安積澹泊像 平成20年10月12日

安積澹泊 あさか・たんぱく

明暦2年11月13日(1656年12月28日)〜元文2年12月10日(1738年1月29日)

茨城県水戸市・水戸市立第二中学校(水戸二中)でお会いしました。


常陸国水戸藩士。
祖父以来水戸藩に仕え、水戸藩の賓客であった明の遺臣・朱舜水しゅすんすいに師事して儒学を学ぶ。
天和3年(1683年)彰考館編集、元禄6年(1693年)同総裁となり、2代藩主徳川光圀のもとで「大日本史」編纂の中心的役割を果たす。
致仕後も紀伝稿本の筆削補訂に従事。
新井白石・室鳩巣・荻生徂徠らと親交があり、前期水戸学を代表する学者。


安積澹泊像



安積澹泊像
(水戸市・水戸市立第二中学校)





(平成20年10月12日)

碑文

安積澹泊は、10歳のとき光圀に招かれていた明の学者朱舜水に入門し、その厳しい指導を受けて学問を修め、28歳のとき史館に史員として入った。
以来、82歳で没するまでの50余年の長い間「大日本史」の執筆や校訂にあたった。
特に光圀の没後は彰考館総裁として活躍し、晩年には、新井白石・荻生徂徠などの学者と学問的交渉を深め、水戸史学を代表する学者として信望を高めた。

大日本史編纂の地碑



「大日本史編纂之地」碑

(茨城県水戸市・水戸市立第二中学校)





(平成20年10月12日)

碑文

 大日本史録
 先人十八歳諱伯夷傳跡然有慕其高義撫巻嘆曰
 不有載籍■夏之又不可得而見不由史筆何以■
 後之人有所観感■是乎概焉立修史之志上根據
 實録下採■私史■捜名山之逸典博索百家之■
 記綴■數十年■成一書■自
人皇肇基二千餘年
神裔相承
刻聖■統姦賊未■生■■之心神器所在與日月■
 照猗與盛■究其所原寔由
祖宗仁澤固結民心盤石邦基也其明良際會都■呼
 ■之美考諸舊記可以概見■乎中葉
英主迭興持■守成嘉謨徽猷莫■于古而■■不■
 明辟賢輔之■多堙■不章者豈不重可惜乎■斯
 書之所以作也綱條在膝下毎聞其言白史者所以
 記事也■事直書勧懲自見焉自上世迄今風俗■
 ■政理隆替■■然如■諸掌善可以為法悪可以
 為戒而使■賊之■知所懼将以裨益世教維持綱
 常文不可不直事不可不■如有所出入左右則豈
 可謂之信史乎如是書則惟務其實不求其華寧■
 ■繁莫過■簡至其■栽姑有■乎大手筆家未及
 成先人即世綱條雖■似服膺遺嘱■敢失墜閲乎
 餘年校訂略完自
神武至
後小松■世一百立為本紀七十三列傳一百七十都
 二百四十三巻名曰大日本史非敢謂
 昭代之成典及■後来修史者之採■爾若夫■運
 開塞行事得失可以為勧可以為戒者質悉■事■書
 不敢有所出入左右亦所以遵奉先人之意也
正徳五年■未十一月
     権中納言従三位源綱條謹序

水戸彰考館跡



水戸彰考館跡
(茨城県水戸市三の丸2−9−22・水戸市立第二中学校)





(平成20年10月12日)

水戸彰考館跡

水戸光圀(義公)が大日本史を編集した彰考館は、はじめ江戸の藩邸内にあったが、光圀が西山に隠居したため元禄11年(1698)この地に移された。
しかし光圀が没した後130年間は、江戸・水戸の両館に分かれて分担編集し、幕末に再びここにもどり、明治維新後は、偕楽園南隅に移って明治39年(1906)全てを完成した。

(説明板より)

彰考館図 (彰考館・説明板より)


