1600年10月12日(9月6日の説あり)〜天和2年4月17日(1882年5月24日)
名は之瑜しゆ、舜水は号。
浙江省余姚よよう生まれ。
経世在民の志を抱き、一族の期待を受けながらも明末の混濁した官界に違和を感じて度重なる明朝からの仕官要請に応じず、明末の遺臣・鄭成功ていせいこうの南京攻略に従軍して敗北し、明室復興を諦めて万治2年(1659年)に日本の長崎に亡命した。
この時、柳河班の安東省庵せいあんの援助を受けた。
寛文5年(1665年)水戸藩の小宅処斎おやけしょさいの推挙で同藩の賓客となり、藩主・徳川光圀の厚遇を受け、前期水戸学の形成に影響を与えた。
『大日本史』編纂に大きな功績を残した安積澹泊あさかたんぱくはその弟子で、朱舜水の学問を実理・実学と評言している。
レリーフ (平成18年7月7日) |
朱舜小碑 (茨城県常陸太田市新宿・西山荘手前) (平成18年7月7日) |
碑文
朱舜水(1600―82)は中国の浙江省余姚に生れた明の儒学者
朱は姓 舜水は郷里の河川からとった号 名は之瑜 字は楚■ また魯■ 諡は文恭
12回におよぶ明朝からの仕官のすすめにも応ぜず ひたすら南明復興運動に身を捧げ 中国の舟山を中心に安南 長崎の間の三角貿易に従事して資金調達を図り あるときは安南に抑留されて死を決した
鄭成功の南京攻略に従軍したが 抗清復明の夢破れ ついに日本に永住の地をもとめられた
先生の学風は 義公の知遇をうけて 水戸学の形成に深い影響を与え 江戸で永眠された
湊川神社楠氏の碑文は先生の撰 瑞龍山に明徴君子朱子墓がある
昭和51年4月吉日
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