荻生徂徠 おぎゅう・そらい

寛文6年2月16日(1666年3月21日)〜享保13年1月19日(1728年2月28日)


父親の方庵は上野国館林藩主時代の徳川綱吉の侍医。
江戸で生れ、父と上総国に流浪して25歳の時に許されて帰府する。
講義などで生計をたてる生活の後、柳沢吉保に仕え、将軍綱吉の学問相手などを勤めた。
また、赤穂浪士処断など政治上にも献策している。
当初、朱子学を修めたが、唐音学習も始め、40歳頃から古文辞学を提唱し、詩文革新に努力。
宝永6年(1709年)藩邸を出て私塾を開く。
堀川(古義)学派や新井白石らとはライバル関係にあった。
門人らと経典解釈の仕事を進め、やがて独自の体系を樹立した。
その学派は”けい園学派””古文辞学派”と呼ばれる。


荻生徂徠は江戸時代、中国語(漢文ではない)の読み書きのできるほとんど唯一の漢学者であった。

(参考:栗田尚弥 著 『上海 東亜同文書館〜日中を架けんとした男たち〜』 新人物往来社 1993年第1刷発行)

(平成29年2月9日 追記)


【徂徠学の特色】

1.古文辞こもんじ(古い言葉の文章のこと)を重んじたこと
2.極端な自由主義を奉じたこと
3.実学を重んじたこと
4.漢文直読直解法ちょくどくちょっかいほう(読んで自分で文章を解いていくこと)を主唱したこと

(参考:松森胤保翁顕彰会 編 『郷土の偉才 松森胤保』 平成元年7月発行)

(令和2年10月22日 追記)


【古文辞学】

荻生徂徠は、古文辞学というものを展開して、中国の儒学よりも徹底した形で、儒学の古典における思想体系を整備して、そこから「先王の道」こそが社会秩序の根源であることを明らかにしようとした。
そして、それを現実の政治のなかに生かすことについての、合理的な政治学をも展開してみせた。
徳義をふりかざすような徳治とくち主義ではなくて、道徳を法治ほうちにまで具体化しようとしたのである。

(参考: 西部邁 著 『国民の道徳』 扶桑社 平成12年11月 第2刷発行)

(令和2年8月31日 追記)


【赤穂浪士の処置について】

赤穂浪士の仇討に対する処置について、厳罰を主張したのは荻生徂徠であった。
徂徠はこう主張している。
「赤穂浪士が徒党を組んで秩序を乱した罪は重い。林大学頭(信篤は赤穂浪士の義挙を賛美していた)のいうことは学者の理論であって、政治というものはそんなものではない。もっと先々のことを考えねばならぬ。かれらを助命すれば、吉良家や上杉家のものも、そのままにしておけないであろう。かくして騒ぎはますます大きくなるばかりである。法を守らなければ、世の中の秩序は保てない」と。(大宅壮一著『炎は流れる』第一巻)

(参考:岡田益吉 著 『危ない昭和史(上巻)〜事件臨場記者の遺言〜』 光人社 昭和56年4月 第1刷

令和元年10月8日 追記)


荻生徂徠の墓所


荻生徂徠の墓所

(東京都港区三田4−7−29・長松寺)

墓石が3つ並んでいますが、どれが徂徠の墓なのか分かりませんでした。



(平成18年7月16日)