【安積澹泊】 

安積澹泊は、明暦2年(1656年)11月13日に水戸で生まれた。
安積家は澹泊の祖父・正信の時に水戸藩初代藩主・徳川頼房に仕え、300石(のちに400石)を与えられた。
その子・貞吉が澹泊の父で、正信の死後に400石を相続したが、病身のためにこれを辞退し、寄合組となった。
儒学を好み、詩文著述に通じて、『祭礼私考』『希斎集』などの著作を残した。
貞吉は、かねてより我が子(澹泊)を、優れた師につけて学問させようと願っていたが、寛文5年(1664年)に、第2代藩主・徳川光圀が朱舜水しゅしゅんすいを伴って水戸に帰ったのを機に、光圀に願い出て澹泊を舜水の弟子にしてもらった。(澹泊10歳)
澹泊は寛文5年の暮れに江戸に出て舜水のもとで学問修業を始めたが、翌年の7月17日に父・貞吉が亡くなったので水戸に帰り、家督を継いで下の寄合組となった。
翌寛文7年に舜水が水戸を訪れた時に再び教えを受け、翌年、舜水に従って江戸に出た。
舜水は澹泊の学才を賞して「日本に来て句読を授けた者は多いが、よくこれを暗記し、理解したのは、彦六(澹泊の幼名)だけだ」と言ったという。

寛文10年春、痘瘡を病んで水戸に帰った澹泊は、同年5月8日に200石を給されて大番組に列した。
延宝3年(1675年)10月4日に小納戸役、同7年9月に唐物奉行を兼ね、天和3年(1683年)8月2日に史館編集に任じられた。(澹泊28歳)
史館入りした澹泊は、益々その学才を発揮し、元禄2年(1689年)には吉弘元常・佐々宗淳両総裁とともに、修史義例の作成に関与した。
元禄5年正月11日には100石を加えられて300石となり、同6年6月6日には死没した鵜飼錬斎うがいれんさいの後任として彰考館総裁に就任した。
同9年には佐々宗淳・中村顧言これときらとともに『重修紀伝義例』を作成して修史の方針を明瞭にし、また『神功皇后論』を著わして皇位継承についての所信を披露した。
元禄13年(1700年)に光圀が没すると、澹泊は翌14年、第3代藩主・徳川綱條つなえだの命により、中村顧言・栗山潜鋒くりやませんぽう・酒泉竹軒さかいずみちくけんとともに『義公行実ぎこうぎょうじつ』を編集。
元禄14年10月21日に総裁の職はもとのままで、小姓頭に昇進した澹泊は、栗山潜鋒らとともに紀伝の稿本全般を点検し、加除訂正の筆を振るった。

澹泊は正徳4年(1714年)6月12日に総裁の職を免じられたが、これは繁雑な事務から澹泊を解放し、『大日本史』編纂に力を集中させるための処置であったので、史館勤務はもと通りで、翌年12月6日の光圀の忌日には稿本再校の業を終え、紀伝全巻を第3代藩主・徳川綱條に上呈した。
享保元年(1716年)、綱條の命により、『大日本史論纂』の執筆を開始し、同5年に完成させた。
「論纂」とは史伝を記述したあとに、記述者が加える論評のことである。
澹泊は享保6年11月27日に新番頭列、同7年4月19日に新番頭となった。
享保8年(1723年)に、第4代藩主・徳川宗堯むねたかの命により、『義公行実』を修訂、『常山文集』の付録として印刷した。
また、享保9年に、澹泊が『義公行実』の付録として著わしたのが、『西山遺事』である。
享保12年3月12日には組支配を免じられ、再び史館に専念、同年7月28日には徳川家康一代の実録である『烈祖成績』の編集を命じられた。(享保17年に完成)
享保18年3月24日には、多年にわたる史館での勤功を賞されて、時服を下賜され、致仕ちしして「老牛」と号した。
致仕後も十人扶持を与えられて史館の業務に関与することを許され、享保19年から総裁・小池桃洞、打越撲斎らを指揮して紀伝稿本の総吟味を続行し、元文2年(1737年)11月にようやくその事業を終えた。
しかし、連日にわたる校訂作業の過労からか、その後数日を経ずして倒れ、同12月10日に水戸梅香の自宅で没した。(澹泊83歳)

