ移り、山全体を城域じょういきとし、多数の曲輪くるわを設けた。
要所には重臣の館を置き、南方に大手道を開き、南西中腹には馬場を設けたという。
また小牧山南麓から西麓に城下町を形成した。
しかし、信長は永禄10年に美濃の斎藤龍興たつおきを攻略して岐阜城へ移り、小牧山城は廃城となった。
本能寺の変の後、信長の後継者争いが起こり、天正12年、豊臣秀吉と信長の二男信雄のぶかつ・徳川家康連合軍とが小牧山で対陣した。
小牧・長久手の合戦である。
犬山城方面から侵攻し、小牧市北部に陣を敷いた秀吉軍に対して、家康軍は小牧山城を主陣地とし、小牧山の東方にも砦を築いて対抗し、持久戦となった。
現在残る城郭遺構は、信長が築いた城跡の曲輪を踏襲しつつ新たに土塁・堀を築くなどして改修された家康軍の陣城じんじょうの跡である。
小牧山城の縄張りは山麓と中腹の横掘で二重に囲い込まれる。
中腹の横堀は、概して浅いか堀相当の平地の前面に低い土塁を配するものが多い。
山麓の長大な土塁と横堀は家康軍の改修の際に築かれ、秀吉軍と直接向かいあう東から北にかけて、大軍勢を収容する幅広な帯曲輪おびぐるわと北側の「搦手口からめてぐち」などの出撃用の虎口こぐちが築かれたと推定されている。
史跡小牧山は現在でも各所に土塁や堀の跡が見られ、織豊しょくほう期城郭を良好に保存した希少例として貴重な存在である。
なお、山頂に建つ歴史館(小牧城)は、秀吉が京都聚楽第じゅらくだいに建てた飛雲閣ひうんかく(現在、西本願寺内)をモデルに昭和43年に建設されたもので、郷土資料が展示されている。

小牧市教育委員会

(説明板より)

小牧・長久手の合戦主要城館図 (説明板より)

両軍の布陣図 (説明板より)

土塁断面展示
土塁断面展示 土塁断面展示

土塁断面土層の解説

@黒色土層
   土塁が造られる前の土層。この上面が信長時代の地表。
A整地土層
   何種類かの土を敷いて叩き固めて、土塁の基盤を造っている。
B黒褐色土層
   堀から堀り上げた土を積む(最初は黒っぽい土)
C黄色土層
   堀を掘り進み地山じやまの黄色土を積上げている。
D褐色土
   仕上げは、土塁内側の土を掘って、土塁内側へ積上げている。

(説明板より)

帯曲輪
帯曲輪 帯曲輪
帯曲輪 帯曲輪
虎口



虎口





(平成22年4月5日)

虎口g

虎口 g は、小牧・長久手の合戦の際、土塁に幅1.5m程の切れ目をつくり出入口としたものです。
虎口付近で、土塁をL字形に屈曲させることにより、内部が見えにくくしています。
また、虎口 f と同様、虎口の前面に深い掘SD09を配置した堅固な造りですが、江戸時代初めに堀を利用して木津こっつ用水が築かれたため、全体の構造は明らかに出来ませんでした。

(説明板より)


神明社


神明社

(愛知県小牧市小牧5−153)




(平成22年4月5日)
神明社本殿



神明社本殿





(平成22年4月5日)

御由緒

小牧神明社の祭神は、天照大神で、永禄6年(1563)、織田信長が清須から小牧山へ居城を移した際、災厄除けのために、清須にあった御園神明社を守護神としてこの地に分祀したのが創建である。
天正12年(1584)の小牧・長久手の合戦では、小牧山に布陣した織田信雄、徳川家康が崇敬したという。
江戸時代に入り、尾張藩祖徳川義直公がこの地に来遊した折、小牧山の東麓にある神明社を吉祥の社として、牡丹の造花数十本を下賜して子供達に持たせて歌舞させた。
後の寛文7年(1667)には二輌の山車を造り牡丹の造花を高欄に飾り、3月16日の例祭日小牧宿の街路を曳き回すようになったが、これが小牧神明社の春祭、神明祭の起源である。
現在は、山車は一輌となったが、小牧市指定有形民俗文化財に指定されていて、春の例祭には子供達が境内に据えられた山車舞台の上で日本舞踊を披露している。
明治時代以降、神社の整理・統合が進み、明治42年(1909)に南宮社を合祀したのを皮切りに、津島社、金比羅社、秋葉社、須佐之男社、山神社、稲荷社などが合祀された。
現在では、合祀された神社の祭礼も神明社を舞台として行われている。
小牧神明社の三大祭、春の神明祭の他、夏、四輌の山車が練り歩く秋葉祭(山車四輌は小牧市指定有形民俗文化財)では境内で山車に搭載された絡操りの演技が奉納され、秋の天王南宮祭では小牧市無形民俗文化財「五本棒オマント奉納神事」も境内での奉納を行っている。

祭神
天照大神
金山彦神
健速須佐之男命

(〜以下略〜)

小牧市教育委員会 撰文

(由緒碑・碑文より抜粋)




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