荻生徂徠の墓

名は雙松なべまつ、字は茂卿しげのり、通称惣右衛門、徂徠はその号であり、物部氏の出を称したところからしばしば物茂卿ぶつもけいと自署した。
徂徠は徳川時代の最大の儒者の一人であり、大東の文章我を俟ってはじめて興ると自ら豪語したのは必ずしも誇張ではない。
彼の学問は日本儒学史に一大転換をもたらしただけでなく、清朝の儒者からも高い評価を受けた。
〔学問の特色〕
父方庵の赦免によって南総から江戸に戻り、元禄9年(1696)柳沢吉保に仕えて、5代将軍綱吉の知遇を得て儒学を講じた。
その頃から早くも徂徠は中国語の会話に関心を持っていたが、言語の構造の歴史的変遷に着目する彼の方法はやがて「古文辞こぶんじ学」に結晶し、享保以後朱子学にたいする体系的批判の展開となって、学会に大きな衝撃を与えた。
江戸後期の経学は朱子学者を含めて、積極消極両面で徂徠の影響なしには考えられない。
徂徠が綱吉没後、日本橋茅場町に開いた私塾は地名にちなんで「■園けいえん」と名付けられたが、これはまた徂徠学派の別名ともなった。
〔学問の範囲〕
徂徠の学問はいわゆる経学の革新をもたらしただけでなく、その学風は文学、芸術から兵学、法律、教育、民俗学などおどろくべき広汎な領域に及んだ。
そのなかでも、人間の自然的感情を尊重し、これを画一的な道徳規準から解放しようとする態度は、国学をはじめとする江戸後期の文学運動と文人趣味に受けつがれ、日本における近代芸術の動向の有力な源泉となっている。
〔政治的献策〕
治国平天下という儒学の原点への復帰を主張する徂徠の立場は、学理にとどまらず現実政治へのさまざまな献策として現われた。
早く赤穂浪士事件にたいする彼の著名な意見具申をはじめとして、8代将軍吉宗の諮問に応じて幕藩体制の根本的病理を縦横に解剖し、また江戸の消防組織から通貨対策にいたるまでのきわめて具体的な政策を提唱した。
これら現実政治を扱った「政談」その他の徂徠の論考は、没後世上に流布し江戸後期の政治思想にさまざまの影響を及ぼしている。
〔主要著書と門人〕
徂徠のおびただしい著書のうちもっとも著名なものは、経学として「学則」「弁道」「弁名」「論語徴」、諸子及び兵学として「読荀子」「読韓非子」「呉子国字解」「ツ録けんろく」、随筆として「南留別志なるべし」「■園随筆」などがあり、また門弟によって編纂された「徂徠集」31巻がある。
個性の伸長と寛容の精神に立った徂徠の教育方針は、天下の英才を■園に蝟集させる結果となった。
主要な高弟には服部南郭、安藤東野、山縣周南、太宰春台、山井崑崙こんろん、宇佐美■水などがある。
享保13年(1728)1月19日没、享年63歳。
墓誌銘は伊勢神戸藩主本多伊予守忠統ただむねの作である。
昭和53年(1978)1月19日 没後250年を記念してこれを建てる。

八代之裔 荻生敬一

(説明板より)

長松寺



長松寺
(東京都港区三田4−7−29・長松寺)





(平成18年7月16日)

国指定史跡
荻生徂徠墓

所在地 港区三田4−7−29
指 定  昭和24年7月13日

江戸時代中期の儒学者。
字は茂卿しげのり、通称惣右衛門、徂徠は号である。
寛文6年(1666)江戸に生れた。
14歳から13年間、父方庵ほうあんに従って上総国長柄郡本納村に流寓の生活を送り、独学自習、将来の学問の基礎を築いた。
元禄3年(1690)江戸に戻り、柳沢吉保よしやすに用いられ、将軍綱吉にもしばしば儒学を講義するようになった。
綱吉没後、日本橋茅場町に家塾「■園けいえん」を開いた。
宋学を重んじ、伊藤仁斎の復古学を批判し、古文辞学を大成した。
その学問は経学けいがくのみでなく江戸後期の政治、経済、文学等に大きな影響を与えた。
「論語徴」「明律国字解みんりつこくじかい」「訓訳示蒙くんやくじもう」「■園随筆」等多くの著書がある。
将軍吉宗の諮問に応えて享保7年(1722)「政談」を幕府に献上した。
享保13年(1728)1月19日63歳で死去した。

平成12年3月設置
東京都教育委員会

(説明板より)

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