穏和な人柄で、菊づくりを趣味とし、学者として博識かつ謙虚であった。
『大日本史』の編纂に携わること実に55年の長さにわたり、晩年には、新井白石、室鳩巣、荻生徂徠などと学問を通じて親交を深め、水戸を代表する学者として声望が高かった。

(参考:水戸市教育委員会発行 『水戸の先人たち』 平成22年3月発行)

(平成29年6月25日 追記)


 平成21年5月15日

茨城県水戸市・JR水戸駅前でお会いしました。




水戸黄門 助さん格さん像

(茨城県水戸市・JR水戸駅前)

左:助さん(佐々木助三郎=佐々介三郎=佐々宗淳)
中央:黄門様(水戸黄門=徳川光圀)
右:格さん(渥美格之進=安積覚兵衛=安積澹泊)


(平成21年5月15日)





JR水戸駅






(平成21年5月15日)

水戸黄門と助さん格さん

水戸黄門で知られる徳川光圀は江戸幕府を開いた徳川家康の孫にあたり御三家水戸藩の第二代藩主である
藩政では人間尊重の立場に立ち 常に庶民に対する思いやりの心を忘れず また大日本史の編さんや文化財の保護に意を用いるなど大胆な文化行政によって平和時の英雄とも評された
明治以後光圀を主役とする諸国漫遊記の類が創作されたのはこうした光圀の心を汲みとったものであろう
黄門というのは昔朝廷から任命された中納言のことである
その中納言は他に何人もいるのに水戸黄門といえば光圀を指すようになったのはそれだけ光圀が天下に有名だったからである
お供の助さん格さんは佐々介三郎 安積覚兵衛がそのモデルといわれ共に大日本史編さんに尽力した学者である
三人がそろって旅したことはないが光圀の命で介三郎らが史料収集のため全国を旅しているのでそれが漫遊物語に発展したのであろう
この度水戸駅北口再開発事業を記念して光圀誕生の地に隣接する水戸駅前にこの像を建立するものである
中央が水戸黄門左が助さん右が格さんをイメージしている

制作 小森邦夫
撰文 瀬谷義彦
題字 北條蘭徑

平成5年(1993年)2月 建立 水戸市

水戸黄門ゆかりの主な史跡案内  距離は当地からの概算です

(説明碑・碑文より)

安積澹泊像 平成20年6月30日

茨城県水戸市・桂岸寺でお会いしました。

水戸黄門諸国漫遊旅姿像

水戸黄門諸国漫遊旅姿像
(茨城県水戸市・桂岸寺)

右:助さん(佐々 介三郎)
中央:水戸黄門(徳川 光圀)
左:格さん(安積 覚兵衛)

(説明板より)

(平成20年6月30日)
水戸黄門諸国漫遊旅姿像



水戸黄門諸国漫遊旅姿像
(茨城県水戸市松本町13−19・桂岸寺)





(平成20年6月30日)

故老牛居士安積君墓



故老牛居士安積君墓

(茨城県水戸市・常磐共有墓地)





(平成20年6月30日)

水戸黄門漫遊記の「格さん」こと
安積澹泊の墓

明暦2年(1656)生〜元文2年(1734)歿  享年82歳

水戸の生まれ。
名は覚。
朱舜水に学び38歳で史館総裁となり、歿年に至るまで「大日本史」紀伝の編集・校訂に力を尽くしました。
恭謙な人柄で知られ菊を愛し、勤勉博識で、多くの著述を残しました。

(説明板より)

安積澹泊

大日本史の編纂に顕著な功績のあった安積覚は号を澹泊と称した。
若い頃から学問を好み 父の願いで朱舜水の弟子となり儒学を学んだ。
その後義公光圀から認められ彰考館の編集となり、やがて佐々介三郎などと並んで総裁に進んだ。
博覧強記で史学に通じた澹泊は 義公の没後も後進を指導し82歳で没するまで55年の間修史に尽力した。
彼は大日本史の論賛や烈祖成績その他著書も多く、また新井白石や室鳩巣などとも史学を論じた。

水戸市教育委員会

(説明板より)



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